第10話 夜ごと減るボトル
ピートたちのボトルに、細い糸が結ばれていた。
名札を吊るしている紐とは別の、白い糸だ。酒の液面と同じ高さに、私が昨夜巻いた。
今は、糸の下に指一本分の隙間がある。
「ママ。やっぱり減ってます」
開店前の店で瓶を掲げると、ヘルガはお通しの鍋から顔を上げた。
「あの三人、昨日も来てないね」
「四日来てません。おとといは、ネラちゃんが後から入れた甘いお酒も減ってました」
ルルが棚の前へ来て、口を押さえた。
「私、間違えて使ったんでしょうか」
「昨日は二人で確かめたでしょう。片づけが終わってから、この糸を巻いたんだから」
栓はきちんと閉まっていた。瓶の底を拭いても、布は濡れない。
最初に気づいたのは三日前だった。客の名札のついた瓶が、覚えていたより軽い。そのときは私の記憶違いかと思った。けれど、昨夜つけた印までずれるとなると、記憶のせいにはできない。
「減った分は、店の酒で埋め合わせようか」
「先に量を控えておきます。誰かが飲んでるなら、まだ減るかもしれませんし」
「じゃあ、原因が分かるまでキープは奥へ移そう。今夜は店の酒を何本か、手をつけずに残しておくよ。印もつけてね」
「ママの寝酒じゃないですよね」
「あたしなら、そんなちびちび飲まないね」
否定するところが少し違う。
私は減った方の液面にも糸を巻き、瓶の名と二本の糸の間隔を帳面に控えた。キープボトルを木箱へ移すと、ルルが空いた棚を拭き始める。端にあった緑色の瓶を持ち上げ、首を傾げた。
「これ、名札がありません」
「昨日もあったよね。ママ、新しい仕入れ?」
「空き瓶じゃないのかい」
振ると、底の方で少しだけ音がした。栓は固く、札も貼られていない。
ひとまず棚の端へ戻し、私たちは調べるために残す瓶の液面へ糸を巻いた。接客に使う酒は、カウンターの下へ分けておく。
濃い色の酒にも、透明な酒にも、同じ白い糸が並んだ。見た目だけなら、ずいぶん几帳面な店だ。
開店して間もなく、ブルーノが来た。槍を預かり、外套を椅子の背に掛けてもらう。いつもならすぐに愚痴が始まるのに、その日は瓶棚を見上げた。
「何だ、この紐。酒にも背丈を測っとるのか」
「誰かが、夜中に飲んでるみたいなんです」
事情を話すと、ブルーノの耳が立った。グラスを受け取る手まで止まる。
「戸締まりは?」
「昨日も私が確かめました」
ルルが答えた。裏口と窓も閉まっていた。
「店の隅も見ました。ハンスさんが帰るとき、忘れ物がないか一緒に確かめたので」
「人を一人忘れて帰ったわけじゃないんだね」
ヘルガが言うと、ルルは真面目に頷いた。
私は印のついた瓶を一本下ろした。ブルーノは栓に鼻を近づけ、今度は瓶の肩を嗅いだ。
「酒の匂いがする」
「そこまでは私にも分かります」
「待ってちょーよ。ほかの匂いを探しとるんだ」
瓶を回しながら、ブルーノは何度か鼻を鳴らした。最後にグラスの水割りを飲み、もう一度嗅ぐ。
「前に俺が注文して飲んだ分まで、減ったうちに入れとらんよな」
「入れてません。あの分はちゃんとお勘定しました」
私が言うと、ヘルガが笑い、ブルーノは瓶をカウンターへ置いた。私は栓を確かめ、棚へ戻した。
昨夜、リンさんには、樽で長く寝かせた酒が自然に減る分を「天使の分け前」と呼ぶのだと教わった。ただし、閉めた瓶から一晩でこれだけ減る説明にはならなかった。
「天使が飲むとか言うんでしょう?」
私が言うと、ブルーノは棚を睨んだ。
「天使でも、勘定は払ってもらわんとな」
「まず、来たところを見たいですね」
ルルは真顔で天井を見上げた。
その晩、ブルーノは飲むたびに棚を見た。私がカウンターの下から接客用の瓶を出すと、その瓶に糸がないことまで確かめる。
「棚の方は、今夜は誰にも出しませんから」
「分かっとる。癖で目が行くんだわ」
ルルに一杯勧めたときも、彼女が自分の分を注ぐところをじっと見ていた。
「そんなに見られると、手が震えます」
「すまん。仕事のつもりになっとった」
「ここでも門番ですか」
私が言うと、ブルーノは背もたれに体を預けた。
「門は誰も通らんのに、こっちは見とらん間に来るんだな」
結局、見張っている間には何も起きなかった。私は勘定を受け取り、入口で槍を返した。
「明日も減っとったら教えてちょーよ」
「いってらっしゃい」
ヘルガに送り出されても、ブルーノは扉の隙間から一度、棚を見た。
閉店後、ルルが布を手にしゃがんでいた。
「ミナミさん。ここ、また濡れてます」
棚の下から二段目に、細い輪ができている。ルルは開店前にも同じ跡を拭いたという。
「どの瓶の下?」
「何もなかったところです」
私は棚へ近づいた。昼間は右端に置いたはずの緑色の瓶が、真ん中にあった。
「これ、ルルちゃんが動かした?」
「いいえ。開店前に右端へ戻してからは触ってません」
ヘルガにも聞いたが、首を振られた。
緑色の瓶を持ち上げると、下には丸い跡があった。隣に置いた火酒は、印より少し減っている。今夜は一度も栓を開けていない瓶だった。
緑色の方は相変わらず、底にわずかに残っているだけだった。
「ママ。これ、どこから来たんでしたっけ」
「仕入れた覚えはないよ」
「じゃあ、お客さんが置いていったんでしょうか」
ルルが瓶の口を覗き込んだ。私は彼女を少し下がらせ、栓をつまんだ。
抜けない。
布を巻いてもう一度引くと、瓶の底がカウンターに吸いついたように動かなくなった。
「ママ、押さえてもらえます?」
ヘルガが手を伸ばした瞬間、栓が勝手に開いた。
「サワルナ、パカ」
私たちの手が一斉に離れた。
緑色の瓶は、しばらく口を開けていた。瓶口の内側に、小さな白い歯が並んでいる。
「……今、喋りました?」
ルルが私を見る。瓶の口が閉まり、また開いた。
「サケ、パカ」
「ミミックだね」
ヘルガは瓶を横から眺めた。持ち上げようとはしなかった。
「宝箱になるやつですか」
「瓶になるのもいたんだねえ」
私が隣の火酒を遠ざけると、緑色の瓶がそちらへ傾いた。底が縮み、ずり、と動く。濡れた輪が一つ残った。
「犯人、見つかりましたね」
ルルの尻尾が、今になってぴんと立った。
ヘルガが小皿へ火酒を少し注ぐと、瓶の口から細い舌が伸びた。皿を舐め終えるまで、ほんの数秒だった。
「栓、どうやって開けてたの?」
私は、火酒の瓶を手で押さえながら尋ねた。
ミミックは舌を伸ばし、その先を栓へ巻きつけた。私が瓶を引くより早く、栓が抜ける。
「上手ですね」
「ルルちゃん、褒めなくていいよ」
今度は栓を押し戻し、緑色の瓶は口を閉じた。抜いた跡まで片づけていたらしい。
「飲んだ分は、どこへ行くんだい」
ヘルガが尋ねても、返ってきたのは「サケ」だけだった。
私が火酒を持って離れると、ミミックはカウンターの端へ寄った。落ちるかと思って手を出しかけたが、瓶は壁へぴたりと張りつき、そのまま棚へ上がっていく。
「ミミちゃん、そっちも駄目ですよ」
「名前つけたの?」
「ミミックさんだと、呼びにくいので」
ルルが追いかけるように手を伸ばした。けれど、ミミちゃんは最上段の手前で止まった。
そこには、名札のない古い瓶が一本ある。
「そこには触るんじゃないよ」
ヘルガの声に、ミミちゃんは瓶口を閉じた。じりじり後ろへ下がり、下の段へ戻ってくる。
「ママ、コワイ、パカ」
「ほかの瓶もだよ。飲むなら、この皿からにしな」
ヘルガが見ている間、ミミちゃんの舌は出てこなかった。
「ママ、あの瓶は何ですか?」
ルルが最上段を指した。
「売り物じゃないよ」
ヘルガは小皿を洗い場へ運んだ。私はミミちゃんの前へ空の皿を置いた。
キープボトルは、持ち主に確認するまで奥で預かることにした。減った分も帳面に控えてある。
翌晩、ブルーノは犯人を見て、鼻先を近づけた。
「こいつだったのか」
「お酒の匂いはしたでしょう」
「全部、酒の匂いだったんだわ」
ミミちゃんは鼻を向けられると口を閉じ、ブルーノが離れると開けた。
ルルが昨夜のことを話すうち、最上段の瓶へ近づいて叱られたというところで、ブルーノの耳が伏せた。
「やっぱり、あれは呪われとるんだな」
「やっぱりって、前からそう思ってたんですか」
「誰も飲まんし、ママも出さんだろ」
「出さない酒は、全部呪いなのかい」
ヘルガに聞かれ、ブルーノは自分のボトルの名札を撫でた。
ミミちゃんには、カウンターの端に居場所を作った。客の瓶には手を出さないこと。酒はヘルガが小皿に出した分だけ。それを守れなければ、瓶棚から離れた箱へ移すことになった。
ヘルガが蓋つきの箱を見せると、ミミちゃんは底をカウンターへ押しつけた。
「ココ、パカ」
「じゃあ、舌をしまっておきな」
ルルが小皿を持ってくると、ミミちゃんの栓が開き、ほかの瓶へ伸びかけた舌が素早く戻った。
私は壁へ新しい貼り紙を足した。
「お触り禁止。女の子にも、ボトルにも」
ブルーノが読み上げ、自分のグラスを引き寄せた。
「自分の酒も触れんのか」
「注ぐのは私たちがやりますから」
「こいつは?」
ミミちゃんの口へ指を出しかけたので、私は貼り紙を指した。
ブルーノは手を引っ込めた。その隙にミミちゃんの舌が伸び、彼のグラスへ入りかける。
「こっちの酒には手を出すんか」
ヘルガが箱の蓋を開けると、舌はすぐに引っ込んだ。




