第3話 骨身に染みる一杯
ホネさんが来ると、私は入口で使い込まれたバケツを受け取る。底にはへこみがあり、取っ手には古い布が巻かれている。
本人は兜を預けて番号札を受け取り、いつもの席へ向かう。私はバケツを運び、その足元へ置く。
「今日は石、何個運んだの?」
「数えていない。山ひとつ分くらいだ」
「昨日も山ひとつ分って言ってなかった?」
「昨日とは違う山だ」
ホネさんは元迷宮三層のボスで、今は町外れの採石場で働いている。迷宮で死んだ人間が骸骨の魔物になることもあるそうだが、ホネさんはボスになる前のことを覚えていないという。
今の仕事は大きな石を荷車まで運ぶこと。骨だけの体でどうやって力を出しているのか尋ねたことがあるが、「石を持ち上げればいい」と答えられて終わった。
席に着くと、ヘルガが火酒を注いだ。セット料金に含まれる水割りには目もくれない。
ホネさんはグラスを持ち上げ、飲む前に縁を指で二度、軽く鳴らした。それから酒を口へ運ぶ。火酒は喉を通り、肋骨の間からバケツへ落ちた。
「今日もいい酒だ」
「味が分かるの?」
「分からん」
それでもホネさんは火酒しか飲まない。ヘルガも私も、今さら注文を聞かずに瓶を出せる。
ホネさんが財布を出すと、壁の貼り紙が目に入ったらしい。
「ツケは生きて帰る方のみ」と書いた、酒場だった頃からの貼り紙だ。
「死んで帰ってきた場合は?」
「現金払い」
ヘルガは即答した。
「俺はもう死んでいるぞ」
「だから今まで一度もツケを認めてないだろ」
ホネさんは財布から硬貨を出した。骨の指では薄い硬貨がつかみにくく、二度ほどカウンターへ落とす。私が拾おうとすると、片手を上げて止めた。三度目でようやくつまみ上げ、ヘルガの前へ置く。
「採石場でも、小さいものを拾うのは苦手?」
「石が小さければ、誰かが拾う」
「大きい石だけが担当なんだ」
「そう聞いていたんだが、今日は新人まで担当になった」
新人が大きな石を運ぼうとして、荷車から落としかけたらしい。ホネさんは危ないから離れろと言おうとして、いつもの調子で「帰れ」と告げた。新人は持っていた石を置き、作業場を出ていったという。
「本当に帰っちゃったの?」
「昼飯のあとに戻ってきた。親方に、勝手に帰るなと叱られていた」
「ホネさんは説明しなかったのかい」
「危ないから帰れと言った、と説明した」
「それじゃ同じだよ」
ヘルガが笑う。ホネさんによると、二度目に石を持ち上げようとしたときも、つい「帰れ」が出たそうだ。今度は新人が動かず、「どこまでですか」と尋ねた。
「俺から離れればよかったんだ」
「ちゃんとそう言えばいいのに」
「迷宮では、帰れと言えばみんな走った」
ただ、新人が触ろうとした石は、下の方が割れていた。持ち上げれば欠けたところから崩れたかもしれない、とホネさんは言う。
「じゃあ、帰れと言って正解だったんじゃない?」
「親方には、先に理由を言えと言われた」
「次は何と言えばいい?」
「その石は割れてるよ、でいいだろ」
「長いな」
「ホネさんの『帰れ』より長いよ」
私に言われ、ホネさんはグラスを持ったまま考え直した。
しばらくして入口の鈴が鳴り、大きな背嚢を背負った男が入ってきた。扉は通れたものの、カウンターへ近づこうとして入口脇の武器預かり箱に背嚢をぶつける。私は慌てて駆け寄った。
「先に荷物を下ろしてください。箱が先に壊れちゃいます」
「すみません。中身は重くないんですけど」
男が床に下ろすと、背嚢は空気が抜けたように形を崩した。席へ案内しようとしたところで、彼はホネさんを見て立ち止まる。
「帰れボス?」
ホネさんはグラスを置いた。
「その呼び方は久しぶりだな」
「三層にいた、あの帰れボスですよね。兜はどうしたんですか」
「入口に預けた」
男は確かめに行きかけたが、ホネさんの隣が空いていると分かって、そこへ座った。名をハンスという。かつて勇者一行の荷物を運び、迷宮でホネさんに何度も追い返されたそうだ。
「帰れボスって、どういう意味?」
「そのままです。戦って負けると、殺さずに出口へ放り出されるんですよ。俺たちも三回」
「四回だ」
ホネさんに訂正され、ハンスは指を折って数え始めた。最後に追い返されたのは、迷宮を踏破する少し前だったらしい。
「よく覚えてるね」
「こいつが走ると、鍋が鳴った」
ハンスは背嚢から下がる小さな鍋を見た。今も歩くたびに鳴るという。ホネさんには、冒険者の顔より、その音の方が先に思い出せるらしい。
「今日は、みんなと一緒じゃないんですか」
私がおしぼりを渡すと、ハンスは少し笑った。
「今は別々です。昼間は仕事を探して、この辺の店を何軒か回りました」
迷宮を踏破してからも、ハンスはしばらく一行と一緒にいたという。
「魔法の鞄が手に入ったから、もう荷物持ちは要らないって。王都へ発つ前に、この町で別れました」
「荷物持ちを、荷物の方から追い出したわけ?」
「鞄ですけどね。まあ、そんなところです」
ハンスは苦笑して水割りを頼んだ。酒にはあまり強くないので薄めがいいという。
ホネさんはハンスの背嚢を眺めていた。
「まだ、あれを使っているのか」
「これしか持ってないですから。鍋の音も直してません」
「静かだとお前が来たのに気づかん」
ハンスは笑い、背嚢を少し揺らした。鍋が小さく鳴る。ヘルガは入口の箱にぶつからないところへ置くよう念を押してから、ハンスの水割りを作った。
「ホネさんは、今も三層にいるんですか」
「採石場で石を運んでいる。今さら三層のボスには戻れん。通路に立って『帰れ』と言っても、そもそも誰も来ない」
「こっちでも言ってるよ。今日は採石場の新人を帰しかけたんだって」
私が話すと、ハンスは水割りを置いてホネさんを見た。
「あの声で言われたら、帰りますよ」
「お前なら走るな」
「鍋が鳴りますからね」
ハンスは背嚢の口を少し開き、鍋の紐が緩んでいないか確かめた。ホネさんが採石場では石を行き先ごとに分けていると話すと、彼は慣れた調子で聞き返す。
「置く場所に印はあるんですか」
「親方は分かると言うが、新人はいつも間違える」
「荷車の側にも印をつけた方がいいですよ。石の山だけに印をつけても、積むときに迷います」
「明日、言ってみる」
「ホネさん、石運びの相談なら『帰れ』以外も話せるじゃない」
「石は走って逃げないからな」
ハンスが笑った。大きな背嚢を椅子の脇へ寄せ、通り道を空ける。しばらくして彼は水割りを飲み終えたが、お代わりは頼まなかった。
「仕事が見つかったら、また寄ります」
「見つかる前でも来てくださいね」
私が言うと、ハンスは背嚢を持ち上げた。鍋が一度鳴り、ホネさんが顔を向ける。
「荷車の印、忘れないでくださいよ」
「お前も預かり箱を倒すな」
「いってらっしゃい」
ヘルガの声に頭を下げ、ハンスは背嚢を抱えるようにして出口まで歩いた。私は扉を開け、ホネさんの兜に触れないよう送り出す。
席へ戻ると、ホネさんは空のグラスを前に置いていた。バケツには今夜の火酒がたまっている。
「もう一杯?」
「頼む」
私が瓶を取ると、ヘルガがホネさんから次の代金を受け取った。グラスに注いだ火酒は、飲めばまたバケツに落ちる。
「こぼれる分も、一杯分の値段なんですね」
「飲んだことに変わりはないだろ」




