「少々、眠りが浅うございましたわ(……)」
その夜、夢を見た。
気づいたときにはもうその中にいて、これは夢だと理解する前に、匂いと空気だけが先に現実のようにまとわりついてきた。
畳の部屋だった。古くて、少し湿った匂い。視線の先に幼い少女が座っている。黒髪で、まだ小さい。七つか八つくらいだろう。その手のひらから、紫色の光が滲み出ていた。
最初は細い糸のようだったそれが、少女の意思とは関係なく広がっていく。
畳の縁をなぞり、じわりと焦げる。壁が黒く変色し、焼けた匂いが強くなる。
少女は慌てて両手を握り締め、押さえ込もうとしているが、止まらない。畳の上に置かれていた人形に光が触れた瞬間、それは静かに崩れた。布が裂け、中の綿が焦げて縮む。その光景を見た少女の体が小さく震えた。
そのとき、ドアが開いた。入ってきたのは中年の男だった。父親だと、なぜかわかった。男はすぐには少女を見ずに、まず床を見る。焦げた畳、崩れた人形。それからゆっくりと視線を上げて少女を見た。
一歩、後ずさる。
その仕草だけで、何を思ったのかは十分だった。
男の顔に浮かんでいたのは怒りではない。困惑でもない。ただ、はっきりとした拒絶だった。
「……なんだ、それは」
低い声が落ちる。少女は何も言えない。ただ見ていることしかできない。次の瞬間、男の口が歪んだ。
「気味が悪い」
その一言で、何かが完全に切り離された。
場面が変わる。冷たい廊下と、閉ざされた部屋。少女はその中にいて、外とは切り分けられていた。食事は扉の前に置かれるだけで、誰も中に入ってこない。少女は皿に手を伸ばしかけて止める。指先からまた紫の光が滲み、皿の縁が黒く焦げた。少女はすぐに手を引き、そのまま動かなくなる。食事はそこにあるのに、触れない。
廊下の向こうからは子供たちの笑い声が聞こえているはずなのに、この部屋の前だけは妙に静かだった。意図的に避けられているような、不自然な静けさだった。
ある日、扉がほんの少しだけ開いた。同じくらいの年頃の子供が隙間から覗き込む。目が合った。その子は少しだけ笑って、軽い調子で言った。
「気味悪い」
冗談のような声だった。それでも、その言葉だけが妙に重く残った。
そこで目が覚めた。
船の天井が視界に入る。見慣れた金属の壁。現実に戻ったはずなのに、胸の奥に何かが残っている。感触だけが消えない。
(気味悪い)
頭の中で、同じ言葉が重なる。
別の場所、別の時間で聞いた記憶がある。
里親の家で、理由もなく「お前が悪い」と言われたときの空気。施設でいじめられて里親に話したら「普通にしていれば」と言われたときの声。会社で笑いながら「田中って、生きてて楽しいのか」と言われたときの顔。
夢の中の少女とは違う。状況も原因も違う。あっちは力のせいで、自分はただうまく馴染めなかっただけだ。それでも、胸の奥に残る感覚だけは似ていた。
何が悪いのかもわからないまま、自分の存在そのものに理由を押しつけられる感じ。
(同じだとは言わない。そこまで単純じゃない)
でも、無関係とも言い切れなかった。
あのとき男が見せた顔が、頭から離れない。あれは人に向ける顔じゃない。まして、子供に向けるものでもない。
天井を見上げたまま、ゆっくり息を吐く。
これは蓮華の記憶だ。そう割り切ることはできる。それでも、完全に切り離せない程度には、自分とどこかが似ていた。
胸の奥に残ったそれは、消えずに、ただ静かに居座り続けていた。
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朝になって、ジャンクがコーヒーを持ってきた。
「顔色悪いぞ。眠れなかったか?」
「……少し、変な夢を見ましたわ」
「どんな夢だ」
「わたくしの、知らない記憶ですの」
ジャンクが首を傾げた。
「知らない記憶?」
「うまく説明できませんわ。ただ……少し、気になることがありまして」
(こんなこと、説明できない。自分でも整理できていない)
「まあ、無理に話さなくていい」
ジャンクはそれだけ言って、端末の作業に戻った。
コーヒーを一口飲んだ。苦い。でも、悪くない。
胸の奥にまだあの感触が残っていた。じわじわと、消えないまま。
(これは蓮華のものだ。俺のじゃない)
そう思おうとして、うまくいかなかった。




