第9話 竜殺しの改名会議
ルルが棚の瓶を取ろうとしたとき、カウンターの男が低い声を出した。
「その酒の名を、もう一度」
「ドラゴンキラーです」
ルルは瓶を胸の前で抱え、もう一度はっきり言った。男の額からは二本の角が伸び、襟元には赤銅色の鱗が覗いている。さっき預かった外套にも、太い尻尾を通す切れ込みがあった。
「俺の前で、それを勧めるのか」
ルルの尻尾が足の間へ引っ込んだ。私は隣へ行き、瓶を受け取った。
「お口に合いませんでした?」
「まだ飲んでいない。名前の話をしている」
竜人のゼノは、瓶の札を指した。ヘルガが仕入れている強い蒸留酒で、喉を通ると腹まで熱くなる。竜も倒れるほど強い酒、という売り文句らしい。
「でも、竜人と竜は別だよ」
ヘルガが言った。
「それは俺が説明することだ」
ゼノは椅子に座り直した。尻尾が通路へ出ていたので、私が目をやると、黙って自分の足元へ寄せた。
「竜人と竜は別物だ。人間も、猿殺しという酒を勧められたら、少しは嫌な気がするだろう」
「それは誰でも嫌じゃないですか」
「そうだろう」
同意を得たつもりらしい。ゼノは満足そうに頷き、水割りを飲んだ。
「名前を変えるべきだ」
「うちで造った酒じゃないからねえ」
ヘルガは私の手から瓶を取り、裏を見せた。製造元の焼き印がある。
「じゃあ、店で呼ぶ名前だけ変えたらどうです?」
私が言うと、ゼノは腕を組んだまま頷いた。
「話の分かる者がいた」
「決まるまでは、今のお酒で大丈夫ですか」
「それを一杯くれ」
ヘルガが瓶をこちらへ戻した。
「よろしいんですか?」
「味に罪はない」
ルルが新しいグラスを出したので、私はドラゴンキラーを注いだ。
紙を一枚置くと、ゼノはすぐに「竜の誇り」と言った。
「さっき、竜とは別だって言いませんでした?」
「誇りは共有しても構わん」
「じゃあ、『竜も喜ぶ』はどうですか」
ルルが恐る恐る口を挟んだ。ゼノは酒の香りを確かめ、ひと口飲んでから首を振る。
「竜の好みまでは知らん」
竜の好みは知らないのに、誇りの方は分かるらしい。私はペンを置いた。
少し離れた席では、ハンスが背嚢を椅子の脇へ置き、薄い水割りを飲んでいた。その隣ではホネさんが火酒を飲んでいる。今日は荷運びの仕事が一件あったそうで、ハンスの背嚢の肩紐は、前に来たときより汚れていた。紙に書かれた改名案を見て、ハンスが口を開いた。
「荷札と注文の名前が違うと、届いたときに困りませんか」
「困るね」
ヘルガが即答した。
「瓶はドラゴンキラー、注文は竜の誇り、勘定のときには何だっけってなる」
「では、元の名前を小さく添えればいい」
ゼノの提案どおりに書いてみた。竜の誇り。その下に、小さくドラゴンキラー。
「殺す気は残ってますね」
私が言うと、ゼノは紙を裏返した。
ヘルガは「強い酒」でいいと言い、ルルは、もっと強い酒が入ったら困ると真面目に反対した。ハンスが「赤い封の酒」と言うと、ヘルガは同じ封蝋の瓶を三本並べた。
「運ぶときは、文字も読んどくれよ」
「もちろん読みます。呼びやすいかと思って」
ゼノはもう一度グラスへ口をつけた。名前に文句を言うわりに、減るのが早い。
「『竜人公認』ならどうだ」
「ほかの竜人さんにも聞かなくていいんですか」
「俺は構わん」
「では、『ゼノさん公認』ですね」
ルルが紙の隅へ丁寧に書いた。ゼノはそれをしばらく眺めていたが、消せとは言わなかった。
そこへ郵便配達のトビアスが顔を出した。配達袋からヘルガ宛ての封書を出し、そのまま帰るかと思ったら、扉のところで羽毛の生えた首を伸ばした。
「一つだけ。卵って、親と違う柄になることはある?」
「何の卵だい」
「うちの。女房が温めてるんだけど、一個だけ縞があるんだ。うちは二人とも斑点なのに」
ヘルガが封を切る手を止めた。
「奥さんには聞いたの?」
私が尋ねると、トビアスは首を縮めた。
「聞きにくいだろう」
「いきなり疑う方が、あとで話しにくくならない?」
彼は配達袋を探り、妻から持たされたという買い物メモを出した。末尾を読んで、嘴を閉じる。
「……『姉さんの卵も一つ預かってるから、巣に触らないで』」
「まず家の手紙を読みな」
ヘルガに言われ、トビアスは封書の受領印だけもらって帰った。ルルが見送り、扉を閉める。
「名前の話に戻ってもいいか」
ゼノが裏返した紙を押さえていた。
会議は進まなかったが、瓶の中身は進んだ。
私も勧められた一杯を薄く作って付き合い、ルルは「ゼノさん公認」の文字を何度もなぞっていた。ヘルガは空いた瓶を一本棚から下ろし、背後の戸を開けた。
中には仕入れた酒の木箱が積まれていた。次の箱を引き出すには、手前の二つを動かさなければならない。
「ママ、また増えました?」
「仕入れ先が値を上げるって言うから、先に買ったんだよ」
「それで、私たちが通れなくなってるんですけど」
ハンスが立ち上がり、箱の取っ手へ手を掛けた。
「出しますよ。どれですか」
「赤い封の酒」
彼はヘルガの顔を見た。ヘルガは笑い、箱の側面を指した。
ハンスは刻印を確かめ、上の箱をいったん床へ移した。目的の箱を取り出すと、同じ銘柄を手前にまとめ、戸が閉まるところまできちんと収め直した。
「助かるよ。けど、これじゃ次の仕入れが入らないね」
「奥の樽も、仕入れたものか」
ゼノが腰を浮かせた。
「あれは、あたしが寝かせてる分だよ。まだ開けない」
「ここは昼間もこんな温度か?」
「夏になれば、もっと暑いよ」
ゼノはグラスを置いた。酒の名前より深刻な顔だった。
「それなら、樽はもっと涼しい場所へ移した方がいい」
ハンスが戸の奥を覗き、それから私たちを振り返った。
「グラウ迷宮の三層なら、夏でも涼しかったですよ。階段の近くに、使っていない部屋がいくつかあります」
「荷物を置けるくらい広いの?」
「休憩するとき、六人で入ってました。今も空いてるか、管理の人に聞かないと分かりませんけど」
ホネさんが火酒のグラスを置いた。
「俺がいた頃は、奥の部屋より風が通った。今も使えるかは知らんがな」
「管理の人に、まとめて聞いてみます」
ハンスが頷いた。
「北門から半日だろ。毎晩使う酒まで運んだら、飲みたいときに間に合わないね」
ヘルガは奥の樽を指し、数を確かめた。
「まずは、当分開けない樽だけにしようか。あれがなくなれば、瓶の箱を置ける」
「運ぶのは、俺に任せてもらえませんか」
ハンスの手が、椅子の脇の背嚢へ伸びた。
「道は覚えてます。小さな樽なら背負えますし、大きいものは分けてもらえれば」
「背負えるだけ詰めて、階段で転ばないでおくれよ」
「何度かに分けます。重さを見てから、日程を出します」
ヘルガは裏返されていた紙を引き寄せた。空いた場所に樽の数と大きさを書いていくと、ゼノも横から覗き込んだ。
「置くだけでは駄目だぞ。漏れも鼠も見なければならん」
「あんた、詳しいね」
「以前、酒蔵で番をしていた。侵入者より鼠の方が厄介だった」
「じゃあ、あんたにも頼めるのかい。まずは場所を見てからだけど」
ゼノはグラスを持ち上げたまま止まった。
「酒を守る仕事なら、引き受けてもいい」
「名前は気にならないんですか」
私が聞くと、彼は瓶を回し、札を自分から見えない方へ向けた。
翌日、ヘルガは管理窓口で一部屋を借りた。ハンスとゼノは、下見を兼ねて小樽を二つ運ぶことになった。出発前、ヘルガは樽から少量ずつ酒を瓶に移し、飲み比べるため店へ残した。
「これと飲み比べるんだよ。向こうへ運んだだけで、うまくなったことにしないように」
「いつ開けるんですか」
「まずは、うちの開店一周年の頃だね」
「『迷宮寝かせ』って札を作っておきましょうか」
「売るのは、味を見てからだよ」
「名前だけなら、もう売れそうだが」
ゼノが言ったので、私は彼のグラスを見た。
「酒の名前には厳しいんじゃなかったんですか」
ゼノは答えず、残っていた酒を飲んだ。
二人は翌朝町を出て、一泊して戻った。報告に来た夜も、ゼノはドラゴンキラーを注文した。ハンスが背嚢から広げた紙には、部屋と入口の幅、それに階段の狭い場所まで書き込まれていた。
「この大きさまでなら、途中で引っかかりません。背負ったまま入れます」
「中はどうだった?」
「涼しかったです。壁際は少し湿っていたので、樽は離して置きました」
「床からも浮かせるぞ。角材は次に運べばいい」
ゼノが指で図を叩いた。
「扉は閉まるが、下に隙間がある。あれは塞ぐ」
「鼠ですか」
ルルが尋ねると、ゼノは頷いた。
「俺が入口に立っていても、あいつらは横を通る」
「竜人がいても怖くないんですね」
「竜でも同じだろう。たぶん」
ヘルガは図に角材と金具を書き足し、運搬代と見回り代を帳面に控えた。
「小樽は二つとも、漏れずに運べました」
ハンスの報告を聞き、ヘルガは図面を畳んだ。
ルルは新しい注文用の札を見て、首を傾げた。
「結局、ドラゴンキラーのままなんですね」
「仕入れ先の名前だからね。代わりに、説明を足したの」
銘柄の下には、少し小さな字で「竜人ゼノさんも飲んでいます」と書いた。
ゼノは水割りを受け取り、札の位置を自分の方へ少し直した。
「竜人と竜は別物だ。それは誤解しないように」
「はい。お勧めするときに伝えますね」
ルルが頷くと、彼は満足そうに酒を飲んだ。
ハンスは空いた背嚢の紐を緩め、中へ入れた木枠を見せてくれた。樽が傾かないよう、自分で組んだらしい。初めて来た夜より、背嚢が少し四角くなっていた。
「樽の札は、入口から読める向きにしてあります」
「頼もしいね。ゼノ、次に見に行くときも、減ってないか見とくれ」
「任せろ」
「味を見るのは、あたしが行ったときだけだよ」
ゼノは返事をする前に、ひと口飲んだ。
「減っていたら、すぐ報告する」
「何で減ったかもね」
私は改名案の紙を畳み、帳面に挟んだ。ルルが札を棚へ掛けると、ゼノはその下の瓶を指した。
「それをもう一杯」
「ドラゴンキラーですね」
「……大きいグラスで頼む」




