番外編「ナイラ」
「背筋を伸ばしなさい。足音を立てない。言葉は慎み深く。いいですか、ナイラ。貴族の娘が感情を顔に出すなど、下品そのものです」
母は、「伝統」と「礼儀作法」を何よりも重んじる厳格な女だった。
父は地方議会の末席にしがみつき、保身と世間体だけを生きがいにしている、小さな婿入りの男。
両親はカシム家という、錆びついた貴族の看板だけは、命に代えても守り抜こうとしていた。
食事の作法、来客を迎える際のお辞儀の角度、扇の広げ方から持ち方に至るまで、母の小言は朝から晩までナイラの耳を塞いだ。
そのたびに、ナイラは反抗心で腹の奥が煮えくり返るのを感じていた。
なぜ、こんな窮屈な籠の中で生きなければならないのか。
「ねえ、お母様。どうして、こんなことをしなきゃいけないの?」
幼いナイラが尋ねると、母は冷ややかな目で娘を見下ろし、当然のように言い放った。
「私たちは貴族だからよ」
「街の人たちは、もっと自由に笑って、自由に歩いているわ」
「昔からそういうものだからです。それ以上、無駄な疑問を持つのはおよしなさい」
それ以上の答えは、いつまで経っても、どれだけ歳を重ねても返ってこなかった。
ただ、「そういうものだから」という見えない鎖だけが、ナイラの首をじわじわと締め付けていった。
きっかけは、隣家の小生意気な貴族の息子との、他愛もない口論だった。
言葉で勝てないと悟った少年がナイラを突き飛ばした瞬間、彼女の中で何かが弾けた。
気がつけば、相手を地面にねじ伏せ、その生意気な顔面を拳で殴りつけていた。
「貴族の娘が、殿方と取っ組み合いの喧嘩など……なんて恥ずかしい。カシム家の恥です」
「向こうが先に手を出したんだ。私はただ……」
母はナイラの言葉を遮るように続けた。
「理由など関係ありません! あなたが引くべきだった。なぜそれが分からないのですか」
「……なぜ? やられたから、やり返す。当然のことじゃない」
「私たちは貴族だからです!」
母の金切り声が、狭い部屋に響き渡る。
ナイラは唇を噛み締め、黙り込んだ。
返す言葉が見つからなかったわけではない。この人たちに何を言っても、どんな正論をぶつけても、何一つ変わらないと気づいてしまったからだ。
母は何かあるたびに彼女を呼びつけ、正座をさせ、「私たちは貴族だから、貴族らしく」と呪いのように繰り返した。
十六の時、ナイラはわずかな荷物だけをまとめて家を出た。正確には、親の敷いたレールをことごとく踏み外した結果、勘当されたのだ。
出ていく前夜、父は書斎から出てくることすらなく、背を向けたまま何も言わなかった。
意外にも、ただ一人見送りに立ったのは母だった。しかし彼女は、冷徹な声で告げた。
「後悔しなさい。外の世界で、あなたのような無作法者が生きていけるはずがないのだから」
「……せいぜい、その立派な看板とお幸せに」
ナイラは一度も振り返らなかった。そしてその後、ただの一度も後悔はしなかった。
連邦軍に入隊したのは、崇高な志があったからではない。
単に食い扶持を稼ぐためであり、他に行く場所がなかったからだ。
だが、軍という環境は驚くほどナイラの性に合っていた。
彼女の肉体は、生まれながらにして戦いのためにデザインされているかのようだった。常人離れした反射神経、一瞬の迷いもない判断力、そして修羅場でも冷静に動ける胆力。
教官が舌を巻くほど、彼女は戦技を貪欲に吸収していった。
何より、軍のシステムが心地よかった。
上官からの命令には、明確な理由があったからだ。
なぜこの座標へ進軍するのか。なぜこの陣形を展開するのか。
すべては勝利という目的のための合理的な作戦であり、「そういうものだから」という曖昧な理不尽さはなかった。
明確な目的、それに見合う行動。
それだけで、ナイラには十分すぎるほど生きやすかった。
硝煙と血に塗れた戦場を渡り歩くこと数年。ナイラは叩き上げで小隊長に昇格していた。
部下は、一癖も二癖もある荒くれ者ばかりの七人。
「おい、隊長。次の作戦も死線になりそうだな」
軽口を叩く部下たちに、ナイラはいつもニカッと不敵に笑ってみせる。
それが、ナイラが自分自身に課した、唯一のルールだった。
だが、その「合理的な世界」は、ある惑星の先住勢力に対する制圧作戦の最中、あっけなく崩壊した。
薄暗い前線指揮所のテント。泥と硝煙に汚れたホログラム地図を囲み、上官である少佐が静かで冷酷な声を響かせた。
「次のフェーズに移る。この居住区画を、重爆機で完全に焦土化しろ」
ナイラは一瞬、自分の耳が幻惑魔法にでもやられたのかと思った。
「……少佐、まだ避難していない民間人が多数残っているはずですが?」
「分かっている」
少佐は表情一つ変えず、淡々と答えた。
「あの区画には、レジスタンスの潜伏組織が紛れ込んでいる。一人ずつ炙り出すより、根絶やしにする方が最も確実でコストも低い」
周囲の他の小隊長たちは押し黙ったまま、機械的に頷いた。
その光景を見た瞬間、ナイラの背筋に冷たい戦慄が走った。
合理性という化け物が、命をただの数値として処理しようとしている。
ナイラは拳を強く握りしめたが、言葉が出なかった。上官の作戦に一兵士が反対すれば、反逆者として裁かれる。
作戦は予定通り実行された。
降り注ぐ爆撃。炎に包まれる街並み。ナイラたち小隊は、残党処理のため煙る区画へと足を踏み入れた。
命令を忠実に。それが軍人の義務だ。
ナイラは自分にそう言い聞かせ、感情を殺して進んだ。
しかし、崩れ落ちた建物の影を曲がった瞬間、彼女の視界に一人の子供が飛び込んできた。
爆風で煤まみれになった服を着た、まだ十歳にも満たない小さな子供。怯えた瞳でナイラを見上げ、それから弾かれたように細い足で路地の奥へと走り出した。
あの子を、殺すのか?
その瞬間、ナイラの脳裏に、かつて母から浴びせられた「そういうものだから」という言葉がフラッシュバックした。
連邦の命令も同じだ。「上が決めたことだから」という理不尽な思考停止。
ナイラの、引き金を引くべき指が完全に止まった。
戦場において、その一瞬の躊躇は致命傷を意味する。
「死ね、連邦の犬がぁ!」
瓦礫の陰から狂乱したレジスタンスの生き残りが飛び出し、振動刃がナイラの左肩から脇腹にかけて深く裂いた。
激痛に視界が真っ赤に染まる。
だが、ナイラは倒れなかった。
体に染み付いた闘争本能だけで迫る二撃目をかわし、手にしたアサルトライフルの銃身で相手の顎を殴りつける。
体勢を崩した敵の胸に、至近距離から弾丸を叩き込む。
敵兵はそのまま動かなくなった。
ナイラはその場に膝をつき、傷口を押さえた。しかし、指の隙間からどくどくと熱い鮮血が溢れ出し、地面を赤く染めていった。
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応急処置を済ませたナイラは、血の匂いを漂わせたまま、野戦病院ではなく少佐の執務室へ直行した。
ノックもせず、乱暴に扉を開け放つ。
「カシム大尉、軍医の許可なく動くなど――」
「あの作戦は間違っている」
ナイラは、包帯越しに血が滲む体を歪めながら少佐を睨みつけた。
「結果を見ろ。我が軍の損害は最小限に抑えられ、確実な戦果が出た」
「民間人を殺して得る戦果がどこにある! アタイらが守るべきは、数字じゃねえはずだ!」
少佐は深くため息をつき、哀れむような目でナイラを見た。
「連邦上層部の決定だ。お前ごときに口を出す権限はない。……軍人らしく、黙って従え」
耳の奥で、母の声と少佐の声が重なり合って響いた。
「……そうかい。軍人らしく、ねぇ」
ナイラは少し間を置いた。ふっと、その口元に凶悪な笑みが浮かぶ。
「じゃあ、これはアタイ個人の判断だ」
言いかける少佐の顔面に、ナイラは全身の体重を乗せた右ストレートを叩き込んだ。
鈍い破裂音と共に、少佐の体がデスクごとひっくり返り、書類が宙に舞う。
それが、ナイラ・カシムの最後の軍務となった。
不名誉除隊の手続きは、驚くほど迅速に行われた。
ベースキャンプの片隅で、黙々と荷物をまとめるナイラに、顔馴染みの老軍医が呆れたように声をかけた。
「おいおい、とんだ大立ち回りをしたそうだな。……一応、最後の仕事だ。その脇腹から肩にかけての傷、治癒魔法で処置していくか? 最新の再生治療なら綺麗に消せる。そのままだと跡が残るぞ」
「このままでいい」
ナイラはミリタリーバッグのジッパーを無造作に閉めながら、無愛想に断った。
「女の体にそんな大傷を残して、何になる」
軍医が不思議そうに眉をひそめる。
ナイラは少しの間、自分の左肩から這いずる痛みの塊に触れ、それから静かに答えた。
「忘れないように、かな」
自分が誰の命令に縛られ、何を拒絶し、何のためにその代償を支払ったのか。
この痛みが消えてしまえば、いつか自分も「そういうものだから」と言い、人を傷つける側になってしまうかもしれない。
それが、たまらなく怖かった。
「……忘れたくない、か」
軍医はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、「達者でな」とだけ言って、彼女の背中を叩いた。
それからのナイラは、広大な宇宙の底を、あてもなく流れ続けた。
荒くれ者どもの集まる傭兵稼業に身を投じ、時にはあくどい商人の護衛をやり、時にはボロい宇宙輸送船の用心棒として乗り込んだ。
仲間の傭兵から、「その腕で、なんで連邦の案件は蹴るんだ?」と聞かれても、ナイラは笑って誤魔化した。
言ったところで、この濁った宇宙の何が変わるわけでもないと、痛いほど分かっていたからだ。
墓場と呼ばれる無法の宙域に彼女が流れ着いたのは、そんな頃だった。
両手いっぱいにガラクタの電子基板を抱え、今にも転びそうな足取りで歩いている、ひょろ長い一人の男が目に留まった。
ボサボサの髪に、お世辞にも強そうには見えない頼りない背中。
(関わるだけ時間の無駄だな)
ナイラは視線を逸らし、そのまま通り過ぎようとした。
しかし運悪く、その男の前に、地元を縄張りにするガラの悪い男たちが立ち塞がるのが見えた。
「おい、ジャンク。いいモン持ってんじゃねえか。それ、俺たちに安く譲れよ。なぁ?」
ナイラは大きくため息をついた。
(本当に面倒くさい)
自分の心の中で、またいつもの悪癖が頭をもたげるのを感じる。
だが、彼女の足はすでに男たちの間へ向かって動いていた。
貴族らしくしでも、軍人らしくしでもない。
自分らしく。
これが、アタイの判断だ。
ナイラは肩をすくめ、拳の骨をポキポキと鳴らしながら、男たちの背中に声をかけた。
「おい、そこのゴキブリども。アタイの目の前で、そいつに触るんじゃねえよ」
ただ、それだけの関わりが、後にナイラの運命を大きく変えることになる。




