「星の海ですの(嘘だろ)」
漆黒。
音も空気もない。
ただ広がる闇と、遠くに散らばる光の粒だけだ。
……え?
息を吸おうとして、吸えないことに気づく。空気がないのか鼻にも口にも、何も入ってこない。
俺死んでる?
いや、生きてる。意識があるし、目も開いている体も動く。たけど空気が吸えない。
パニックで手足が勝手にばたつくと、暴れるたびに体がゆっくりと回転する。上下がわからない。どこを見ても黒い。
落ち着け。落ち着くんだ田中浩介。
……無理だった。
落ち着けるわけがない。
ただ、数秒経っても死なないことだけは確認できた。呼吸ができないのに、苦しくない。窒息の感覚がない。矛盾してるが事実だ。
体を見下ろすと、深紫の着物。さっきの大広間と同じ格好だ。そしてその着物の上に、薄い紫色の膜のようなものが全身を覆っている。淡く光っていて、肌に触れるとほんのり温かい。
何だこれ。
魔法か何かを、この体が勝手に発動してるのか。さっきから口も体も勝手に動くんだから、防御魔法も勝手に張るのかもしれない。
ありがたいが、自分が怖い。
(っていうか、本当にここどこだよ)
周りを見回す。ようやく目が慣れてきた。
星?
無数の星。上も下も果てしない闇と、光の粒。
……宇宙?
いや嘘だろ。
恋トキの世界って和風ファンタジーだぞ。皇国だぞ。刀と術式の世界だぞ。宇宙なんて出てこないし、設定すらない。
転移術がどうにかなって、辺境に飛ばされるはずが宇宙に来た。
いくら何でも飛びすぎだろ。辺境って言ったじゃん。辺境の領地で畑にスローライフ。そっちにしてくれよ。
文句を言っても宇宙は黒いままだ。
ため息をつく。呼吸はできないのに、ため息は出る。どういう仕組みだ。
……よし。とりあえずやるべきは、ここから移動すること。ぷかぷか浮いてても仕方ない。どこかに足場を見つけないと。
ぐるりと周囲を見回した。
星、星、星。その隙間に金属のゴミみたいなものが遠くに漂っている。さらに遠くに、ぼんやりとした光のかたまり。
あ。
あれ、たぶん人工物だ。
よく見ると巨大な構造物が宇宙に浮かんでいる。錆びた金属の塊がいくつも繋がったような、不格好な形だ。そこには窓らしきものから光が漏れている。電気が通っている可能性があるなら、もしかして人がいるかもしれない。
あそこに行きたいが、どうしよう。
体を覆っていた紫の膜が、少し薄くなった気がする。時間がないのかもしれない。
俺はステーションの方に向かって手を伸ばした。意味があるとは思えないが、でも他にやれることがない。
あっちに行きたい。行かないと死ぬ。頼む、動いてくれ。
……動いた。
手のひらから、何か見えない力が放たれた。引力みたいな感覚。ステーションの方向に体が引っ張られる。
ゆっくりと、だが確実に加速していく。
(え、なに今の。俺なんかした?)
行きたいと思っただけだ。それだけで体が動いた。
……この体、何者だ。口は勝手に動く。防壁は勝手に張る。宇宙空間を移動する力まである。恋トキの九頭竜蓮華って、こんなキャラだったか?
少なくとも俺が担当したパラメータでは、こんな規格外のスペックじゃなかった。なぜこんなことが出来るのか、まるでわからない。
わからないが、とりあえずステーションには向かってる。今はそれだけでいい。
加速する視界の中、あの不格好な構造物がどんどん大きくなってくる。近づくにつれて、その巨大さに驚いた。数百メートルはある。
錆びた外壁にはいくつも穴が開いていて、破損した区画がそのまま放置されている。それでも窓の光は消えていない。こんなボロボロの場所で、誰かが生きているような温かさを感じる光だ。
……ぶつかる。
そう思った瞬間、紫の膜が衝撃を吸収した。
金属の壁に激突して、そのまま壁を突き破って内部に転がり込んだ。
べちゃ、と顔から着地した。
「痛ってぇ……」
素の声が出た。こういう時だけ素直になるらしい。
すぐに体が勝手に起き上がる。優雅に。着物の裾を払い、髪を整え、何事もなかったかのように背筋を伸ばす。
(今、顔から突っ込んだだろ。何澄ましてんだよ)
まあいい。周囲を見渡す。
薄いが呼吸できる。ここには空気も重力もあるようだ。弱いが、床に足がついている。
錆びだらけの通路に、かちかと点滅する蛍光灯。配管がむき出しの天井と油と金属の匂い。
和風皇国の大広間とは、ずいぶん違う風景だ。
不安で胸が押し潰されそうになる。
常識が通用しない。口は自由にならない。なぜ宇宙にいるのかもわからない。この体がなぜこんなに強いのかもわからない。
わからないことが多すぎる。
その時、通路の奥から足音が聞こえた。
とっさに身構える。体が勝手に戦闘姿勢を取った。片手が前に出て、紫色の光が指先に集まる。
(待て待て。俺は戦う気ないんだ)
足音が近づいてくる。
暗い通路の角を曲がって、一人の青年が現れた。
百八十は余裕でありそうな上背。ただ全体的にひょろりとしていて、肩幅はあるのに肉がついていない。くすんだ金髪はぼさぼさで、後頭部だけゴムで雑に縛ってある。目は灰色で、少し垂れ目がちだ。
顔立ちは悪くないのだが、作業着の首元についた黒い油汚れと、ゴーグルを額に引っかけたまま忘れてる感じが、全体の印象を三割くらい下げている。
汚れた作業着のポケットからは工具が何本もはみ出していて、腰のベルトには見たこともない機械部品が無造作にぶら下がっていた。手には大きなレンチを持っている。
青年は、深紫の着物を着て紫色の光を纏った俺を見て固まった。
そりゃそうだ。鉄くずのゴミ溜めみたいな場所に、和服の令嬢が壁をぶち破って現れたら誰でもびびる。
俺の口が勝手に動いた。
「あら。こんな薄暗い場所に人がいらっしゃるとは。お名前をお聞かせ願えるかしら?」
もうちょっと普通に聞けないのか、この口は。
青年はしばらく固まったまま、レンチを持った手を微妙な角度で止めて、ようやく口を開いた。
「……あ、僕、ジャンクって呼ばれてます」
ジャンク。
……ん?
なんだろう。
聞いたことがある気がする。いや、気のせいか。こんな名前の奴なんて忘れる訳がない。
けど、どこか引っかかる。頭の引き出しをひっかき回す。ジャンク。ジャンク。
思い出せない。
そもそも外国人の知り合いなんて一人もいなかった。職場も、学校も、近所も、全員日本人だ。なのにこの名前、どこかで確かに聞いている。耳に残っている。どこでだ。
「ここは……どこ?」
素の口調が一瞬漏れた。
「……失礼。こちらはどのような場所でしょうか?」
ジャンクは目を丸くした。
「あんた……宇宙で、その格好って……、どっから来たんだ」
実にいい質問だ。俺も聞きたい。
「わたくしにも、よくわかりませんの」
ジャンクは困ったように頭をかいた。ぼさぼさの金髪がさらに乱れた。
「ここ廃棄ステーションだよ。みんな墓場って呼んでる。連邦のゴミ捨て場みたいなとこだ」
連邦。
恋トキには出てこない名称だ。やっぱり、ゲームの世界じゃない場所に来てしまったのか。
不安がまた膨らむ。同時に、目の前の青年が敵意を持っていないことだけは分かった。俺にびびってるだけだ。こっちだってびびってるからお互い様だ。
ジャンクが「とりあえず中に来なよ」と言いかけたとき、通路の奥から別の足音が聞こえた。
複数の重い、乱暴な足音。ジャンクの顔が僅かに強張った。
三人の体格のいい男、いかにもガラの悪い連中だ。ジャンクを見るなり、にやりと笑った。
「いたいた。ジャンク、先週の件はまだ片付いてないよな」
ジャンクがレンチを握り直した。
「……今日は関係ない人がいる」
「関係ない? そっちの姉ちゃんも巻き込んでやろうか」
男たちの視線が俺に向いた。
体が勝手に動いた。
男たちと、ジャンクの間に割り込む形で一歩前に出る。
「少々、よろしくて?」
男たちが俺を見た。
「あ? 邪魔すんな」
「まあ」
口が笑った。
「この場所の空気は薄いと思っておりましたわ。皆様の知性も、同様のようですわね」
一瞬、通路が静まり返った。
男たちの顔色が引きつるような表情に変わり、笑いが消えた。何かを感じ取ったらしい。俺の気合いで萎縮したのかもしれない。
誰も動かなかった。
俺の体は勝手に完璧な姿勢を維持している。視線を逸らさない。扇もないのに、完璧な令嬢の立ち姿で三人を見下ろしている。
しばらくして、男たちが「き、今日のところは見逃してやるよ」と踵を返した。
足音が遠ざかっていく。
(俺は何もしてないのに)
いや、したけど、身体が勝手に間に立ちはだっただけだ。
ジャンクが呆然と立っていた。口が少し開いている。
「……今の、何したんだ」
「わたくしにも、よくわかりませんの」
ジャンクはしばらく俺を見てから、ゆっくりと息を吐いた。
「……とりあえず来なよ。ここの空気、薄いから」
俺は頷いた。
頷いたら、体が勝手にお辞儀をした。完璧な角度の令嬢のお辞儀。
ジャンクがさらに困惑した顔をした。
……先が思いやられる。
ジャンクの背中についていきながら、俺はもう一度頭の中で繰り返した。
ジャンク。
どこで、誰からの、口から聴いた?
思い出せないまま、通路の奥へ続く扉が開いた。




