番外編「リン」
最初の記憶は、どこまでも平坦な白の世界だった。
そこは、宇宙をそのまま切り取ってきたかのような静寂。
人工光の明滅だけが繰り返されるその部屋では、時間の感覚すら曖昧だ。
幼い少女の周囲にあったのは、冷たい発光を放つホログラムの端末と、滝のように流れ落ちる膨大な電子データ。
研究者たちにとってみれば、彼女は物に過ぎなかった。
少女が自分の歪な出生について知ったのは、心無き科学者達の会話だった。
冷徹な横顔をした白衣の女が、空中に浮かぶキーボードを叩きながら、まるで気象データを読み上げるかのように説明した。
「これは、魔力と遺伝子操作によって最適化された個体です。宇宙のノイズに埋もれた膨大な情報を瞬時に処理し、常に絶対的な最適解を導き出すために造られました」
(造られた……)
少女は、自分の細い指先を見つめながら、その言葉を反芻した。
偶然に依らない人工受精。
選別され、限界まで研ぎ澄まされた遺伝子の配列。
胸の奥で脈打つのは、数万の候補から最適解として選別された超高純度の魔石。
目的はただ一つ。
ステータスという数値。スキルという不可侵の権能。そして人々が魔法と呼ぶ超常現象。
この宇宙を支配する、神が作ったその精緻なシステムを、すべて記号とコードへ分解し、解析し、人工的に再現すること。
いや、それだけではない。
人間の手で、世界のシステムそのものを内側からハッキングし、書き換える。つまり、神の領域へ土足で踏み込む存在を作り出すことだ。
少女には、確かにその能力の鱗片があった。
目の前に走る無数のコードを見れば、砂金を探し出すように一瞬でパターンが浮き彫りになった。
数百の異なる通信ログを同時に処理し、並列思考することは簡単なことだった。
国家級の軍事暗号すら数秒でその構造を解き明かし、宇宙を行き交う迷子の電波は、すべて少女の脳内へと吸い込まれていく。
研究者たちは、彼女が驚異的な数値を叩き出すたびに歓声をあげた。
しかし、それは少女への賛辞ではなく、自分たちの理論の正しさを祝う声だ。
彼らはデータを貪欲に記録して分析し、また次の、さらに負荷の強い実験へと少女を駆り立てた。
少女は要求されるままに思考を巡らせながら、ずっと、思考の片隅で別の計算をしていた。
なぜ自分はここにいるのか。
この白い壁の向こうには、どんな星空が広がっているのか。
データベースにある家族という概念は、どんな温かさをしているのか。
文字列としての意味は理解できても、その本質だけは、どれほど演算を繰り返してもエラーを起こすばかりだった。
そんな白の世界から彼女を連れ出したのは、一人の老科学者だった。
白髪混じりのその男は、他の研究者たちのように少女を物として見なかった。
周囲の目を盗み、実験の記録をつける素振りをしながら、時折、ぼそりと掠れた声で話しかけてきた。
「今日は調子はどうだ、お嬢ちゃん」
「……普通です」
「そうか。食事は残さず食べたか?」
「食べました」
それだけの、中身のない会話。
けれど、少女にとってはそれが世界に繋がる唯一の楽しみとなっていた。
他の大人たちは、少女の脳波のグラフが跳ね上がった時にしか口を開かなかったからだ。
そしてある夜、その男が古びた携帯端末を握りしめて少女の部屋に現れた。
「外に出る気はあるかい」
少女は首を傾げた。
「なぜ?」
男の瞳の奥で、言い知れぬ葛藤と、決意の光が揺れていた。少女には、それが大人の罪悪感と慈愛の混ざり合ったものだとは分からなかった。
「この宇宙にはね、どんなに優秀な魔石を使っても、どれほど高度な演算を重ねても、絶対に答えが出ないものが存在するんだ。一緒に、その瞳で、その肌で、本物の世界を観に行こう」
少女は静かに、白い床から立ち上がった。
男が少女を連れて逃げ延びたのは、カルナ・ステーションの最下層、第五区画だった。
網の目のように張り巡らされた密輸ルートを通り、自らの足跡をハッキングで完璧に消去しながら、何日も、何百万キロも離れた辺境の果ての場所。
「……ここまで来れば、奴らの手も届かない。ここで生きていけるか?」
男は膝をつき、少女と視線を合わせた。
「生存確率は低くありません」
「そうか」
男は自嘲気味に、それでも愛おしそうに目を細めると、型落ちの小型端末と、偽造クレジットの入ったチップ、そして古びた翡翠のペンダントを少女の小さな手に握らせた。
「名を持ちなさい。今日からお前はリンだ。……俺の、死んだ孫の名前さ」
少女は手のひらの冷たいチップを見つめ、それからしっかりと握りしめた。
「ありがとうございます?」
男は一瞬、きょとんとした後、目尻に涙を滲ませて小さく笑った。
「本当はな、リンがこれからどんな服を着て、どんな風に大人になっていくのか、隣で見ていたかったんだがね」
それが、男の最後の言葉だった。
振り返ることなく雑踏へと消えていく老科学者の背中を、リンは防犯カメラの視覚補正すら使わず、ただ自分の両目で、見えなくなるまでじっと見つめ続けていた。
その後、リンは裏社会の電子の海に潜り、生活費を稼いだ。
企業間の機密情報を盗んではブローカーに売り、軍用の暗号を秒単位で解読して報酬を得た。
宙域を飛び交う違法通信を傍受し、価値のある情報だけを、それに見合うだけの人間へと流す。
天才ハッカーとしての仕事は、彼女に餓死しないだけの金と、誰も寄せ付けない安全をもたらした。
けれど、ただそれだけだった。
彼女には目的がなかった。次に行きたい星があるわけでも、大金を稼いで贅沢をしたいわけでもない。
リンは毎日、冷たい自室でホログラムの光を浴びながら、終わりなき情報の海を泳いでいた。
何かを探すように。
それが何なのか、彼女自身さえも答えを導き出せない問いを抱えたまま。
そんなある日、買い出しのために訪れた中央通路の向こうから、奇妙な気配が押し寄せてくるのを感知した。
明らかに、周囲の空間から浮き上がっている異物がいた。
美しい織物を身にまとった、一人の女性。手には優雅な扇を携え、凛とした足取りで歩を進めている。
リンは思わず足を止め、雑踏の影へ身を隠した。
その女は、威嚇するような素振りを一切見せていない。ただ、背筋を伸ばして優雅に歩いているだけだ。
それなのに、人々は自然と道を譲っていく。
当の女は、周囲の畏怖など意にも介さない様子で、傲然と前を見据えていた。
(……なに、あれ)
リンの脳内で未だかつてない異常数値を弾き出し、警告アラートを鳴らし続ける。
魔力の密度が違う。
これまでカルナ・ステーションで見かけてきたどの魔導士とも違う、桁外れで、底知れない、圧倒的な何か。
けど、不思議だった。
これほどの規格外の化物を目の前にして、リンの心音は少しも乱れなかった。
怖くないのだ。
彼女はきっと、リンの持つ能力など微塵も必要としていない。利用しようなどという矮小な企みすら、その圧倒的な存在感の前には霧散してしまう。
なぜそう言い切れるのか、論理的な説明はつかなかった。
ただ、遠くからその横顔を眺めているだけで、胸の奥に張り付いていた冷たい結び目が、すっと、不自然なほど静かにほどけていく。
リンは胸元に隠した、あの老科学者から譲り受けた翡翠のペンダントを、小さな手でぎゅっと握りしめた。
(……あの人は、どんな情報にどんな価値を見いだすのだろう)
データの海には存在しなかった、煌めきのようなものを見つけた気がした。
その煌めきを確かめるために、リンは静かに踵を返した。




