第12話 神々の水割り
ハンスが仕入れの箱を置き、ヘルガと次の配達日を決めて帰った。迷宮へ行く日は空けておきたいそうで、彼の紙には、店へ来る日と町を出る日が別々に書き込まれていた。
扉の鈴が静かになって間もなく、次の客が来た。
その男が扉を開けると、カウンターに置いたグラスの影が、一斉に伸びた。
日暮れは早くなったが、まだ灯りを足す時刻ではない。そもそも、明るいのは外ではなく男の方だった。ぶどうの蔓を巻いた髪も、むき出しの肩も、金色に光っている。
「旅のワイン商だ。一杯、飲ませてもらえるかな」
「いらっしゃいませ。あの、少し暗くできます?」
私が頼むと、男は自分の胸元を見下ろした。
「おっと。抑えてきたつもりだった」
光が弱まる。それでも、男の隣で帳面が読めそうだった。
先に飲んでいたリンさんが、手で目元を覆った。
「その向きに座るでない。酒の色が分からん」
「失礼。君ほど長く生きた者には、見覚えのある光かな」
「眩しいものは、眩しい」
ルルがおしぼりを持ったまま、私の後ろへ寄った。尻尾が足首へ巻きついている。
「ミナミさん。この方、たぶん」
「ありがとう、姫。そんなに畏まらなくていい」
男はルルのおしぼりを受け取り、片目をつむった。ルルはますます背筋を伸ばした。
ヘルガの目は、男がカウンターへ置いた金色の壺に向いている。
「……ちょっとだけ、ぼったくるかい」
「ちょっとでも駄目です」
私は料金表を男の前へ置いた。
「お名前は?」
「バッカスと呼んでくれ」
リンさんが、自分のグラスを少し遠ざけた。
「この店で、一番いい酒を」
バッカスは料金表を見ずに言った。ヘルガは棚から自分で仕込んだ火酒を取り、小さなグラスへ注ぐ。
「高い酒じゃなくて、いい酒だね」
「そう。その違いが分かる店は好きだ」
彼はひと口含み、今度は少しゆっくり飲んだ。髪の蔓に、さっきまでなかった小さな葉が開いた。
「これはいい。樽に任せきりにしていない」
「任せられるほど、樽もよく働かないからね」
「ならば、私からも一杯」
金色の壺の蓋が開いた。
甘い香りが広がった途端、リンさんが椅子の背へ沈んだ。私は慌ててグラスを避ける。
「リンさん?」
「分かっておる。これは、少し」
そこまで言って、目を閉じた。
「まだ飲んでませんよ」
「香りを取るのが上手すぎたのだろう」
「感心してないで、蓋をしてください」
私は窓を少し開け、ルルに水を頼んだ。リンさんは呼びかければ返事をするが、耳の先まで赤くなっていた。
バッカスが壺に蓋をすると、香りは薄れた。ヘルガは彼の前に小さなグラスを三つ並べる。
「店の者に飲ませるなら、少しずつにしておくれよ」
「もちろん。ネクタルは、量を誇る酒ではない」
注がれた液体は、壺と同じ金色だった。
「姫たちも、どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
私は唇を湿らせる程度に飲んだ。舌の上に蜜のような甘さが広がり、そのあとで熱が来る。飲み込んでから、しばらく声が出なかった。
ルルはひと口でグラスを置き、口を閉じたまま私を見た。尻尾の先だけが細かく震えている。
「……すごいお酒ですね」
ようやく言うと、バッカスは嬉しそうに頷いた。
「地上の酒では、こうはいかない」
「ハーブ茶で割ってもいいですか」
笑顔が止まった。
「今、何と?」
「香りの弱いお茶があります。冷めてるので、すぐ作れますよ」
「ネクタルを、茶で薄めると?」
肩の光が強くなった。ルルが眩しそうに目を細める。
「そのままだと、私たちは少ししか飲めません。ゆっくり一杯いただきたいんですけど」
「これは神聖な酒だ。余計なものを加えてよい品では」
「氷は?」
ヘルガが聞いた。
「氷なら構わん」
「溶けたら水だよ」
バッカスはヘルガを見た。ヘルガは茶の入ったポットを私に渡した。
「まず、あたしの分で試しな」
別のグラスへ少量のネクタルを移し、茶を足す。私は清潔な匙で少しすくって味を確かめ、グラスをバッカスの前へ置いた。
「お気に召さなかったら、残して大丈夫です」
彼はしばらくグラスを眺めていた。やがて持ち上げ、香りを嗅ぎ、慎重にひと口飲んだ。
もうひと口飲む。
「……茶は何を使った?」
「台所にありますよ」
「配合も聞きたい」
ヘルガが空のグラスを追加した。
水割りでは甘さが軽くなり、お湯を少し足すと、遠ざけていたリンさんがまた顔を赤くした。私はお湯割りをバッカスの側へ移し、リンさんには水だけを渡した。
「私は、香りだけで十分だ」
「もう十分ですね」
「価値が分からんと言っているのではないぞ」
「分かってますから、今はお水を」
ルルは茶割りを両手で持ち、少しずつ飲んでいた。バッカスは水と茶の量を変えるたび、自分の前のグラスを入れ替えている。
「水を多くすると、別の香りが出るのだな」
「飲みやすいでしょう」
「なぜ今まで、誰も私に言わなかった」
「怒られると思ったんじゃないですか」
バッカスはお湯割りを飲み、壺の蓋を撫でた。
「近頃は、捧げものも減った。最初の一滴を私に捧げる習慣さえ忘れられつつある」
「ワイン商への捧げもの?」
私が尋ねると、彼は片手を振った。
「その話はもうよい。神殿にも、人が来なくなってね」
ヘルガはお通しを追加した。彼は豆を一粒つまみ、ため息をついた。
「皆、安いエールばかり飲む。喜びを分かち合うために酒を授けたというのに、私のことは忘れている」
「エールでも、お酒は飲んでますよね」
「そうなのだが」
「さっきのお茶割りみたいに、好きな飲み方があるんじゃないですか」
ルルが言うと、バッカスは彼女のグラスを見た。
「神殿でも、これを出せば来るだろうか」
「いつ開いてるんです?」
私が聞くと、朝の礼拝のあとに一度、祭日の昼に一度だという。
「その時間、働いてる人は行けないですよ」
「では夕方にも開けよう」
「開いてるって、外から分かるようにしな。戸を閉めて待ってても来ないよ」
ヘルガは入口の方へ顎を向けた。バッカスは頷き、何か書くものはないかと辺りを見回した。私は紙とペンを出した。
「助かる。神殿の者に伝えなければ」
「来てくれた人の名前も覚えるといいと思います」
ルルが言った。
「毎回『姫』だと、覚えてもらってないのかなって」
バッカスはペンを止めた。
「君の名は」
「ルルです」
「覚えたよ、ルル」
その隣で、リンさんがようやく体を起こした。
「名を覚えるだけでは足りん。何を飲むかも覚えておくことだ」
「好みの酒を用意するのか」
「瓶に名札をつけておけば、間違えずに済む」
「それは、供物として預かる?」
「飲むために預けるのだ。勝手に捧げものにするな」
私はバッカスの紙を覗いた。夕方から開ける。灯りをつける。名前と酒を覚える。
「神殿の人、これを見て困りませんか」
「祭壇に瓶を並べる場所はある」
「まず、そこから離れましょうか」
ヘルガが笑い、バッカスも声を上げた。蔓の葉がまた一枚増えたが、今度は肩の光が強くなることはなかった。
壺の蓋を閉じ、バッカスは書いた紙を畳んだ。
「よい夜だった。私からも礼をしたい」
「お勘定なら、こちらです」
ヘルガの伝票を見て財布を取り出したバッカスは、金貨を一枚差し出した。ヘルガが受け取り、釣り銭を返した。そこまでは、普通の客だった。
「それとは別だよ。ミナミ、君は遠いところから来たね」
私は洗い場へ運びかけたグラスを持ち直した。
「ローデンの外からなら、そうですけど」
「この世界の外だ。日本、と呼んでいた土地だろう」
ルルが顔を上げた。ヘルガは釣り銭の箱を閉めた。
「望むなら、帰すこともできる」
私はグラスをカウンターへ置いた。
「……帰れるんですか」
「君がいた世界へ、道をつなぐことはできる」
戻るなら、今なのかもしれない。あの裏口を探して歩いた夜には、聞きたくて仕方のなかった言葉だ。
隣でルルがグラスを拭いていた。縁に曇りが残っていないか、灯りへ透かしている。明日のお通しは何にするのか、開店前にヘルガと話していたことを思い出した。
私は置いたグラスを取り直し、洗い場へ運んだ。
「今夜はまだお客さんがいますし、明日もここで店を開けたいんです。帰るのは、やめておきます」
「そうか」
バッカスは頷いた。
「ほかに望みは?」
私は氷入れの蓋を開けた。底には、小さな欠片が二つだけ残っていた。
「氷を作れる樽って、もらえますか。いくら使っても、なくならないような」
「それでよいのか」
「夏も困りましたし、お湯割りばかり出すわけにもいかないので」
ヘルガが、明日の仕込み用に取ってあった空の小樽を持ってきた。
「これくらいなら、置けるよ」
バッカスが樽の縁へ指を置いた。金色の光が内側を巡り、乾いた音が一つ落ちる。
覗くと、透明な氷があった。続けて二つ、三つと増える。
ルルが氷ばさみで一つ取り、灯りに透かした。
「きれい。リンさんの氷みたいです」
リンさんの耳が動いた。
私は氷と彼の顔を交互に見た。
「待て。それが毎晩、氷を作るのか」
「毎晩どころか、いつでもだ」
バッカスは胸を張った。
ヘルガがリンさんの方を向く。
「じゃあ、次からは現金払いだね」
リンさんは背もたれへ沈んだ。
「まだ香りが強いですか?」
ルルが窓へ向かいかける。
「今のは、お酒じゃないと思う」
私は彼のグラスを手元から避けた。
閉店後も、樽からは音がしていた。
カラ、カラ、と氷が増える。蓋を閉めても、布を掛けても止まらない。バッカスは金色の壺を抱え、機嫌よく帰ってしまった。
「ママ、これ、寝室の下に置かないでください」
「あたしの部屋の下だって嫌だよ」
「いくらでも、とは頼みましたけど、ずっと作ってとは」
「そこは神様に言っとくれ」
ルルがいっぱいになった氷入れを持って、立ち尽くしていた。
ヘルガはしばらく考え、空いた桶を引き寄せた。
「明日、リンの家へ持っていこうか」
「氷を作る人に、氷を?」
「引き取ってくれた分、残ってるツケから引いてやればいい」
「今までと逆じゃないですか」




