第14話 真似できない看板
グランバレルで酒を飲むと、帰ってきたことになるらしい。
昨日、余った氷を届けに行ったら、扉を開けた途端に店員が一斉に「おかえりなさいませ」と声を上げた。初めて入った人も同じように迎えられ、入口で立ち止まる。その後ろから、料理を載せた盆がすり抜けていった。
「棚も増えてました。キープボトルが五百本あるそうですよ」
私が話すと、ヘルガはお通しの鍋をかき混ぜた。
「探すだけで喉が渇くね」
「私がいる間にも、同じ名前の人の瓶を持ってきちゃったみたいで」
「姓も聞けばいい」
「二人とも『赤毛のトム』だったんです」
ルルが名札を書く手を止めた。
そのとき、入口の鈴が鳴った。入ってきた大柄なオークは、鼻の下に立派な黒い髭をつけていた。口元から突き出した白い牙に片側が引っかかり、歩くたびに髭の先が揺れる。
「いらっしゃいませ、ダリオさん」
昨日、氷を受け取ってくれた人だった。
「……人違いちゃうか」
「髭、牙に掛かってますよ」
オークは入口で髭を外した。
グランバレルの店主ダリオは、椅子の座面を一度押してから腰を下ろした。付け髭を畳み、上着の胸ポケットへ押し込む。
「別に、盗みに来たわけやない」
「何を?」
ヘルガが聞くと、ダリオは瓶棚を見た。
「商売のやり方を、ちょっと」
「もう持っていったんだろ」
私は水割りを出し、ルルがお通しを置いた。
ダリオは店の中をゆっくり見回した。カウンターの端では、ドワーフの男が火酒を飲んでいる。鍛冶屋のグンナルだ。店を改装したとき、テーブルを切る道具や棚の金具を持ってきてくれた、ヘルガの古い知り合いだった。
グンナルがダリオへ軽くグラスを上げると、ダリオも応じて水割りを飲んだ。
「うちは、客に何で店を選んだか聞いたら、大抵、広いからやと言われる」
「大勢で入れますもんね」
「そうや。せやけど、隣にもっと広い店ができたら終わりやろ」
そこで取り入れたのが、ボトルキープだった。酒が残っていれば、また来てもらえる。店員には客の名前を覚えるよう言い、歓迎の挨拶も揃えた。
「それで、どうなったんだい」
「瓶は増えた。客が増えたかは、まだ分からん」
ダリオはお通しをひと口食べ、匙を持ったまま続けた。
「注文を取りに行った子が、瓶を探したまま戻ってこん。手伝いにもう一人行く。料理ができても、運ぶ者がおらん」
「棚に番号は振ってないんですか」
「振った。けど、戻す場所が違う」
「名前は?」
「覚える前に、店員が辞めた」
ヘルガがダリオのグラスを見た。
「次も同じのでいいかい」
「頼むわ。自分の店やと、飲んどっても呼ばれる」
「ここでは呼ばれるまで座ってな」
「勘定のときやな」
ダリオが笑い、ヘルガも口元を緩めた。
愚痴はまだあった。冒険者同士が報酬の分け方でもめる。店員が間に入ると、どちらの味方なのかと責められる。ギルドからは大人数の宴席を頼まれるが、当日になって人数が増え、予算だけは変わらない。
「椅子は足せても、焼いた肉は増えへんのや」
「豆なら少しは足せるよ」
「肉を頼んだ客に豆出したら、怒るやろ」
「じゃあ、最初から豆も頼ませな」
私はお代わりを作りながら、ダリオの皿を見た。もう空だったので、ルルが下げる。
「ママのところは、客ともめへんのか」
「もめるよ」
「どう収めるんや」
「帰ってもらう」
「うちでそれをやったら、四十人いっぺんに帰る」
「四十人でもめるのかい」
ダリオは頷き、水割りを半分ほど飲んだ。
笑った拍子に、上唇の脇から牙が大きく覗く。ルルがそれを見ていると気づき、彼は少し顎を上げた。
「髭の糊、まだついとる?」
「いえ。牙がすごく白いので」
「毎朝磨いとるからな。オークの男は、牙の長さと白さや」
「長い方が、素敵なんですか」
「せや。折れてから磨いても遅い」
グンナルが自分の火酒を飲みながら、鼻を鳴らした。
「長すぎると、ジョッキに当たるじゃろう」
「そこは角度や」
ダリオはグラスを傾け、牙に当てずに飲んでみせた。ルルが感心すると、もう一度やった。
「それ、従業員にも見せてるんですか」
「宴会の前に見せたことはある」
「瓶の戻し方も、それくらい丁寧に教えてあげてください」
ダリオはお代わりを飲むうちに、五百本のボトルの話へ戻った。
客は自分の名前を覚えていてほしい。店員は似た名前を取り違える。大きく名札を書くと、今度は隣の瓶の札に重なるらしい。
「五百人の名前と顔を、全員に覚えてもらうのは難しいですよね」
私は紙を一枚出した。
普段は四人や六人の仲間連れが多く、仕事帰りの職人はもっと大勢で来ることもあるという。私は棚にある「ピート一行」の名札を指した。
「うちでは、ピートたちが三人で一本預けてるんです。グランバレルなら、仲間ごとにまとめた方が探しやすくないですか」
「四人や六人で一本か。一晩で空くぞ」
「それなら、小さな樽にするとか」
ダリオは棚を見上げ、両手で樽の大きさを作った。
「それも一晩で空くぞ」
グンナルが言った。
「それは買った人たちの自由です」
「ええな、それ」
ダリオが初めて、紙を自分の方へ引き寄せた。
「うちには空き樽もある。置く場所もある。個人の名前やなくて、パーティーで探すんやな」
「旗もつけたらどうですか。冒険者の方、同じ印を荷物につけてますよね」
ルルが言うと、ダリオは紙に大きな丸を描いた。
「あるある。槍が三本交差しとるとことか、翼のついた豚のとことか」
「豚には悪いが、覚えやすいのう」
グンナルが身を寄せる。ダリオは樽の丸の横に、旗らしい三角を足した。
ヘルガがその紙を覗いた。
「中身は何にするつもりだい」
「まずはエールやな」
「開けたエールを、いつまでも置いとくわけにはいかないよ」
ダリオのペンが止まった。
私は棚の蒸留酒を指した。
「こちらのお酒なら、急いで飲み切らなくてもいいですよね。エールは今までどおり一杯ずつで」
「蒸留酒を樽ごと買うなら、仲間で割れば手も届くか」
「まずは、よく来る組に聞いてみたら。長く預かるなら、樽も漏れないものを使って」
ヘルガの言葉に、ダリオは紙の隅へ酒の名を書いた。
グンナルは、古い樽なら締め直す必要があると言った。箍と金具は自分が直し、木の部分は樽職人に見せるそうだ。ダリオは旗を差す金具も頼みたいと言い、紙へ数を書き始めた。
「とりあえず五十」
「とりあえず三つにしな」
ヘルガが言った。
ダリオは五十と書きかけたところを塗り潰し、三と書いた。
「今ある瓶は今ある瓶で整理せなあかんけど、新しく預かる分から試してみるわ」
私は紙の端へ棚の図を描き、樽の場所に番号を振った。旗とパーティー名を帳面に控え、客に渡す札にも同じ番号を書けば、戻す場所を確かめられる。
「旗だけだと、名前を変えたときに困りますから」
「名前変えるやつ、おるな。負けた翌日に」
「別人にはならんじゃろ」
「勘定は残るよ」
ダリオはそこだけ、強く頷いた。
パーティーのうち誰なら酒を出してよいのかも、先に決めてもらうことになった。脱退した仲間が飲みに来たとき、店員が仲裁までさせられたくはない。
「樽を買う前に、それを相談してもらいましょう」
「酒を飲むまでに、もめそうやな」
「今も、飲んでからもめてるんでしょう?」
ダリオは口を開け、それから笑った。
「お姉さんらも、一杯飲んでええよ。助かったわ」
「ありがとうございます。いただきますね」
私はルルの分と自分の分を薄く作った。ダリオは料金表の女の子のドリンクを確かめ、頷いている。
「ママ、どうや。うちへ来えへんか」
ヘルガは洗っていた皿から顔を上げた。
「今、あんたが来てるだろ」
「そうやなくて、働く方や。店員を見てくれる人が欲しい。給金、倍出すで」
「あたしの給金、知ってるのかい」
「……今、なんぼ取っとる?」
「余ったら」
ダリオは財布を触りかけた手を止めた。グンナルが肩を揺らしている。
「ほな、ちゃんと額を決めよう。売上に応じて上乗せもする。毎晩でなくてもええ」
「その間、こっちは誰がやるんだい」
「ミナミちゃん、しっかりしとるやないか」
私は自分のグラスを置いた。
「私がママの分まで働くなら、私の給金も上がりますよね」
ヘルガは皿を布巾で拭き、棚へ戻した。
「ダリオ、水は足りてるかい」
「ルルちゃんも仕事が増えますし」
「足りてます」
ルルが水差しを持って答えた。
ダリオは声を上げて笑い、畳んだ紙を上着へしまった。
「分かった。引き抜きはやめとく。ここが閉まったら、俺が飲むとこなくなるしな」
「まだ一回目だろ」
「二回目も来るわ。店を任せて出られる日、作らんと」
ヘルガは空いたグラスを受け取り、頷いた。
帰り際、ダリオは胸ポケットから付け髭を出した。私は溶けかけた氷の桶を、足元へ寄せていた。
「またつけるんですか」
「うちの従業員に会ったら、何を聞きに行ったんか言われるやろ」
「今度は牙に掛からないようにしてくださいね」
私が言い終わる前に、髭が指から滑った。
足元の桶へ落ち、溶けかけた氷の上に黒く広がる。ルルが拾い上げようとすると、ダリオは手を振った。
「ええ。もう、それは捨てといて」
「氷、持って帰りません? まだ使ってない分が、奥にあります」
「もらうわ。帰る理由もできる」
勘定を済ませたダリオは、布を掛けた氷の桶を片腕で抱えた。グンナルとは樽を見に来てもらう日を決め、戸口でまた頭を下げる。
「おおきに」
「いってらっしゃい」
外へ出たダリオは、今度は顔を隠さず通りを歩いていった。
グンナルも勘定を済ませた。帰り際、樽の寸法を聞き忘れたと足を止めたが、すぐに手を振った。
「どうせ現物を見に行くんじゃ。構わん」
閉店後、ルルが濡れた付け髭を布に包んでいた。
「ダリオさん、最初は怖い方かと思いました」
「話し始めたら、ずっと仕事のことだったね」
「人が増えると、その分だけ揉め事も増えるからね」
ヘルガはお通しの残りを小鍋へ移した。
「店が広いと、端で何をやってるかも見えやしない。あたしは今の人数で十分だよ」
「じゃあ、人を増やさない分、給金の方を」
ヘルガは鍋を持って奥へ向かった。
「ママ、聞こえてます?」
「ルル、表の戸、閉めたかい」
「閉めました。給金のお話も、聞こえてます」




