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第15話 ママのいないカウンター

 ヘルガが店へ下りてこなかった。


 お通しの鍋は朝のうちに仕込んであったが、いつもなら聞こえる、蓋を開けるなという声がしない。二階へ上がると、ヘルガは寝台の上で襟巻きを顎まで引き上げていた。


「今日は休みましょうか」

「鍋は弱火にしとくれ」

「店の話です」


「ルルも来るだろ」


 返事の途中で咳が出た。枕元には水差しと、火のついていないパイプが置いてある。


「回復魔法を使える人、呼びます?」

「傷なら塞がるけど、風邪まで追い出しちゃくれないよ。寝てりゃ治る」

「じゃあ、寝ててください。途中で下りてこないで」


 ヘルガは布団の中から手を出し、私へ勘定箱の鍵を渡した。


「火酒は赤い紐の瓶から。青い方は、まだ開けないように」

「分かりました」

「ツケ帳の、折ってあるところに」


 また咳が出る。私は水差しを手元へ寄せた。


「分からなかったら、明日聞きます。今夜は私たちでやりますから」


 部屋を出るとき、背後で布団の擦れる音がした。


「豆、焦がすんじゃないよ」


 開店前に、ルルと仕事を分けた。酒と会計は私、おしぼりとお通し、空いた皿はルル。手が足りなくなったら先に声をかけることにして、準備を始めた。


 ルルが皿を並べている間、ミミちゃんはカウンターの端で口を開けて待っていた。私がいつもの小皿へ酒を入れると、舌だけが素早く伸びる。ママがいなくても、そこは変わらないらしい。


 最初の客が火酒を頼んだ。私は棚から赤い紐の瓶を取ったが、その隣にも赤い紐があった。片方は細く、もう片方は太い。


「ママ、そこまで言ってない」

「何ですか?」

「こっちの話」


 瓶の底には日付と銘柄が書いてあった。普段出している銘柄を確かめ、火酒を注いで出す。


 次の客は自分のボトルを指し、いつもの半分でいいと言った。


「お酒を半分ですか。お水を多くします?」


 客は少し考え、量はいつもどおりで薄く、と言い直した。今聞いてよかった。


 ルルが戻ってきて、声を落とす。


「ミナミさん、お通しを出したか分からなくなった席があります」

「お皿があるか見てみて」

「もう食べ終わって、下げたかもしれません」


 私は酒を混ぜる手を止め、その客に尋ねた。まだだった。ルルは皿を置いたあと、注文を書いた紙へ小さな丸をつけた。


 店の端では、オルフェが客に頼まれた歌の伴奏をしていた。歌っている間なら注文も止まると思ったのに、歌わない客のグラスは空く。私は曲の終わりに拍手をした拍子に、手に持っていた栓を落としかけた。


 そこへハンスが来た。町の仕入れを終え、空き瓶の箱を引き取りに寄ってくれたのだった。


「ママは?」

「風邪で寝てます。箱、まだ奥なんです。少し待ってもらえますか」

「急ぎません。先に、これを置きますね」


 ハンスは届けに来た包みを、通路を塞がないところへ置いた。私はその場所を見て、初めて床に出したままの水桶に気づいた。


「箱が片づくまで、一杯飲んでいきます。薄い水割りをお願いします」


 彼が端の席へ腰を下ろすと、私は水桶を奥へ寄せてから、グラスを出した。


 マルセルと名乗る男は、ちょうど客が二人帰ったあとに入ってきた。


 私が預かった短剣と引き換えに番号札を渡すと、彼は指先を少し長く触れさせた。


「いい手だね」

「おしぼりも温かいですよ」


 私は手を引き、席へ案内した。


 男は手相を見るのだという。水割りを頼み、ルルがグラスを置くと、その手首へ手を伸ばした。


「君の運勢も見てあげよう」


 ルルの尻尾が、ぱしんと男の手の甲をはたいた。


 私が振り返るより先に、ルルが一歩下がった。


「見るだけなら、こちらから見えますか」


 カウンター越しに掌を広げている。男は苦笑いをした。


「触らないと、細かいところがね」

「では、今日は大丈夫です。触らないでくださいね」


 ルルは壁の「お触り禁止」を示し、空いた皿を持って戻ってきた。私の顔を見ると、少しだけ尻尾を動かした。


「お水も出してきます」

「うん。お願い」


 マルセルは今度は、近くに座ったハンスへ声をかけた。


「君は仕事で苦労しているね」

「今は、前より楽になりました」

「そう。苦労を乗り越えた手だ」


 ハンスが掌を見せると、男は指の付け根を眺めた。硬くなった皮膚に、背嚢の紐で擦れた跡がある。


「物を運ぶ仕事に向いている」

「ありがとうございます。今、それをやっています」


 私は笑いそうになり、洗い場へ顔を向けた。


 マルセルが私とルルにも一杯勧めたので、料金を確かめてもらってから、薄い水割りを作った。礼を言ってひと口飲むと、男はまた私の手を見た。


「君には、近いうちにいい出会いがある」

「それより、マルセルさんの方が気になりますね」

「僕も占うのかい」


「ええ。奥さんに浮気がばれる手に見えます」


 男の左手が、グラスの後ろへ隠れた。薬指だけ日焼けしておらず、上着の胸元には小さな膨らみがあった。


「まだ、何も」

「まだ?」


 ルルが聞き返すと、マルセルは残りの水割りを飲んだ。


 勘定はきちんと払い、短剣を受け取って帰っていった。私は扉が閉まるのを見届け、ルルへ向き直った。


「さっき、ちゃんと言えたね」

「尻尾の方が先に言っちゃいました」

「次は口を先にしようか」


 ルルは頷き、また水差しを持った。


 そのあと、ツケ帳で手が止まった。


 支払いに来た客が、前の残りも一緒に払うと言う。折ってある頁を開くと、名前の下に金額があり、その脇に豆のような丸が三つ描かれていた。


 ルルも覗き込む。


「これ、お金ですか」

「分からない。豆かもしれない」


 客に聞くと、前回、店へ薪を持ってきた分だという。金額の横に薄く書かれた「薪」の字を見つけ、ようやく勘定が合った。


 その間に、湯を沸かす鍋が鳴り始めた。カウンターの内側の奥では、製氷の樽も鳴っている。私は帳面を閉じ、お湯を頼んだ客へ向き直った。


「すみません、もう少しお待ちください」


 ハンスが椅子から立った。


「運ぶだけなら、手伝えます」

「じゃあ、この二つを。薄い方が窓側です」


 彼はすぐに盆を持ち上げた。戻ってくると、空いたグラスも載っている。


 ほかの客も何人か立ちかけたが、私は手を上げた。


「ありがとうございます。でも、カウンターの中は二人でいっぱいなので、座っててください」


 オルフェまで楽器を置こうとした。


「私にも何か」

「伴奏をお願いします。さっきの方、まだ二番を歌ってます」


 彼が慌てて弦を鳴らすと、客は何事もなかったように声を張った。


 ハンスは客の注文まで引き受けず、呼ばれた席だけ私に教えてくれた。運んで戻るたび、次の盆を置く場所を空けておく。私はその場所へグラスを並べればよくなった。


 ようやく息をついたところで、ルルが入口から戻ってきた。


「外のランプ、油が少なくなってます」


 開店前に確かめたつもりだった。私は棚の下の油瓶を取ったが、残りでは足りそうにない。


「予備、奥にあったよね」

「酒の箱の後ろですか」


 ハンスが物置の戸を開けた。


「昨日届いた箱なら、取っ手に白い布がついていました」

「それです。持ってきてもらえます?」


 油瓶が届くと、私はルルへカウンターを頼んで外へ出た。秋の風で火が細く揺れている。消える前に油を足し、灯りが落ち着くまで待った。


 店へ戻ると、ルルが客へ水を勧めていた。


「次のお酒は、ミナミさんが戻ってから作りますね」

「戻ったよ。何を作ろうか」


 私が声をかけると、二つ注文が返ってきた。


 閉店間際、階段で足音がした。


 寝間着の上に厚い肩掛けを羽織り、襟巻きを巻いたヘルガが下りてくる。片手には、火のついていないパイプを持っていた。


「ママ、寝ててって言ったでしょう」

「水差しが空になったんだよ」

「呼んでくれれば持っていきます」


 ヘルガは返事をせず、店内を見た。ハンスが盆を運び、ルルが勘定を読み上げ、オルフェが楽器をしまっている。


「あんたたち、何をやってるんだい」

「見たとおりです。今夜はハンスさんに助けてもらいました」

「雇われた覚えはないんですが」


 ハンスが盆を置いた。


 ヘルガはカウンターの端へ腰を下ろした。私が水を出すと、ヘルガの手がその向こうの赤い紐の瓶へ伸びた。


「火酒を少し。湯を多くして」

「飲んだら、また上へ戻ってくださいね」


 ほんの少しの火酒を湯で割って出すと、ヘルガは両手で器を包んだ。ひと口飲み、鼻からゆっくり息を吐く。


「治ったね」


 直後に、くしゃみが出た。


 ルルが黙って布を渡す。ヘルガは受け取り、鼻を押さえた。


「今のは埃だよ」

「明日、掃除しておきます。今日は寝てください」


 私が瓶を片づけると、ヘルガは残った湯割りへ目を落とした。


 ハンスが自分の席へ戻り、財布を取り出す。


「今夜の分、お願いします」

「あんたには、こっちが払うよ。運んでもらったんだろ」


 ヘルガは私に働いた時間を尋ね、ハンスへ賃金を渡した。飲んだ分は別に勘定する。


 それを見ていたオルフェが、楽器の袋から顔を上げた。


「私も、今夜は随分と働きました」

「曲代は客からもらっただろ」

「英雄譚を一曲も歌わずに済ませた分は」


「それは、明日も頼むよ」


 オルフェは袋の紐を締めた。


 ハンスには奥の空き瓶をまとめて渡し、ほかの客も送り出した。戸を閉めると、店の中が急に広くなった。


 私は製氷の樽の蓋を開け、増え続ける氷を桶へ移してから、カウンターへ帳面を置き、ヘルガに丸印の説明を求めた。薪の束数だと分かったところで、別の頁にも同じ丸を見つけた。


「こっちは?」

「卵」

「文字で書いてください」


 私は、ルルが揃えた今夜の注文の紙を、帳面の隣へ広げた。


「ママの代わりに一晩やってみても、値段のつけ方だけは分かりませんでした」

「客で変えてるわけじゃないよ」

「この火酒、同じ小さいグラスなのに、こっちだけ安いです」


「その日は残りが少なかったんだ。一本開けるほど飲まないって言うから、ある分だけ注いだ」

「どれくらい?」

「これくらい」


 ヘルガが親指と人差し指を広げた。私が帳面に書こうとすると、その幅が少し狭くなる。


「……もう少し、あったかね」

「次から量ってください」


 ヘルガは聞こえなかったように立ち上がり、カウンターの内側へ回ってきた。私が蓋を開けたままにしていた製氷の樽の脇でパイプを持ち直す。ルルが水差しを渡そうとしたとき、また大きなくしゃみが出る。


 指から滑ったパイプが、蓋を開けていた製氷の樽へ落ちた。


 拾うより早く、新しい氷が二つ、その上へ転がる。


「あたしのパイプ」


 私は氷ばさみを取り、ルルへ水差しを持たせた。


「冷えてるうちに、寝てきてください」


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