遺書・2ページ目
社会とは、
ダーウィンの進化論はご存知だろうか?
生物の進化というのは、突然変異が起きて、それが生き残り子孫を残すのに有用な形質であれば、その個体が生き延びやすくなり子孫を残し増えていく。子孫を残すのに有用でなければ、自然淘汰が起きてその形質は残らない。
あまりに大雑把な説明だが、だいたいそういものだ。
生きていくうえで、社会というものを無視することはできない。
現代において、社会に参加しない人間を社会は許容しない。思想だとか、法律だとか、伝統だとか、モラルだとか、そういう理屈をつけて、社会において求められる役割を果たさない人間に対して、社会は牙を向く。
体内に入ったウィルスを排除しようとするように。
なぜそのような”免疫反応”があるか、考えたことはあるだろうか。
答えはシンプルで、免疫反応を持たない社会は淘汰されやすく、残りにくいからだ。
つまりは生物の進化と同じである。
社会の長い歴史の中で、あるとき免疫反応、つまりは働かざる者食うべからずみたいな、そういう文化が形成される。ほかにもいろいろ長く続くために有利な文化が醸成されていった結果、たまたま今まで生き残ることができている。
逆に、そういう文化が発達しなかった社会は、働き手の不足だったり、内乱だったり、外部の脅威への抵抗力がなくなったりして、勝手に滅んでいる。
つまり、社会が持っている文化というのは、究極的には、長く生き残るために獲得した、ただの機能だ。それに善も悪も、良も不良も、優も劣もない。すくなくとも動物としての人間にとっては。
社会とは、生物のたとえならば、気難しく人に懐かないペットのようなものだ。
うまく付き合って暮らしたいなら、しつけてあげなければいけない。しかし距離感を間違えると、伸ばした手に噛みつかれる。
多くの精神的な問題は、この要求だけは一丁前な猛獣に黙って従ってしまっていることが原因だ。この猛獣は、「こう生きなさい」、「そんなんじゃ社会じゃやっていけないよ」、「気をつけなさい」と、社会の中にいる人間に代弁させて、自分の生き残るという目的に利用している。
家の中で凶暴なペットに好き勝手させているようなものだ。メンタルを病むのも致し方ないものだろう。
そうしないためには、自分の生活ペースを優先し、ペットには待てをさせる。吠えて威嚇してきても、効かないぞと無視してやる。役立つことをしてくれたら、おやつをあげてみる。寄り添える部分には手を伸ばして撫でてあげる。
そういう、古典的なしつけの方法を実践することで、家の中できみのスペースを守ることができる。
では、その猛獣はどのくらい待てができるのか?この吠え方は無視しても良いものなのか?この猛獣にとってのおやつとはなんなのか?自分が撫でても許される部分はどこなのか?
それを知るには、社会の中に生きて、社会のことを知るしかない。長く生き残るという目的に対して、社会がどういう習性を持っているのか、理解しなければならない。どうしてそういう文化が生まれたのか、知識を蓄えなければならない。
猛獣に噛まれないように暮らす方法は、周りの多くの人間が実践している。それを真似しながら、こっそりと社会という猛獣を観察してみればいい。
社会に心から従う必要はない。社会が与えてくれる生きる意味なんてものは、社会自身が生き残りたいがために生み出して、押し付けているだけのものだ。
そうして社会を、システムを客観視できれば、猛獣と暮らさなければならないこの家でも、一息つけるようになる。ぐっと、楽に暮らせるようになる。
少なくとも私はそうだった。




