第2話 二十年目の決め台詞
開店して間もなく、ブルーノが入ってきた。外套には北門の土埃がつき、犬獣人らしい大きな耳の片方が、少し垂れている。女房のミケーラは猫獣人で、二人は犬猫の夫婦だ。入口で槍を預け、外套を脱いでいつもの端の椅子へ腰を下ろすと、椅子の背に外套を掛けた。
「聞いてちょーよ」
私はおしぼりを出し、ヘルガはブルーノの水割りを作る。まだ何も尋ねていないが、北門で何かあったらしい。何もなかった日も、ブルーノの話はだいたい同じ言葉から始まる。
「今日は旅人、何人だった?」
「ゼロだわ。馬車も徒歩もゼロ。通ったのは、薪を拾いに出た爺さんが一人だけ。あの人は帰りにも会ったで、二人には数えられんだろ」
ブルーノは二十年、ローデンの北門に立っている。迷宮へ向かう冒険者で道が混んでいた頃は、一日に何百回も「ようこそローデンへ」と言ったそうだ。
「最初は相手の顔を見て言っとったんだよ。それじゃ追いつかんくなって、門をくぐる人数に合わせて言うようになった。五人組なら五回。荷車の陰にもう一人おって、後から気づいて六回目を言うこともあったわ」
「律儀だね」
「仕事だでな。今は昼飯を食べ終わっても、一回も言えん日がある」
ブルーノは水割りを飲み、氷の動きを見ていた。門番が暇なのは平和な証拠だとヘルガが言ったことがある。
そのときブルーノは、平和でも給金が減るのは困る、と答えていた。
「それでも朝、門を開けると一回は言うんだわ。ようこそローデンへ、って」
「誰に?」
「誰にも。もう口が覚えとる」
「蝶番にでも挨拶してるのかい」
「去年は猫が一匹、振り向いたぞ」
「あんたの女房じゃないのかい」
ヘルガが笑うと、ブルーノはすぐに首を振った。
「ミケーラは俺より遅く起きるで、朝の門までは来やせん。結婚して二十年、早起きして俺を見送ったことが一度でもあるかどうか」
「一度はあるのね」
私が言うと、ブルーノは覚えていない、とグラスを持ち直した。昨夜も妻に振り回されたらしい。
「昨日は仕事が終わって、いったん家へ戻ったんだ。晩飯はいらんと言っとったのに、俺が魚を焼き始めたら台所へ来て、皿をじっと見とる」
「分けてあげたんですか」
「半分な。俺の分は帰ってから食おうと思っとったんだが、あいつ、皮が焦げとると言うんだわ。食わんと言っとったのは誰だ、って話だろ」
「もらった分は食べたの?」
「身だけきれいに」
「気に入ったんじゃないか」
ヘルガが皿を洗いながら言う。ブルーノは妻をかばうような顔を一瞬したあと、まだ話は終わっていない、と声を強めた。私は水割りを少し足す。ブルーノは北門の仕事帰りにこの店へ寄ることが多い。店がスナックになったのは三か月前だが、その前からヘルガは同じ場所で酒を出していた。
「俺が門番になって二十年、この店の灯りが消えた晩もない。だから昨日も、ここへ寄ってから帰ったんだわ」
「油代をケチってないだけだよ」
ブルーノは昨夜、ここで一杯飲みながら、家には自分の魚が残っていると思っていたらしい。
「それで帰ったら、ミケーラがおらん。寝室にも台所にも。取っといた魚までなくなっとった」
「食べてから、どこかへ出かけたんじゃないの」
「そう思って寝た。でも朝まで帰らんかった」
ブルーノが隣家を訪ねると、ミケーラはそこの年配の夫婦と朝食を食べていたという。昨夜、訪ねてきた彼女に魚を勧め、そのまま泊めたらしい。
「名前までつけとるんだぞ。ミーちゃんだって。俺には何も言わんと、よその家で飯を食って」
ブルーノはグラスを置き、私をまっすぐ見た。門で旅人を問いただすときも、こんな顔をするのかもしれない。
「これ、浮気だと思わんか」
「相手は隣のご夫婦ですよね」
「名前も変えとる」
隣の夫婦もそれを承知でミーちゃんと呼び、魚を勧めたり、暖炉のそばを空けたりしているらしい。
「ミケーラさんも、その名前で返事したんですか」
「した。俺が迎えに行ったら、ミーちゃんと呼ばれて尻尾を立てとった」
「嫌がってはいなさそうね」
「そこなんだわ。うちの魚には文句を言ったくせに、よその魚は食べる。朝になっても平気な顔で茶まで飲んどった」
「隣の魚も焦げてたか聞きゃよかったのに」
ヘルガが言うと、ブルーノは顔をしかめた。
「朝からよその家で魚の焼き具合を尋ねる男になりたくないわ」
「魚じゃなくて、どうして帰らなかったのかを聞けばよかったんじゃない?」
「隣の旦那さんの前でか。ミーちゃん、俺に黙って泊まったのか、なんて」
ヘルガが笑った。ブルーノは笑われた理由に気づいたらしく、酒を飲む。隣の夫婦にはずっと世話になっていて、冬には門の仕事が終わる時間に合わせて湯を沸かしてくれたこともあるという。
「俺だって、あそこで茶を飲んだことはある。でも泊まっとらんし、名前も変えとらん」
「名前をつけられたら、返事をしそうだけど」
「どんな名前だわ」
私が考えている間に、ヘルガが口を挟んだ。
「ブーちゃん」
「そんなふうに呼ばれたら、茶も飲まずに帰るわ」
「じゃあ、隣の人を疑ってるわけじゃないのね」
「疑っとらん。いい人たちだで」
「ミケーラさんが魚を食べたのが嫌だった?」
「魚だけじゃない。うちに帰らず、暖炉の前で寝て、朝も俺を見て悪びれんところだわ」
ブルーノは言い終えてから声を落とし、グラスの縁を親指でこすった。
「じゃあ、スナックで女の子と飲むのは?」
ブルーノの耳が、ぴんと立った。
「それとこれは違うがや。俺は仕事帰りに一杯飲んどるだけだで」
「ミケーラさんも晩ご飯を食べに行っただけかもよ」
「俺はここで寝ていかん」
「向こうには寝やすい暖炉があったんでしょ」
ブルーノは返事を探してグラスに口をつけたが、もう酒はほとんど残っていなかった。
「どうしたんだい。さっきまであんなに喋ってたのに」
ヘルガに言われ、ブルーノは、ミケーラには店へ寄ると話してある、と小声で付け加えた。ミケーラの方は隣へ泊まると言わなかったのだから、やはり同じではないらしい。
私がお代わりを作ろうとすると、ブルーノがグラスを差し出した。
「明日も門に立つで、薄めにしてちょーよ」
「はいはい。今日はもう、魚の話を忘れて飲んでください」
「忘れられるか」
しばらく黙って飲んだあと、ブルーノはまた仕事の話を始めた。
「明日も誰も来んかもしれん。ようこそローデンへ、も、何だか昔の言葉になっちまったな。別の挨拶でも考えるか」
「『通行の用は何ですか』でいいんじゃない?」
「仕事では聞いとる。でも最初からそれだと、何か悪いことをしたみたいだろ」
「酒はあるよ、って言ってみな」
「それじゃ、北門からここまでの道を毎回聞かれるがや」
「道順くらい教えてやればいいだろ」
「門番に飲み屋の客引きをさせる気か!」
「じゃあ、『おかえりなさい』は?」
私が言うと、ブルーノは首をかしげた。
「初めて来た旅人にも?」
「間違えたら、そのあと『ようこそ』って言えばいいじゃない」
「二つ言うなら、前より忙しくなるね」
ヘルガが笑う。ブルーノは、初めての客には最初から「ようこそ」と言えば済む、と言いながらも、しばらく考えていた。門を通るのは旅人ばかりではない。町へ戻る荷車もあれば、北の村へ出かけていた人もいる。
「試しに言ってみてよ」
ブルーノは椅子の上で背筋を伸ばした。最初の「おかえりなさい」は門の前と同じ大声で、ヘルガに店の中では半分にしろと叱られる。次は小さすぎて、私が聞き返した。
「おかえりなさい」
三度目はカウンター越しにちゃんと届いた。ブルーノは照れたように水割りを飲み、明日の朝、門を開けたら忘れんようにしないとな、と言った。そのとき扉が開き、彼は反射的に背筋を伸ばす。
「おかえりなさい!」
入ってきたミケーラは、夫を見つめた。外套の裾から、柔らかそうな尻尾の先が覗いている。
「あんたの家はここか」
ブルーノが椅子から立ち上がる。
「ミケーラ、昨日の魚なんだけど」
「帰るよ」
「いや、浮気かどうかだけ――」
「今ここで聞く?」
ブルーノは私とヘルガを見て、椅子の背に掛けていた外套を手に取った。私が入口から預かっていた槍を持ってくると、ミケーラは夫の勘定をヘルガに尋ね、代金をカウンターへ置いた。ブルーノが槍を受け取るのを待って、その外套の襟をつかむ。
「おかえりは、うちで言いな」
二人が出ていくと、私はブルーノの飲み残しを片づけた。ヘルガは代金をしまい、入口の鈴が静かになってから口を開く。
「明日も北門に立つ前に、魚の話をしてそうだね」
「二十年続いてるんですね」
「ケンカがね」




