第7話 十分間の英雄譚
吟遊詩人が入ってきたのは、最初の客の水割りを作っているときだった。背に負った楽器が扉の枠に当たり、男は横向きになって通る。私は楽器を預かろうと手を出したが、男は胸の前に抱え直した。
「これは武器ではありません」
「それなら預けなくていいよ」
「ありがとうございます。今宵、この店に英雄の生涯をお届けします」
男はオルフェと名乗り、楽器の袋を外した。ヘルガが何か言う前に椅子へ座り、弦を一本鳴らす。近くの客がグラスを持ったまま顔を上げた。
「どのくらいかかるんだい、その生涯は」
「三時間ほど。王家の系譜を省けば、二時間半にもできます」
「省きな」
「ですが、先王の弟が旅立ちを許した理由が分からなくなります」
「旅立ってから歌いな」
オルフェは弦に置いた指を動かさず、ヘルガを見た。前に演奏していた酒場では、三時間の英雄譚を一度歌ったあと、次からは短い曲だけにしてくれと言われたという。
「短くして二時間半だと言ったら、もう来なくていいと」
「それでうちへ来たのかい」
「こちらなら最後まで聞いてくださる方がいるかと」
三時間居座れば誰かは聞くかもしれない。私は水割りを作り終え、棚の砂時計を見た。ヘルガがそれを取ってくる。砂が落ちきるまで十分だ。
「一曲十分。続きは客に頼まれたら歌いな」
「英雄はまだ生まれていません」
「だったら、急いで生んでおくれ」
ヘルガが砂時計を返した。オルフェは慌てて最初の一音を鳴らす。
歌はうまかった。先王の弟どころか英雄の両親も飛ばし、北の山に魔物が現れたところから始める。客はグラスを傾けながら耳を澄ませた。英雄が剣を抜いたあたりで、私は砂時計を見た。残りはもう三分の一ほどしかない。
「オルフェさん、そろそろ」
私が小声で言うと、彼は歌いながら頷いた。そこから魔物は一節で倒れ、英雄は二節で故郷へ帰った。最後の音が消えた直後、砂が落ちきる。
「ずいぶん早く帰ってきたね」
ヘルガが言う。オルフェは息を整えながら、本来は魔物と三度戦うのだと抗議した。
「じゃあ次は、二度目から始めたらどうですか」
ルルが提案すると、オルフェは首を振った。
「一度目の戦いを知らずに二度目を聞いても、困るでしょう」
「一度目なら、今聞きましたよ」
私が言っても、彼は楽器を抱えたまま砂時計を見つめていた。
オルフェは楽器の袋から、小さな青い石を取り出した。手のひらに載せ、「あ」と声を出す。石が同じ高さで細く鳴った。
「鳴き石です。声の音を返します。伴奏に合わせて一曲歌えば、音のずれを見て百点満点で点数も出せるんです」
「歌詞を忘れたら減点?」
「音だけです。歌詞までは聞き分けません」
ヘルガは魔法禁止の貼り紙を指した。
「その石を使って、ほかに何かするんじゃないだろうね」
「声の音を返して、点数を出すだけです」
「ならいいよ。大きな音にしないように」
試しにヘルガが「あ」と言う。石は低く唸り、すぐ静かになった。ルルが同じ音を出すと、今度は澄んだ声で返る。伴奏のない一音なので、点数は出ない。
「何だい。持ち主に似て愛想の悪い石だね」
「ママの声を返しただけですよ」
私が言うと、ヘルガは石を指でつついた。オルフェも、今のは採点ではないと弁護する。
ルルがもう一度声を出すと、石は長く鳴った。さっきまで酒を飲んでいた客も、自分の声で試したがった。オルフェは英雄の二度目の戦いを歌おうとしていたのに、いつの間にか石を持ち歩き、客の前で一人ずつ音を確かめている。私は砂時計を元へ戻した。
私も試した。普段の接客では出さない高い声が出たらしく、ルルが目を丸くする。
「その声でお客さんを迎えてみてください」
「毎晩やったら、喉がもたないよ」
「英雄譚を聞いていただけませんか」
オルフェが石を取り返しながら言った。私は客席を見渡した。みんな楽しそうだが、英雄の二度目の戦いを待っている様子はない。
「歌を聞きたい人はいるよ。先に、その石を置いて一曲歌ってみて」
「英雄譚ではなくても?」
「もちろん。みんな知ってる歌の方が、一緒に歌えるかも」
オルフェはしばらく楽器を抱え、短い酒場の歌を弾き始めた。鳴き石をカウンターの端へ置くと、彼の歌に合わせて細く震える。知っている客が途中から加わり、石の音も大きくなった。誰かが歌い出すと、ほかの客がその声へ合わせる。私は水割りを作りながら、同じ節を小さく口ずさんだ。
歌が終わると、石の表面に数字が浮かんだ。合唱した全員の声が混ざっていたため、オルフェにも誰の点数なのか分からない。客たちは互いに自分の声のおかげだと言い張った。
その騒ぎの中で扉の鈴が鳴った。甲冑姿の女が外から店内を覗き、入口に立ち止まる。剣を預けるよう頼むと、彼女は壁の札を読み、きちんと鞘ごと外した。
「騎士カタリナであります。外まで歌が聞こえたので、入ってもよろしいかと」
「もう入ってるよ。座りな」
ヘルガが席を示す。カタリナは甲冑を鳴らさないよう椅子へ腰を下ろし、オルフェの楽器と鳴き石を見た。
「歌唱の訓練でありますか」
「飲みながら歌ってるだけだよ」
私が水割りを出すと、カタリナは飲む前に背筋を伸ばした。勤務の帰りで、宿へ寄る前に一杯だけ飲むつもりらしい。
オルフェが別の曲を弾きかけ、手を止めた。今度は男女が交互に歌う古い恋の歌を選んだが、女性のパートを頼める人が決まらない。知っている客はみな最初の一行だけ歌って、次の人へ振ってしまう。男のパートなら歌えると言った客まで、女の方は声が出ないと尻込みした。
「では、男の方は私が歌いましょう。女性のパートをお願いできる方は?」
オルフェが店内を見回した。ルルが私を見たので、私は首を振る。ルルも慌てて首を振った。
「では、私が歌います」
カタリナが手を挙げた。曲は知らないが、聞いてからなら覚えられるという。オルフェは自分が弾きながら男のパートを歌い、カタリナへ歌詞と旋律を一節ずつ教えることにした。
私は鳴き石を二人の間に置いた。カタリナはオルフェの歌をよく聞いてから繰り返す。その真面目さに、オルフェも弾く手を緩めた。
「夜明けまで、門を閉ざしておくれ」
オルフェが歌う。カタリナは歌詞を確かめるように目を細めた。
「鍵は、あなたに預けましょう」
鳴き石が二人の声の間でよく響いた。客が拍手し、ルルも指先で調子を取る。カタリナは誉められて背筋を伸ばし、次の節もきちんと歌った。
「鎧を脱いでも、逃げはしません」
そこで彼女の声が止まった。オルフェが弦を鳴らしたまま、続きの歌詞を教える。カタリナは自分の甲冑を見下ろし、それからオルフェを見た。
「この歌は、門の警備についてではないのでありますか」
「恋の歌です」
ルルが答えると、カタリナは鳴き石をじっと見た。石が返していた音も、歌が止まって細く消える。
「くっ、殺せ……であります」
「誰も剣を抜いてないよ」
ヘルガが言い、客たちが笑った。カタリナはオルフェへ向き直った。
「恋の歌だと、先に教えてほしかったであります」
「古い曲なので、ご存じかと……」
私はカタリナのグラスへ水を足した。
「次は歌詞を先に読もうね」
「次があるのでありますか」
「今の、声はとてもよかったです」
ルルに言われると、カタリナはグラスを持ったまま黙った。もう歌わないとは言わず、オルフェが別の曲を選ぶ間、自分のグラスを鳴き石から少し遠ざけた。
その後は、歌う客が競って鳴き石を自分の前へ引き寄せた。高得点なら自分の歌声を褒め、低い点ならオルフェの伴奏を疑う。石は音のずれを数えているだけだと説明されたはずだが、オルフェは毎回弁明する羽目になった。
英雄譚の続きを始める暇もなく、客の知っている曲を次々に弾く。ルルは客から一杯勧められ、礼を言って薄い水割りを作った。私も一緒に飲んだが、三曲目からは自分のグラスに水ばかり足していた。
カタリナが帰るとき、私は入口で預かっていた剣を返した。彼女は鞘を腰に留め、私たちに背筋を伸ばした。
「次こそ、先に歌詞を読むのであります」
「恋の歌でも?」
ルルが尋ねると、カタリナは答えず、甲冑を鳴らさないよう扉を出た。
ほかの客も帰り支度を始め、オルフェは楽器を袋へ戻した。ヘルガが砂時計を逆さにして、彼の方へ押す。
「明日からは客が頼んだ曲を弾いておくれ。一曲、銅貨五枚。頼んだ客から直接もらいな」
「英雄譚も、その料金で?」
「三時間で五枚は安すぎるだろ」
「では、続きは別料金で」
「まず十分に収めな」
オルフェは店を見回した。今夜一緒に歌った客たちは、帰り際まで次は何を歌うか相談している。オルフェは楽器の袋の紐を結び直した。
「では、明日は短い曲も用意します」
「三時間かけて選ばないでくださいね」
「選ぶ時間は、演奏に含まれません」
オルフェが真顔で言うと、ヘルガが砂時計をもう一度返した。彼は慌てて楽器を背負い、扉に当てないよう横向きになって出ていった。
閉店後、私はヘルガに頼まれて紙と筆を出した。書き終えた紙を、カウンター脇の壁に貼った。
「英雄譚の弾き語りは一曲十分まで」
ルルが貼り紙を読み上げ、首を傾げた。
「ほかの歌には、制限がないんですか?」
ヘルガは砂時計を棚に戻した。
「明日うるさかったら、書き足すよ」




