第2章 昼のシフト
手の中のスマートフォンの画面は、十一時十三分を示していた。デジタル表示の無機質な数字が、まるで彼女を急かすように明滅している。
歩行者用の信号が青に変った瞬間、茜は弾かれたように足を速め、行き交う人々の波を割るようにして半ば駆け足で進んだ。つい先ほどまで佐藤さんと向かい合い、容赦のない赤入れを受けていた分厚い原稿の入ったキャンバスバッグが、彼女の動きに合わせて肩の上で小さく揺れ、急ぐ足取りに従って何度も腰のあたりを叩いた。浅い春の風が都会の舗装路を薄く撫でるように吹き抜け、角にあるパン屋がちょうど暖簾を掲げたばかりの、焼き立ての小麦の甘い香りを乗せて心地よく鼻腔をくすぐっていく。
茜は左手首の腕時計に、もう一度だけ視線を落とした。
(まだ、間に合う)
心の中でそう呟き、乱れそうになる呼吸をどうにか宥める。
ミニマルなデザインの、落ち着いた木目調の塗装が施されたカフェのガラス扉を、軽い力で押し開けた。ドアの枠に吊るされた小さな真鍮のベルが、チリンと硬質で涼やかな音を立てて彼女の到来を告げ、温まりきった店内の静寂を穏やかに破る。
「こんにちは」
茜の靴が使い込まれた床板を踏みしめるとほぼ同時に、その挨拶は聞こえてきた。声の主はカウンターの奥にいた。ボブカットに切りそろえた短い髪の女性が、先ほど拭き終えたばかりのガラスのグラスを棚に並べる作業に没頭している。手元に一切の視線を向けることなく、その一対の手はリズミカルに、そして驚くほどの正確さで動き続けていた。
「三分遅刻よ、茜ちゃん」
女性は顔を上げないまま、淡々とした口調で告げた。
茜は反射的に、コーヒー豆のディスプレイ棚の上に掛けられているアナログの掛け時計を見上げた。
「すみません、美咲さん。途中の駅で電車が少し調整のために止まってしまって」
「いいわよ」
ようやく美咲は手を止め、こちらを向いて悪戯っぽく、しかし温かみのある薄い笑みを浮かべた。それだけで、店内に漂いかけていた微かな緊張感が綺麗に霧散していくのが分かった。
「浅い春の最初の三分間なんて、私の許容範囲のなかでは誤差みたいなものだから」
茜は張り詰めていた肩の力をようやく抜き、深い息を吐き出した。
「ありがとうございます、美咲さん」
このカフェのオーナーである美咲は、最後のグラスを背後のサワラ材の棚に収めると、パッパッと両手を軽く叩いて埃を払った。
「それで、どうだったの?」
茜は一瞬、その問いがこれから始まる昼のシフトへの心構えを尋ねられたものだと思った。しかし、美咲の視線が茜の肩に掛けられた、あの重いキャンバスバッグへと向けられたのを見て、すぐに自分の勘違いに気づかされた。
「原稿のことよ」美咲は声を少し潜めて付け加えた。「今日はあの、ベテランの編集者さんと会う約束だったんでしょう?」
「あ……はい」
茜は、急に乾きを覚えた唇をそっと舌で湿らせた。
「こっぴどく、お説教された?」
佐藤さんが黒いボールペンで原稿の第一ページを叩いていた時の、あの規則正しい乾いた音が脳裏をよぎり、茜の口元に苦い笑みが浮かんだ。
「少し。というか、言い訳の余地もないくらい、徹底的に解剖されてきました」
「なら良かったじゃない。それだけ手を尽くしてもらえるなら、その原稿にはまだ大いに見込みがあるってことよ」
美咲はくすくすと、鈴の鳴るような軽い声で笑った。彼女はカウンターの下の引き出しに手を伸ばし、黒いリネンのエプロンを取り出して茜へと手渡した。
「まずはこれを着けて。昼休みの混雑の波が押し寄せてくる前に、準備を終わらせてしまいましょう」
茜は両手でそのエプロンを受け取った。厚手の綿の生地は手のひらに心地よい重みをもたらし、洗いたての洗剤の清々しい匂いと、アイロンの残熱がまだ微かに残っている。彼女はエプロンの紐を背中に回し、慣れた手つきで綺麗な蝶結びを作ると、白いブラウスの袖を肘のあたりまで丁寧に捲り上げた。
現在の店内の空気は、まだ驚くほど穏やかに弛緩していた。座席には、互いに距離を置いて座る二人の先客がいるだけで、それぞれが自分だけの静かな孤島を作り出している。大きな窓のすぐ近くでは、鼻の先に老眼鏡を引っ掛けた初老の男性が、熱心に新聞の紙面をめくっていた。一方で、店内で最も薄暗い照明が落ちている隅の席では、女子大生とおぼしき若い女性が、白く発光するノートパソコンの画面に向かって深くうつむいており、傍らに置かれたカフェラテが、すでに一切の湯気を失っていることにも気づいていない様子だった。
ブー、という低い振動音のあと、シュウウウ、と鋭い音が響く。
高圧のエスプレッソマシンが静かに唸りを上げ始めた。スチームワンズから激しい蒸気が噴き出し、バーの周辺を、焦がしたような深いカフェインの香りで満たしていく。その匂いは、どこかささくれた心を落ち着かせる力を持っていた。茜はマシンの脇に立ち、デジタルスケールの上でコーヒー豆の重量を厳密に計量している美咲の指先を、じっと見つめた。
「美咲さん、コーヒー豆はまだ、この前のグアテマラのものを使っているんですか?」
茜は沈黙を埋めるように、何気ない調子で尋ねてみた。
「あれは昨日の夕方にちょうど在庫が切れたわよ」
美咲は手元から一切の視線を外さないまま、流れるような動作で答えた。
「え? もうなくなっちゃったんですか。早いですね」
「今日からはブラジル・サントスに切り替えているの」
美咲は深く焙煎された焦げ茶色の豆を、グラインダーのホッパーへと滑り込ませた。
「ほら、ちょっと香りを嗅いでごらんなさい」
ガリガリと、機械が豆を細かな粉末へと粉砕し始めると同時に、茜は顔を近づけた。排出口の隙間から漏れ出てくる空気を、深く胸に吸い込む。明らかに違っていた。昨日のものに比べて、どこか香ばしいナッツのような濃厚さがあり、鼻腔の奥にはキャラメルを焦がしたような甘い余韻が居座り続ける。
「昨日よりも、ずっと甘い匂いがします」
「そうでしょう」美咲は満足そうに深く頷いた。「だからね、うちの珈琲を本当に愛してくれている常連さんは、カップの中のどんなに小さな変化でも、口にした瞬間にすぐ気づくのよ」
茜はなるほど、と小さく首を縦に振った。彼女の頭に、不意に佐藤さんが語っていた「細部へのこだわり」という言葉が去来する。これまで彼女にとって、コーヒーとは執筆中の眠気を追い払うための単なる道具に過ぎなかった。その濁った一滴の向こう側に、これほど小さく、しかし底の知れないほど深い世界が広がっているとは、考えたこともなかったのだ。
チリン、と再びドアのベルが賑やかに鳴った。
「いつものやつを」
仕立てのいいスーツを着た中年の男性が、医療用マスクを片手で外しながら入ってきた。彼はそのまま迷いのない足取りで、カウンターの端へと歩み寄る。美咲が挨拶の言葉をかけ終えるよりも早く、男は短くそう告げた。
「ホットのアメリカーノ、お砂糖なしですね」
美咲が淀みなく応じると、男はオフィスワーカー特有の、疲労の張り付いた顔で小さく肯いた。
「それから、サンドイッチは――」
「今日はいいや。少し急いでいるんだ」
男が足早に隅の席へと向かって歩き出すのを見送った後、美咲は隣で硬直していた茜を振り返った。
「今の人の名前、覚えている?」
茜はスーツ姿の男の背中を、数秒間じっと見つめた。その端正だがくたびれた横顔の輪郭には、確かに見覚えがあった。毎週の水曜日と金曜日、決まってこの時間にやってくる常連客であることも知っていた。しかし、名前。そう言われた瞬間、茜の脳裏は真っ白な空白に支配された。彼女は力なく首を振った。
「すみません、失念してしまいました」
「いいのよ」美咲は責めるような色を一切見せず、穏やかに微笑んだ。「焦らなくても、時間が経てば自然と身体が覚えるものだから」
美咲の指先は、すでに注文票の紙片を見ることもなく、流れるような動作でカップとポートフィルターを準備し始めていた。その一連の動きはどこか優雅で、過去に何千回、何万回と繰り返されてきたルーティンが、彼女の腕の筋肉に直接刻み込まれているのだということを物語っていた。
「このカフェに足を運ぶ人たちはね、茜ちゃん。単にコーヒーの代金としてのお金を運んできてくれるだけじゃないのよ」
美咲の低い声が、エスプレッソマシンの微かな駆動音の隙間に溶けていく。
「彼らはみんな、自分たちの人生の断片や、染み付いた習慣を一緒にここに持ち込んでいるの」
茜はハッとして、その言葉の余韻に囚われた。
彼女は、先ほどのスーツの男が、以前の訪問時とまったく同じ席――大通りに面した大きな窓際の、四番テーブル――を選んで腰を下ろすのを見ていた。男は自分のスマートフォンを、空のカップが置かれるはずの右側の位置に、定規で測ったかのような正確さで配置した。使い古された黒い革のビジネスバッグは、椅子の左側の床にそっと置かれた。まるで、彼の周囲にあるすべての物質に絶対的な座標が存在し、それを一ミリとも動かしてはならないと決めているかのようだった。
「もう一度、よく観察してみて。今日の彼の佇まい、いつもとどこか違うと思わない?」
美咲は、謎掛けをするように茜の視線を促した。
茜は目を細め、その男の姿をより注意深く観察しようと試みた。
「今日は……いつも頼むはずのサンドイッチを注文されませんでした」
「それ以外よ。彼の、細かな一挙手一投足をよく見てごらんなさい」
茜は思考を集中させ、男の指先に視線を注いだ。男は今、窓の外を通り過ぎていく車の群れを、どこか虚ろな目で見つめていた。大通りをひっきりなしに奔流するセダンやトラックのテールランプが、その瞳に無機質に映っては消えていく。外の寒さのせいか、それとも別の理由があるのか、彼の左手はひどく落ち着きがない様子で動いており、親指が、薬指にはめられた銀色の指輪を、何度も、何度も不安げに回転させていた。その動きは一定の周期を保ちながら、明確な焦燥を孕んでいるように見えた。
普段の彼がどうだったか――茜には分からなかった。ここで働き始めてから二ヶ月間、自分がいかに周囲の人間を「本当の意味で見つめていなかった」かという事実に気づき、彼女は急に胸が苦しくなるほどの罪悪感を覚えた。彼女はいつも、自分だけの閉じた世界の中に引きこもり、頭の中で作り出したシーナとみなみの、非現実的なファンタジーのプロットをこねくり回すことだけに夢中になっていたのだ。
美咲さんは、湯気をあげるアメリカーノが注がれた白い磁器のカップを、木製のトレーの上にそっと置いた。
「時間が経てばね、こういう小さなことにも自然と目が届くようになるものよ」
彼女は片手で手際よくトレーを持ち上げ、茜の肩をぽんと叩いた。
「ここは私が運んでおくから。君はレジの後ろに入って、次の準備をお願いね」
一人、カウンターの裏に取り残された茜は、先ほどとは全く異なる質感を帯びた視線で、店内のすべての隅々をゆっくりと見渡していた。
隅の席の女子大生は、相変わらず眉間に深い皺を寄せたまま、時折思い出したように重いため息を吐きながらキーボードを叩き続けている。窓際の老紳士は、経済紙のページを、まるで時間の流れそのものを引き延ばすかのような、静かで緩やかな動作でめくったばかりだった。カフェの大きなガラス窓の向こう側では、人々が分厚いジャケットの襟を立て、地下鉄の駅へと続く階段を目指して、まるで目に見えない時間に追われるように足早に通り過ぎていく。
目に見える風景のなかには、特別な劇的な出来事など何一つ起きてはいなかった。しかし、どうしてだろう。佐藤さん、そして美咲さんとの対話を終えた今、このありふれたカフェの空間が、不意に息苦しいほどの密度で満たされているように感じられた。ここを訪れ、それから去っていく、名もなき人間たちが抱える声なき物語。その無数の断片が、店内の空気を重く膨らませているようだった。
チリン、チリン、と。
ドアのベルが一度、それから堰を切ったように連続してけたたましく鳴り響いた。
壁の掛け時計の針が、十二時の目盛りへと重なっていく。それまで店内に満ちていた穏やかな平穏は、昼食を終えて午後の活力となるカフェインを求めるオフィスワーカーたちの波が一気に押し寄せたことで、粉々に打ち砕かれた。あちこちから湧き上がる談笑の声、低く響く笑い声、そしてスプーンが陶器のカップと擦れ合う硬質な音が、瞬く間に店内の大気を支配していく。注文の手が、まるで銃弾の掃射のように容赦なく茜の元へと浴びせられた。
「ハウスブレンド、テイクアウトで一つ!」
「ホットのカフェラテ二つ、お砂糖控えめで!」
「アイスコーヒー!」
「抹茶のミルクレープも一つちょうだい!」
茜は無心で身体を動かした。レジスターの前で注文を受け、手早く金額を打ち込み、名前を確認する。淹れたての温かい飲み物が載ったトレーを慎重に、しかし急いで各テーブルへと運び、客が立ち去ったばかりのテーブルを次のお客のために慌ただしく片付ける。
その目まぐるしい喧騒のなかで、彼女はやはり、いくつかの小さな不手際を犯してしまった。グラスのサイズを間違えて取り違えたり、ソーサーの上に置くべき小さなスプーンを添え忘れたり。けれど、彼女のすぐ傍らで流れるように動いている美咲さんは、ただの一度も声を荒らげることも、不機嫌に彼女を咎めることもしなかった。美咲さんはただ、茜の手が止まった瞬間にそっと手を貸し、完璧な手際でそのミスを帳消しにすると、また次の作業へと向かう背中へ、安心させるような温かい微笑みを投げかけるだけだった。
時計の針が午後二時を回った頃、あの嵐のような狂乱の波は、嘘のように潮が引いていった。カフェは再び、本来の静かで、どこか気怠い平穏なリズムを取り戻していく。
茜は半分湿った白いダスターを手に、客のいなくなった窓際の空きテーブルへと近づいた。木目の表面には、先ほどまで置かれていたアイスコーヒーのグラスが残した、薄い結露の輪がぽつりと取り残されている。彼女はダスターを押し当て、その円形の水跡を、ゆっくりと円を描くようにして丁寧に拭い去った。表面が元の、曇りのない鈍い光沢を取り戻すまで、何度も、何度も。
「お疲れ様。大変だったでしょう」
背後から、不意に穏やかな女性の声が掛けられた。
茜が振り返ると、自分と同じくらいの年齢の若い女性が、従業員用の休憩室のドアから姿を現したところだった。艶のある長い黒髪が、頭の後ろで実用的に、かつ綺麗にハーフアップにまとめられている。その血色の良い、すっきりとした顔立ちは、これから始まる新しい仕事への準備が完全に整っていることを示していた。
「シフト交代の時間よ、茜ちゃん。あとは私に任せて、ゆっくり休んで」
女性は親しみやすい笑みを浮かべながら、カウンターの奥へと歩み寄ってきた。
茜もようやく笑みを返し、こめかみに浮かんでいた薄い汗をブラウスの袖でそっと拭った。
「ありがとうございます。ええと……結衣ちゃん、だよね?」
結衣と呼ばれた彼女は、思わずといった風に小さく吹き出し、その細い目を悪戯っぽく細めた。
「よかった! ここに通い始めて二週間、ようやく私の名前を覚えてくれたのね」
茜もつられて、小さく声を立てて笑った。胸の奥に澱のように残っていた気まずさが、その瞬間に綺麗に溶けていくのが分かった。
たしかに、今の彼女にはまだ、美咲さんの言うように、独自の奇妙な習慣や人生の断片を抱えてやってくる無数の常連客たちの名前を、正確に記憶するほどの器用さは持ち合わせていないのかもしれない。けれど、少なくとも、このどこか物憂げで温かい春の午後の光のなかで。彼女がその頼りない脳内のノートに、明確な現実の輪郭を持って書き加えることのできた実在の「人間の名前」のリストは、たった一つだけ、確実に増えていた。




