過去・その1
「どうかな?」という問い掛けの言葉は、俺、道木叶太にとって、必要以上の意味を持つ、悪い意味で特別な言葉だった。
きっかけは些細なことだったように思う。たぶん小学校低学年くらいのときに、先生が俺に対して「どうかな?」と問いかけたことだ。
それを聞いたクラスメイトのお調子者の、特に友達でもないやつが、「どうきかなたで、どうかなじゃん!」と。大して面白くもないダジャレであったが、普段の俺が真面目くんだったこともあったのか、教室は笑いに包まれた。
今になって思えば、そのときの俺の態度が悪かったように思う。
「やめろよ~」と軽く流したり、「はい先生!どうかなです!」と開き直ってひとウケ狙っていればこんなことにはならなかった。
俺はただ、顔を真っ赤にして、涙を堪えるように、黙って立っていただけだった。
大勢の前で笑いものにされるのが初めてだったし、名前っていう、自分ではどうにもならない部分でいじられるのが、言い返せないし、理不尽だと思った。
小学生にとっては、格好の的だろう。あの真面目ぶってる道木が、「どうかな?」と名前いじりをするだけで、真っ赤になって言い返せなくなるという情報は、人をからかって遊びたい時期の子どもたちにとって、面白いおもちゃを見つけたようなものである。
いじめ、というほどでもないが、しつこい嫌がらせを受けるようになった。
なにかを提案するときに、「どうかな?」と、そこだけ俺の方をみて、わざとらしくニヤニヤしながら言ってみたり、
周りでどうかな?どうかな?と騒ぎ立てたあとに、俺が動こうとすると、「どうかなが怒った!」とか言って、笑いながら逃げ出したり。
俺には無視することができなかった。屈辱だったし、どうしてこんなにからかわれなきゃいけないのか分からなかったし、事実と違うことを言いふらされることにも怒っていた。
どうかなって呼ばないでほしい、とお願いするのも逆効果だった。最初にあいつらに言ってみたときに返ってきたのは、新しいおもちゃをみつけたような、「どうしよっかな~」という、意地の悪いセリフだけだった。
気がつくと、道木叶太という人間は、無口で怒りっぽい存在として、周囲から距離を置かれ始めていた。それもまた、屈辱と怒りに拍車をかけていた。学校は楽しい場所ではなかった。
大きな事件が起きたのは小学四年生の頃だった。
新しい筆箱を買ってもらって、すこしだけ機嫌の良かった俺は、いつも通りの嫌がらせも無視できるほどだった。
しかし、無視したら無視したで、動かなくなったおもちゃに不満を持ったあいつらは、俺の筆箱に手を伸ばした。
返してほしくて、席を立つと、いつも通り「どうかなが怒った~」とわざとらしく逃げ出す。普段は追いかけないのだが、目的は筆箱にある。取り返すために追いかけた。
俺への嫌がらせはいつもどおりだが、普段とは違う俺に注目が集まる。気を良くしたあいつは、教室中を駆け回り、取り返してみろよと挑発しながら逃げ回った。
ようやく追いついて、掴みかかった。筆箱を取り返そうと、相手の腕を掴んで引っ張った。それが良くなかったのだろう。後々、クラスメイトの証言で、俺が先に殴ったことになっていたが、筆箱を取り戻すのに必死で覚えていない。
結果としては、先生が介入するまで殴り合いの喧嘩が続いた。
小学校において、喧嘩のあとには何が来るか。当然、ごめんなさい会である。その時は鼻血程度だが流血もあったので大ごとになり、ごめんなさい会には両者の保護者も招聘された。
クラスメイトの証言から、原因についてはうやむやにされ、先に殴りかかった俺が悪いことにされていた。
先に暴力に訴えて筆箱を奪っていったのはあいつのほうなのに。
普段から嫌がらせをされているのは俺のほうなのに。
すべてが気に入らなくて、悔しくて、俺は何も喋ることができずにいた。
先生は無責任に、俺にごめんなさいを強要してくる。
母親も俺が何も言わないからか、先生の味方をし、相手の母親に謝って、「あんたも謝りなさい」と言ってきた。
仕方なく先生はあいつのほうに話を振った。「殴られたからって殴り返してはいけない」みたいな諌め方で、それも俺の癪に障った。
あいつは殊勝な雰囲気を出すように、小声で「ごめんなさい」と言ってきた。そしてすぐにいつもの雰囲気に戻ると、なにかおもしろいことを見つけたように、
「こんどからちゃんとなかよくしよう、どうかな?」
と言った。その時絶望したのは、改心しないあいつに対してではない。
先生が、口元をすこし緩め、こらえきれないとでも言うように、すこしだけ笑ったのだ。
すぐに先生は取り繕い、「ちゃんと謝りなさい!」と諌めるが、すぐにこちらを向き、「ほら、許してあげて?それから叶太くんもごめんなさいしよっか?」と言ってくる。
俺は気づいたら泣いていた。
俺が許せないのは目の前の悪ガキではない。
無責任で、自分の話を聞いてくれない先生と、後ろで何も言わない母親だ。




