遺書・3ページ目
さて、社会のことを悪しざまに、猛獣などと散々な表現をしたが、私は別に社会を敵視しろというわけではない。
そもそも、選択肢がないとはいえそんな猛獣がいる家で暮らしたいと思うだろうか?わざわざ好き好んで距離感を測りながらペットにしたいと思うだろうか?
家の外に出てはいけない理由は何か?
外に何が待ち受けているのか?
我々の敵は何だ?
死の恐怖だ。
死ぬのが怖い。たったそれだけのことで、私は家から出るのを躊躇している。猛獣のいる家を受け入れてしまっている。
家から出る勇気がないから、猛獣と付き合うほうがマシだと思ったから、私は生きている。
猛獣を飼いならしてすこしでも楽しく、ラクに生きようとする理由はなにか?現実逃避だ。
役割、仕事、評価、人間関係、何かに打ち込んでいるときは死を一旦忘れられる。
社会と自分を客観視して、まるでゲーム機でRPGを遊んでいるように、画面だけに集中して、窓の外にたたずむ死を視界に入れないようにしている。
社会における成功というのは、わかりやすく幸福だ。
食欲、性欲、睡眠欲、所有欲、自己顕示欲などなど、動物としての人間の欲求を直接的に満たしてくれる。
人間というのは、自然界の例に漏れず、増え残るための形質を獲得してきた生き物だ。
人間も、増え残るために有利な行動をしたとき、報酬として幸福を感じられるようにできている。
だからこそ、社会はそれを差し出して人間をコントロールしている。
社会を客観視し、適度な距離感を確立した者にとって、これはあまりにもボーナスステージじみているだろう。
なにせ、猛獣と暮らしていく家の中を、仕方ないと割り切って生活していると、生物的にどうあがいても喜んでしまうような報酬が与えられる。死の恐怖から目をそらすことができる。
つまり何が言いたいのかといえば、生きる理由というのは、「死にたくない」という、恐怖から逃げる心だけで十分ということだ。
しかし、どう頑張っても死というものは訪れる。寿命、病気、事故などがわかりやすいだろう。
だが自殺はどうだ?死の恐怖はだれにでもつきまとうものなのに。戦争に向かう兵士はどうだ?火に自ら飛び込む消防士はどうだ?神に身を捧げ宗教に殉じた者は?
それらを俯瞰して眺めてみると、わかってくることがある。
耐えられない苦痛。
故郷を守るという矜持。
身を焦がすほどの使命。
命をなげうつほどの愛。
そして、もう助からないという諦め。
人間というのは、死の恐怖を上回る何かに出会ったときにしか、死ねない。
例えば20mの高さから飛び降り自殺を試みたとしよう。
ざっくり2秒くらいで地面につくことになる。
これは本当に恐ろしいことで、死を決心して、恐怖を乗り越えた先に、やっとの思いで行動したにもかかわらず、2秒間も死ねないのだ。
頭が真っ白に死の恐怖に塗りつぶされ、あれだけ死にたいと思っていたにも関わらず体が勝手に生き残るためにもがき続け、情けなく死にたくない死にたくないと心のうちで叫びながら、身体が生きるのを諦めシャットダウンするまで、死ねないのだ。
消防士の例では?
たとえば家の中に子どもが取り残され、自ら火に飛び込みやっとの思い出助け出し、子どもを逃がせたと思ったら、自分が炎の中に取り残されてしまった。
理性では、自分の行動で貴重な子どもの命を助けることができた。満足だ。と死を受け入れている。けれども身を焼く炎も、暑く息苦しい煙に満ちた肺から伝わる痛みも、身体にここから逃げろと司令を出し、もう逃げ場なんて無いのに必死に逃げ場を探す。苦しい。逃げたい。やめておけばよかった。なんで俺が。
そのまま最後の最後まで、理性と本能で葛藤しながら、死を受け入れられるまで苦しんで死ぬ。
その死の、
その死の、
なんと幸福なことだろうか。
その瞬間に、最後の一瞬に、死に伴う苦痛ですら、「仕方のないこと」と受け入れ、死の恐怖から解放される。
そうした精神的な苦しみに満ちた人生の、
使命に殉じた英雄譚の、
死すらも終幕として受け入れ、物語の中で死ねたなら、なんと幸福なことだろうか。
生に善悪がないように、死に善悪もない。
死の恐怖を受け入れた最後のひとときだけ、家の中の猛獣も、窓の外の怪物も、苦しみに満ちた世界から解き放たれ、ありのままの世界を見ることができる。
その瞬間を私は待っている。




