第5話 空き瓶と雪の夜
開店前に入口のランプへ油を足していると、通りの向こうから女の子がこちらを見ていた。私が顔を上げると建物の陰へ引っ込み、作業を再開するとまた覗く。三度目に目が合ったところで、私は油の瓶を置いた。
「お店に用事?」
女の子は逃げずに出てきた。短い角と細い尻尾があり、その先を両手で握っている。視線は入口の貼り紙に向いていた。
「この、女の子募集というのは……」
貼り紙には「夜のお店・女の子募集」とある。ヘルガの字は大きいが、何をする仕事かは書いていない。
「まだ募集してるよ。私はミナミ。中で話を聞いてみる?」
女の子が頷いたので、私は先に扉を開けた。店内ではヘルガがグラスを並べている。客を迎える前のカウンターには小皿も酒瓶も出ておらず、椅子だけがきれいに揃っていた。
「名前は?」
「ルルです。サキュバスです」
ヘルガは手を止め、私とルルを見比べた。ルルの尻尾が椅子の脚に巻きつきそうになる。
「店で働いたことはあるのかい」
「少しだけ。でも、魅了は使えません。練習しても、相手が眠くなるばかりで」
ルルは膝の上で指を揃えた。前の勤め先では客の話に合わせて笑えと言われたが、下ネタを振られると何も返せず、ほかの人に代わってもらっていたという。
「うちでも、そういう話をするお客さんはいるよ」
「そうですよね……」
尻尾が膝の下へ隠れた。まだ断られたわけでもないのに、ルルは椅子から腰を浮かせている。
「魅了なんか使わなくていいさ。うちは客が自分で歩いて来る」
ヘルガは壁の「店内での魔法使用禁止(氷魔法を除く)」を指した。
「そもそも、うちじゃ魔法は使わせないよ。氷は別だけどね」
ヘルガにそう言われ、ルルは座り直した。前の仕事はもう辞めてきたという。まだ最後の給金を受け取っていないが、そちらは後日取りに行くつもりらしい。
「それで、ほかの店を探してたの?」
「はい。ここには何度か来ました。でも、貼り紙を見るたびに帰ってしまって」
「今日はよく入ってくれたね」
「ミナミさんが外にいたので」
ルルはそう言って、また尻尾の先を握った。ずいぶん話しかけやすく見えたものだ。
「ルルちゃん、開店準備を手伝ってみる?」
「今からですか」
「面接の続き。できそうか、お互いに分かるでしょ」
ヘルガがカウンターの内側へ来るよう手招きした。ルルは椅子を降り、私について小さな戸をくぐる。どこに立てば邪魔にならないか迷っているようなので、おしぼりの籠を渡した。
「これを一枚ずつ畳んで、数えてくれる? 今夜は十枚あれば大丈夫」
ルルは布の端を揃えて畳み始めた。一枚目は角が少しずれ、二枚目で直した。ヘルガはそれを見ながら、客に話しかけられたらどうするつもりかと尋ねる。
「……何を話したいのか、先に聞きます」
「下ネタだったら?」
ルルの手が止まる。考えてから、困った顔で私を見た。
「ミナミさんを呼んでもいいですか」
「いいよ。私が忙しかったらママを呼んで」
「客の方が泣くかもしれないよ」
ヘルガの言葉に、ルルは笑いかけたが、まだおしぼりから手を離さない。
私も初めてこの店へ来た夜は、泊まる場所さえ決まっていなかった。ルルの前に積まれていく白い布を見ながら、四か月あまり前の雪を思い出す。
日本のスナックで閉店作業を終えた私は、空き瓶のケースを抱えて裏口へ出た。店長から、雪が降りそうだから早く帰れと言われていた。その扉を開けたはずなのに、足元には見知らぬ石畳があり、両側には暗い建物が並んでいた。
振り返っても裏口はない。腕の中には、さっきまで店の裏へ運ぶはずだった空き瓶のケースがあった。
建物の間を歩いては戻ったが、元の道は見つからなかった。瓶の口に雪が積もり、指先がかじかんでくる。閉まった北門の近くで見つけた灯りが、ヘルガの店の入口に掛かる古いランプだった。
「もう閉めるよ」
中には、大きなテーブルとヘルガがいた。私は空き瓶を抱えたまま、ここはどこかと尋ねた。ヘルガは飲みすぎた客だと思ったらしく、まず座れと言って温かい湯を出してくれた。
ローデンという町の名を聞き、日本の地名をいくつか挙げたが、どれも知らないと言われた。財布の中の金も使えない。ヘルガは身分が分かるものを探してみろと言った。
声に出すんじゃないよ、と胸へ指を当て、自分の名を思い浮かべるよう教えてくれた。言われたとおりにすると、目の前に淡い光の板が現れる。
名前の欄には、店では名乗っていない私の本名があった。その下に表示された職業は、チーママ。ほかの欄も、水割り、接客、ボトル管理と、さっきまでしていた仕事に関するものばかりだった。
「チーママ? 何だい、その職業は」
ヘルガは向かい側から光の板を見ていた。
「店長を手伝う仕事みたいなものです」
「おっかさんじゃないんだね」
「違います」
私は消し方が分からず、光の板を何度も指で払った。ヘルガはそれを眺めている。ようやく板が消えたとき、もう一杯湯を注いでくれた。
その夜は店の奥で寝かせてもらい、翌朝から皿を洗った。帰る道は探しても見つからず、私は泊めてもらう代わりに店を手伝うようになった。
当時の店には、真ん中に大きなテーブルが一つあった。迷宮へ向かう冒険者が多かった頃は、その周りに客が集まったらしい。今は一人来ても端に座るだけで、向かい側には誰もいない。
「大きいテーブル、一度なくしてみませんか」
「じゃあ、どこで飲むんだい」
「細い台を作って、みんな横に座るんです。ママもお客さんの顔を見ながら話せるし」
ヘルガは酒が置ける幅なのかを先に気にした。ヘルガの古い馴染みの鍛冶屋に頼んで長いテーブルを切り、板を壁際へ運ぶ。残った木材は棚にして、客の瓶を並べた。店の名前はヘルガのまま、その前に「スナック」を足した。入口には武器を預ける箱を置き、おしぼりを温める籠を用意する。
何か特別な酒を作ったわけではない。私はヘルガの店にあった酒を水で割り、来た客の名前を聞いた。ヘルガは最初、どうして飲み残した瓶を預かるのか分からないと言っていたが、名前を書いた札だけは私よりまっすぐに切った。
新しい看板を灯して三日目にも雪が降った。その晩、閉店間際に骸骨が一人入ってきた。私が声も出せずにいると、ヘルガはまず店の水割りを出した。
骸骨はグラスの縁を二度鳴らしてから飲み、水を肋骨の間から床にこぼした。ヘルガは瓶へ伸ばしかけた手を止めた。骸骨の指を見てから、そのグラスを下げ、注文も聞かずに火酒を注いだ。骸骨はまた縁を二度鳴らし、床をさらに濡らした。
「ママ、お知り合いですか?」
「骨の知り合いなんかいないよ。ミナミ、バケツ持ってきな」
私が拭き終わる頃には、骸骨がもう一杯頼んでいた。次からは自分のバケツを持って来ると言うので、ヘルガは床を濡らさなきゃ何でもいいと答えた。あれから三か月、店のボトル棚にも名札付きの瓶が増えた。
「ミナミさん?」
ルルに呼ばれ、私は手元を見た。差し出された籠には、畳んだおしぼりが十枚きちんと収まっている。
「ごめん。考え事してた。もう終わったの?」
「はい。十一枚あったので、一枚は向こうへ戻しました」
ルルが棚を指す。私は籠を受け取り、カウンターの下へ置いた。
「私、魅了も使えないのに、サキュバスを雇ってもらえるんですか」
「私なんて、こっちへ来たときは空き瓶のケースを抱えてたんだよ」
「空き瓶ですか?」
「お金も持ってたけど、こっちじゃ使えなくてね。続きは今度話すよ」
ルルは首をかしげたまま、ヘルガが並べたグラスの数を確かめ始めた。一つだけ縁に曇りが残っているのを見つけ、拭いてもいいかと尋ねる。ヘルガは布を渡した。ルルは両手でグラスを包み、落とさないよう、ゆっくり磨く。
「嬢ちゃん、明日から来な。魅了なんか使えなくても、客が楽しく帰れりゃいい」
「採用ですか」
「そうだよ」
ヘルガは磨き終えたグラスを受け取り、棚へ戻した。
「来るのは開店の一時間前。片づけが終わったら帰っていい。給金は一晩、銀貨五枚で、帰るときに渡す。今手伝った分も払うよ」
「今夜はまだ、面接なのに」
「おしぼりを畳んで、グラスも磨いただろ。働いた分は受け取りな」
ルルは自分の手を見てから、ヘルガに頷いた。ヘルガは、尻尾を握っている暇がなくなるくらいには働いてもらうよ、と付け足す。ルルは慌てて手を離したが、尻尾はまた椅子の脚に巻きつきかけていた。
私は明日来る時刻をもう一度伝えた。ルルは何度も頷いて覚える。
「はい。仕込みも覚えます」
「仕込み?」
「夜食を出すんですよね。貼り紙に『夜のお店』ってありますし、スナックって軽食のことだと思っていたので」
ルルは奥の瓶棚を見た。
「お酒も出すみたいですけど、お菓子はどこに並べるんですか」
私はヘルガと顔を見合わせた。ヘルガが書いた貼り紙には、酒の一字も入っていなかった。




