第11話 悪役令嬢の断罪前夜
開店してすぐ、明らかに椅子より高そうな服を着た女性が入ってきた。
ルルはカウンターの端へ小皿を置いた。ミミちゃんの舌がその酒を舐めるのを確かめてから、入口へ向かう。
裾を持ち上げて敷居をまたぎ、店内を見回す。ルルが声をかけると、女性は扉を閉めてから、急に小さな声になった。
「ここでは、相談を聞いていただけると伺ったのですが」
「飲みながらでよければ。こちらへどうぞ」
私が椅子を引くと、彼女は座る前に料金表を確かめた。
「一時間で、話し終わるかしら」
「長くなったら、お時間をお知らせしますね」
「できれば、今夜中に」
閉店時刻の確認かと思ったら、彼女は両手を膝の上で握りしめた。
「明日、断罪されるんです」
ルルが差し出しかけたおしぼりを止めた。私は受け取って、女性の前へ置く。
「何か、してしまったんですか」
「まだ何も」
「まだ?」
「する予定もありません。でも、明日の卒業祝賀会で、婚約を破棄されて、国外追放になるんです」
ヘルガがお通しの皿を置いた。
「明日の話なのに、ずいぶん詳しいね」
女性は唇を噛み、私たちを順に見た。
「ベアトリクスと申します」
続いた家名は、私でも知っていた。公爵家だ。ルルが慌てて背筋を伸ばす。
「そんなに固くならないでください。私、今はただ、誰かに話を聞いてほしくて」
「じゃあ、ベアトリクスさん。まず、お飲み物を決めましょうか」
「酔っても、明日は来ますよね」
「来ますね」
「薄いものをお願いします」
私は水を多めにして酒を作った。彼女はおしぼりを両手で包み、しばらく温めていた。
婚約者は王子だという。学院には、王子が親しくしているソフィアという女性がいる。明日の祝賀会で、ベアトリクスが彼女へ嫌がらせをしていたことを暴かれ、婚約を破棄される。それが彼女の言う断罪だった。
「嫌がらせは、本当にしてないんですね」
「していません。階段にも近づいていませんし、彼女の教科書に触ったこともありません。お茶会にも呼びませんでした」
「呼ばなきゃ呼ばないで、仲間外れって言われるんじゃないかい」
ベアトリクスはグラスを持ったまま固まった。
「……そこまでは、考えていませんでした」
「ママ、不安を増やさないでください」
「全部避けてきたんです。会話の選択肢も、なるべく無難な方にして」
私は酒瓶の栓を閉める手を止めた。
ベアトリクスは気づかず、グラスの水滴を指で拭っている。
「それなのに、明日は卒業祝賀会で、殿下からは『大事な話がある』と。もう、イベントが始まってるんです」
「……それ、ゲームの話?」
彼女が顔を上げた。
「分かるんですか」
「今の言い方には、ちょっと覚えがあるけど」
「乙女ゲームです。私、前は日本にいて」
最後の方は、ほとんど息だけになった。
私は彼女の前へ水を置き、声を落とした。
「私も、日本から来たの。そのゲームは知らないけど」
ベアトリクスは水を飲もうとして、グラスを両手で持ち直した。
「よかった。攻略対象とか、破滅ルートとか、誰に話しても通じなくて」
「ママには、婚約者ともめそうだって話で通じると思う」
「まだ、もめてすらいないんだろ」
ヘルガが言うと、彼女は小さく頷いた。
ゲームでは、ベアトリクスは王子の恋を邪魔する役だったらしい。自分がその人物として生まれたと気づいてからは、婚約者にもソフィアにも近づかず、卒業する日を待っていたという。
「王子様には、何を言われたの?」
「先日、明日のことで大事な話があると。その後、時間と場所を書いたお手紙が届きました。祝賀会の前に呼ばれています。会が始まる前に、何か言い渡されるのだと思って」
「何の話か聞いた?」
「その場では、とても」
ベアトリクスは鞄から折り畳んだ紙を出した。追放された場合の行き先と、旅費が書かれている。
「聞く準備より、出ていく準備の方が進んでますね」
「お金は、どうにか持ち出せそうなので」
「ママ。そんなに旅費を見ないでください」
「ぼったくるかい」
「だめです」
ベアトリクスが初めて、少しだけ笑った。
ベアトリクスがお通しに手をつけた頃、扉が開いた。
淡い色のワンピースを着た女性が、入口で立ち止まった。肩に掛けた鞄の紐を握り、こちらを見ている。
「ベアトリクス様」
ベアトリクスの匙が皿に当たった。
「ソフィアさん」
ルルが私を見た。私は隣の椅子を少し引いたが、ソフィアは立ったままだ。ベアトリクスも、座っていた椅子から腰を浮かせていた。
「学院から帰る途中で、お姿が見えたので。こんな時間に、お一人でどちらへ行かれるのかと」
ソフィアは店の中を見回した。
「外で待っていたんですけど、なかなか出ていらっしゃらなくて」
「私に、何か御用?」
「あの、明日のことで、お話ししたくて」
ベアトリクスの手が鞄へ伸びた。旅費の紙をしまい、口金を閉じる。
「ここでですか」
「明日では、遅いと思って」
私は二人の間へ料金表を置いた。
「お話しするなら、座りませんか。お酒は薄くもできますし、水で休みながらでも大丈夫です」
ソフィアは料金を見て頷き、ベアトリクスから一つ空けた椅子へ座った。
「私は、ベアトリクス様と同じものをお願いします」
ルルがおしぼりを渡し、私は新しいグラスを出した。
「私、殿下とは何でもないんです」
酒ができる前に、ソフィアが言った。
「親しくしていらっしゃるでしょう」
「図書室でお会いすることはあります。でも、それだけです。ほかの方とも、なるべく二人きりにならないようにしてます」
「ほかの方?」
「騎士団長のご子息とか、宰相のご子息とか」
ベアトリクスは指を折りかけ、途中でやめた。
「全員?」
「はい。誰のルートにも入りたくないので」
今度は、ベアトリクスの口が開いた。
ソフィアも自分が何を言ったか気づいたらしく、おしぼりへ目を落とした。
「ルートって、あなた」
「……ゲームの」
「日本?」
ソフィアが勢いよく顔を上げた。
私はソフィアの水割りを仕上げ、カウンターへ置いた。しばらくは、私が話を聞かなくてもよさそうだった。
二人は同じゲームの題名を口にしたあと、互いの顔を見つめていた。ベアトリクスが先にグラスを取る。
「そうなら、どうして言ってくださらなかったの」
「言えませんよ。ベアトリクス様が、いつも私を見ると廊下の反対側へ行かれるから」
「あなたこそ、私がお茶を飲んでいると、絶対に近づかなかったでしょう」
「だって、毒が」
「入れません!」
ルルが水差しを持ったまま止まり、ヘルガが彼女の肘を軽く押した。水は無事、グラスへ入った。
「じゃあ、お二人とも、相手がゲームどおりの人だと思ってたの?」
私が聞くと、二人は別々に頷いた。
「私は、ソフィアさんが殿下と結ばれたいのだと思って」
「私は、ベアトリクス様が殿下を取られたくないのだと思ってました」
「取りたくありません」
「私もです」
ヘルガが、二人の間の空席の前へ小皿を置いた。
「真ん中にいない男が、一番嫌われてるね」
「嫌っているわけでは」
二人の声が重なった。ベアトリクスはソフィアを見て、座っていた椅子を一つ隣へ移った。
ソフィアも薄い酒をひと口飲むと、鞄から便箋を取り出した。
「私にも、殿下から明日のことで大事な話があると」
「同じですわ」
「何を聞かれるんでしょう」
「本人に聞けばいいんじゃない?」
私が言うと、二人とも黙った。ルルが二人のグラスの減り方を見て、水差しをそっと置く。
「明日の会場で聞くんですか」
「その前に。大勢の前で何か言われるのが嫌なら、先に時間をもらったら?」
「でも、それで断罪が早まったら」
ベアトリクスが言いかけると、ソフィアが首を振った。
「私は、何も訴えていませんよ」
「本当に?」
「階段から落ちてませんし、教科書もあります」
「お茶会に呼ばなかったのは……」
「ほっとしてました」
ベアトリクスは片手で額を押さえた。私はソフィアの便箋を、読める向きへ回してもらった。
王子の文面には、祝賀会の前に、ベアトリクスを交えた三人で今後のことを話したいとあった。
「三人で話したい、とありますね。ソフィアさんも一緒だって、聞いてました?」
「三人で、今後のこと」
ベアトリクスはそこだけ読み直した。
「私の手紙には、三人でとは書いてありませんでした」
「では、私が来ることも御存じなかったんですか」
「ええ。私だけ先に呼び出されて、あとからあなたがいらっしゃるものかと」
ソフィアは便箋に目を落とし、指で折り目を伸ばした。
「私も、ベアトリクス様はお聞きになっていると思ってました」
「では、私は何を用意すれば」
「殿下と結婚したいかどうかは、決まってるの?」
ベアトリクスは便箋から目を上げ、ソフィアを見た。
「私は、結婚する相手とは、もう少し普通に話がしたいです」
「今は話せない?」
「話しかけられると、どこで間違うかばかり考えてしまって」
「私もです。好きな花を聞かれただけで、その答えはまずいかもって」
ソフィアが言うと、ベアトリクスは何度も頷いた。
「それで、本当はどんな花が好きなの?」
私が聞いた。
「小さい白い花です。名前は知らないんですけど、家の裏に咲いてて」
「それを言えばよかったのに」
「庭園の赤い薔薇、と答えました」
「好感度が一番上がる答えですわ」
ベアトリクスが即座に言い、ソフィアはグラスを両手で包んだ。
「緊張すると、覚えてる答えが出ちゃうんです」
ヘルガが洗った皿を重ねながら笑った。
「それで男の方は、喜ばせようと薔薇を持ってくるんだろ」
「……三回いただきました」
私は水を飲んだ。ソフィアは自分でも笑い始め、ベアトリクスもとうとう肩を揺らした。
「ママは、昔どんなものを贈られたんですか?」
ルルが尋ねると、ヘルガは洗った皿を一枚重ねた。
「花じゃないね。昔の男は竜騎士で、竜の鱗をくれたよ」
「この前は王子様って言ってませんでした?」
「王子で竜騎士だったんだよ」
ルルは納得したのかどうか、首を傾げたまま皿洗いを手伝い始めた。
ヘルガの昔の男は、聞くたびに職業が変わる。前に聞いたときは、乾杯の前にグラスを二度鳴らす話をしていた。今夜はルルが皿を運び始めたので、それ以上は聞けなかった。
二人は王子に会う時間を、もう一度確かめた。ベアトリクスも鞄から殿下の手紙を取り出し、ソフィアの便箋と並べた。指定されたのは、どちらも祝賀会の始まる二時間前で、場所も同じだった。
「一緒に行ってくださいます?」
ベアトリクスが尋ねた。
「はい。先に私から、ベアトリクス様に何もされていないと話します」
「私も、あなたを避けていた理由を。ゲームの話はできませんけれど」
「怖かったって言えば、それは本当ですよね」
二人が相談している間に、私は空いた皿を下げた。ルルが時間を知らせると、ベアトリクスは、もうそんなに経ったのかと驚いていた。
勘定はそれぞれで払った。ソフィアが先に席を立ち、ベアトリクスは旅費を書いた紙を取り出して、便箋の間へ挟み直した。
「まだ捨てないんですね」
「念のためですわ」
「旅行に使えるといいですね」
ルルが言うと、ベアトリクスは口元を緩めた。
入口で二人は、どちらが先に出るか少し譲り合った。最後にはベアトリクスが扉を押さえ、ソフィアがその脇を通る。
「いってらっしゃい」
ヘルガの声に、二人が揃って振り返った。
ソフィアが何か言いかけ、ベアトリクスの袖へ触れた。
「そういえば、私、お茶会のお誘いなら、今は行きたいです」
「では明日、殿下とのお話が済んだら」
「普通のお茶会ですよね?」
「毒は入れませんわ」
扉を閉める直前、ベアトリクスがこちらへ顔を戻した。
「やっぱり、お茶より、またここでもよろしいかしら」
「もちろん。明日は何時頃にします?」
彼女はソフィアと顔を見合わせた。
「断罪されなければ、開店と同時に」




