第16話 最弱の四天王
黒いマントの裾から、雫が落ちていた。
雨は降っていない。入口のランプに照らされた通りも乾いているのに、その男の足元だけが濡れていた。
「我が名はヌマール。魔王軍四天王が一人、沼を司る者」
「いらっしゃいませ。杖をお預かりします」
私が手を差し出すと、青白い男は杖の柄を握り直した。
「今、何と名乗ったか聞こえなかったか」
「沼のヌマールさんですよね。マントも、よければ入口で乾かしましょう。裾が濡れてますから」
ルルが下へ敷く布を持ってきた。ヌマールはしばらく私たちを見ていたが、杖を渡し、マントの留め具を外した。
襟の高い黒服が現れる。こちらは乾いていた。
「威圧のために纏っているのだ」
「濡らしておく必要があるんですか」
「沼の気配を感じさせる」
ヘルガが足元へ目をやった。
「床で感じたよ。次から外で絞ってきとくれ」
ヌマールは番号札を受け取り、カウンターへ座った。
私はおしぼりと料金表を出す。ルルはマントの下へ布を敷いてから戻り、少し迷って口を開いた。
「ほかの三人も、水に関係があるんですか」
「炎、氷、雷だ」
「じゃあ、ヌマールさんだけ沼なんですね」
「そうだ」
答えたあと、彼はおしぼりで顔を覆った。
最初の水割りを飲み終える頃には、魔王軍の話になっていた。
炎の四天王は城壁を焼き、氷の四天王は川を凍らせ、雷の四天王は高い塔の上から名乗るらしい。
「私は、低いところにいなければならん」
「沼ですもんね」
「高台を与えられても困る。だが、軍議では高所を取った者ばかり褒められる」
ヌマールは豆を匙ですくい、食べずに皿へ戻した。
敵の進軍を遅らせるのが役目なのだという。先に道をぬかるませ、橋を使えなくし、重い荷車が来るのを待つ。ところが、敵が遠回りを選ぶと、残りの三人が先に戦い始める。
「それなら、戦わずに勝ってるんじゃないですか」
「報告には、交戦せず、と書かれる」
「遠回りさせたって書けばいいのに」
「書いた。その次から、地図もつけろと言われた」
ルルが水を足すと、ヌマールは礼を言って飲んだ。
「勇者が来れば、真っ先に私の所だ。四天王の中で最も弱い、と知れ渡っている」
「それは、誰が言い始めたんだい」
「ほかの三人だ」
ヘルガは瓶を持ったまま、少し考えた。
「敵の案内までしてやるんだね」
ヌマールは深く頷いた。
部下のスライムも悩みの種だった。整列を命じても、集まるだけで列にならない。点呼の途中で二匹がくっつき、数え直しているうちに別の一匹が分かれる。
「昨日は三十だったのに、今日は三十二。増員した覚えはない」
「名簿、どうするんですか」
「総量で報告する案を出した」
「通った?」
「兵を重さで数えるなと言われた」
私はお代わりを作り、グラスを彼の前へ置いた。
ローデンへは、勇者一行の動向を探るよう命じられて来たらしい。もう町を出たと伝えると、門でもそう言われたが、行き先までは教えてもらえなかったという。
「門でも、四天王だって名乗ったんですか」
「いや。薬草を探しに来た旅人だと」
「うちでも、それでよかったのに」
「少しくらい、名乗らせてくれ」
ヌマールは杖を預けた入口の方を見た。
「追いかけたところで、また私が最初に会うことになる」
「今夜くらい、座ってな」
ヘルガが言うと、ヌマールはようやく豆を食べた。
「一番弱いって言われないようにしたいんですよね」
私は空いた皿を下げながら尋ねた。
「当然だ」
「四人のうち、一人でも下に来ればいいんですか」
「できれば三人」
「急に欲張りましたね」
ルルが隣で笑いかけ、慌てて口元を押さえた。ヌマールは怒らず、グラスの中を覗いていた。
「五人目を入れるのは、どうだろう」
「四天王なのに?」
「欠員に備える」
「まだ誰も抜けてないんでしょう」
「だから、備えるのだ」
ヘルガが洗い場から顔を上げた。
「弱い奴を一人入れて、またそいつの面倒を見るのかい」
ヌマールの手が止まった。
ルルは少し考え、彼の前へ水差しを寄せた。
「強さ以外で、褒められたことはありませんか」
「足が長い」
「それは素敵ですね」
「泥に沈んでも、腰まで濡れずに済む」
私はマントの下の布を見た。あれだけ濡れていても、まだ余裕があったらしい。
「部下の方には、好かれてないんですか」
「よく足元へ集まってくる」
「慕われてるのかも」
「暖かいだけかもしれん」
ヌマールは自分の膝へ目を落とした。人間と変わらない形の手が、黒い布を撫でる。
「炎の男は、兵にも女にも人気がある。どこへ行っても目立つからな」
「ずっと火がついてるんですか」
「機嫌がよければ」
「家の中では困りそうですね」
ルルの返事に、ヌマールが顔を上げた。
「君は、そう思うのか」
「はい。私は尻尾に燃え移らない方がいいです」
「そうか」
彼は少し座り直した。
私はヌマールのグラスを確かめながら、声をかけた。
「私のいたところでは、好きな人に夢中になることを、沼にはまるって言うことがありましたよ」
「……それは、褒めているのか」
「なかなか抜けられないくらい好き、という感じです」
「抜け出そうとする者を逃がさない、ということか」
「追いかけて沈める話ではないです」
ヌマールは何か言いかけ、口を閉じた。
私は、次の酒を注ぐ前に水を勧めた。彼は素直に飲み、私の方を向いた。
「沼そのものも、嫌われるばかりではないのだな」
「泥をお肌に塗るお店なら、ありますよ。市場の奥で、瓶に入れて売ってました」
ルルが横から言った。
ヌマールが皿を脇へ寄せた。
灰色の細かい泥なら、ヌマールの領地の西側でも採れるという。砂を除いてよく練る必要があるらしい。
「詳しいですね」
「部下が入り込むので、出してやらねばならん」
私は持っていた瓶を棚へ戻した。
「スライム入りでは、売れないでしょうね」
「もちろん別にする」
ヌマールは上着の内側から小さな陶器の壺を取り出した。蓋を開けると、滑らかな灰色の泥が詰まっている。
「これは私が使っているものだ。道に撒く泥とは違う」
「顔に?」
「マントを外したあと、首が乾くので」
ルルが彼の首元を見た。青白い肌には、確かに荒れたところがない。
「少し見せていただいてもいいですか」
私が小皿と清潔な匙を出すと、ヌマールは泥を少量すくった。ルルは手の甲へ薄くのばし、乾くのを待った。
ヘルガも指先で感触を確かめた。
「これ、同じものをまた持ってこられるのかい」
「採れる場所は分かっている」
「量は?」
「荷車で」
「今は、この壺で十分です」
私は両手で壺の大きさを示した。
ルルが濡らした布で泥を拭うと、何度か手の甲を撫でた。
「つるつるします」
「私にも少しお願いします」
ヘルガが小皿を自分の方へ寄せた。
「あたしの分も残しとくれよ」
ヌマールは匙を持ったまま、私たちを順に見た。
「軍議では、泥の話をすると途中で止められる」
「今日は止めませんから、服についたときの落とし方も教えてください」
私は入口の布を指した。
ホネさんが来たのは、ルルが手を洗って戻った頃だった。
私は使い込まれたバケツを受け取り、兜を預かって番号札を渡した。いつもの席へバケツを置くと、ヘルガが火酒を出す。
ヌマールは隣の骨の顔を見て、背筋を伸ばした。
「グラウ迷宮の三層にいた者ではないか」
「今はいない」
ホネさんはグラスを手元へ寄せた。
「冒険者を何組も追い返したと聞いている」
「帰らなければ、通路が塞がる」
「部下の指導もできるのか」
「採石場が休みの日は、ギルドで新人の相手もしている」
ヌマールは私を見た。私は首を振ったが、彼はもうホネさんの方へ向き直っていた。
「魔王軍で働く気はないか。四天王の一角を用意できる」
「五人目ですよね」
「まずは補佐からでもよい」
ホネさんは火酒を飲んだ。足元のバケツへ、酒が流れ落ちる。
ヌマールがその音を聞き、酒を受けるバケツを覗き込んだ。
「……給仕もつけられる」
「酒は自分で飲める」
「そういう意味では」
「今の仕事を辞める気もない」
ホネさんは空のグラスを置いた。ヌマールはまだ何か考えていたので、私は声をかけた。
「ホネさんが入ったら、ヌマールさんより強いんじゃないですか」
彼は口を閉じた。
「勧誘はそこまでだよ」
ヘルガは紙を一枚取り、「パーティー勧誘お断り」と書いた。
最初に仲間を探しに来た冒険者たちのときには、そんな貼り紙は逆効果だと言っていたのに。
「軍隊だ。パーティーではない」
「じゃあ、魔王軍の勧誘もお断り」
その下へ一行書き足し、私へ紙を渡した。ルルが壁の空いたところを探す。
ヌマールは貼られたばかりの紙を眺めた。
「私が来たせいで、規則が増えたのか」
「前にも仲間を探しに来た人がいたので。いい機会です」
「四天王が、町の貼り紙に名を残すとは」
「個人名は書いてませんよ」
私が言うと、ヌマールは少し安心したように頷いた。
帰り支度を始めたヌマールに、ルルが乾いたマントを渡した。私は勘定を受け取り、番号札と引き換えに杖を返す。
「その泥は、置いていこう」
「お代は?」
「今夜、話を聞いてもらった分だ」
「お話を聞く分は、セット料金に入ってますよ」
ヌマールは料金表を見直した。
「そうなのか。では、試供品ということにしてくれ」
ヘルガは壺に蓋をし、酒瓶とは別の棚へ置いた。
「次は少しだけ持っておいで。荷車はいらないよ」
「承知した」
杖を持つと、ヌマールは少し顎を上げた。入口でマントを翻しかけ、裾を手で押さえる。
「いってらっしゃい」
ヘルガの声に一度振り返り、彼は乾いた足跡のまま出ていった。
ホネさんも勘定を済ませ、兜とバケツを持って帰った。ルルが戸を閉め、私は入口に敷いた布を片づける。
「魔王軍の方まで、また来るんですね」
「金を払って静かに飲むなら、魔王でも客だよ」
ヘルガはそう言って、泥の壺を持ち上げた。
「これ、よければ売り物になるね」
「まず、自分たちで使ってみてからですよ」
私は布に残った泥を指した。
「こっちは捨てますからね」
「そっちは、あんたの靴にもついてるよ」
足を上げると、踵に黒い泥がこびりついていた。
布で擦っても、なかなか落ちない。
「最弱のわりに、しつこいですね」
「沼だからね」




