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ギルド受付嬢の新しい暮らし  作者:
物語は始まる

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9/23

第3章 日曜日

 その日、茜はアラームの不躾な電子音に遮られることなく目を覚ました。

 薄い白いカーテンを透かして、柔らかな朝の光がすでに四畳半の狭い部屋を隅々まで満たしている。微かに揺れる布の隙間から覗く東京の空は、雲一つなくどこまでも澄み切っていた。平日の朝なら嫌でも耳に飛び込んでくる、通勤快速のあの急きょしい轟音は聞こえない。ただ、薄い壁を隔てた隣の部屋のエアコンの室外機が、低く単調な唸りを上げているだけだった。

 枕元に手を伸ばし、転がっていたスマートフォンを拾い上げる。液晶画面が灯り、表示された数字は午前九時十八分。ここ数週間、毎朝のように彼女の胸を締め付けていたあの焦燥と動悸は、今朝に限っては綺麗に鳴りを潜めていた。今日は、狂ったようにシャワーを浴び、駅の改札へと滑り込むために全速力で走る必要はないのだ。

 茜は起き上がり、万年床の布団の端に腰を下ろした。四畳半の空間は、昨夜と何一つ変わらない無機質な記号のままでそこにあった。彼女の単調な日常をそのまま縮小したようなミクロコスモス。窓際にある安物の木製折りたたみ机、中央が重みで不格好に撓み始めた本棚、プラスチック製の衣装ケース、そして片付けられていない布団。机の端では、ノートパソコンが貝殻のように口を開けたまま、昨夜のうちにバッテリーを使い果たして完全に黙り込んでいた。


 その精密機械のすぐ脇に、底に冷えて固まった黒いコーヒーの残滓がこびりついたマグカップが取り残されている。茜はそれを手に取り、部屋の隅にある小さなユニットキッチンの流し台へと歩いた。蛇口のレバーをひねると、水道水がチョロチョロと頼りない音を立てて流れ出し、部屋を支配していた静寂を穏やかに撥ね退けた。

 マグカップをすすぎ終え、一つだけ置かれた小型冷蔵庫の扉を開く。冷気とともに漂ってきたのは、明らかに中身の心許なくなった空間の匂いだった。四個入りの卵パック、白い豆腐が一丁、端がわずかに茶色く変色し始めたキャベツの半玉、ミネラルウォーターのペットボトルが二本、そして一度注げば底を突くであろう紙パックの牛乳。

 茜は短く息を吐き出した。

(今日は買い出しに行かないと駄目ね)

 外出の支度をする前に、机の上で布製の財布を開く。中身をすべて引っ張り出し、今月の残高を厳密に計算してみる。少し使い込まれて皺の寄った千円札が数枚、百円玉と五十円玉のいくつかの金属塊、そして定期券。

「月末までは、どうにかもつか」

 彼女は自分自身に言い聞かせるように呟いた。

「……途中で古本屋に引っかかりさえしなければね」

 自分の最大の悪癖を自嘲するように、口元に苦い笑みが浮かぶ。


 午前中のスーパーマーケットは、まだ買い物客の姿もまばらで、どこか弛緩した空気が漂っていた。天井のスピーカーからは、テンポの遅いインストゥルメンタルのBGMが静かに流れ、カートを押しながら熱心に食材を見定めている主婦たちの低い囁き声と混ざり合っている。通路の奥では、緑色のエプロンをつけた店員が、トラックから搬入されたばかりのみずみずしい野菜の山をリズミカルに棚へ並べていた。

 茜はプラスチック製の買い物かごを手にとった。平日の慌ただしさから解放され、滅多に味わうことのできない「時間の手なぐさみ」を噛み締めるように、ゆっくりと歩を進める。インスタントラーメンの棚の前で足を止め、価格とカロリーの数字を天秤にかけながらしばらく悩んだが、結局はプロテインの足しにと、鮮魚・精肉コーナーへと向かって豆腐と卵をかごに入れた。すべては計算に基づいた選択だった。過不足は許されない。

しかし、コーヒーのディスプレイ棚を通り過ぎようとした瞬間、彼女の足がぴたりと止まった。指先が、いつも深夜の執筆を支えてくれているお気に入りのインスタントコーヒーの瓶へと伸びかける。だが、棚の下に貼られた値札の数字が視界に入った瞬間、彼女はそっと手を引っ込め、それを元の位置に戻した。代わりに選んだのは、容量こそ少ないが財布の紐にずっと優しい、地味な詰め替え用のパックだった。

レジへの列に向かう途中、茜の視線が出口付近にある雑誌と新刊のディスプレイラックに囚われた。光沢のある鮮やかなカバーを纏った流行のエンタメ小説が、読者の目を引くために整然と並べられている。その中の一冊、恋愛小説の帯の隅に、小さな、しかし鋭く光を反射するホログラムのステッカーが貼られているのが見えた。そこには『三刷決定』と誇らしげに印字されていた。

茜はその場に、長い間佇んでいた。それを買うつもりも、裏表紙にあらすじを読むつもりもなかった。ただ、その小さなステッカーの輝きをじっと見つめ、いつか、自分の名前がこのような質の高い紙の上に印刷される未来の、その一日をただ想像していた。背後でショッピングカートの車輪がキュルリと鳴り、レジの列が前に進んだことを知らせるまで、彼女の意識は完全にその白い紙の束の中に没入していた。


正午を回る頃には、太陽の光は真上へと移動し、アパートの窓ガラスを透過してフローリングの床の上に正確な光の四角形を描き出していた。買い出しを終えた茜は、すぐに荷物を整理し始めた。買ってきたばかりのみずみずしいキャベツに包丁を入れ、几帳面に等分していく。半分は冷蔵庫の野菜室へ収め、残りの半分は手際よく千切りにして、密閉性の高い透明なタッパーへと移した。この大都会で一人きりで暮らしていくために、仕事から帰った後の調理を少しでも簡略化するための、彼女なりの生活の知恵であり、ささやかな儀式でもあった。

やがて、ベランダの隅に据え付けられた全自動洗濯機がガタガタと音を立てて回転を始め、内部の水流が壁面にぶつかる鈍い音を響かせ始めた。その音は、薄い壁の向こうの部屋から微かに漏れてくる、週末のバラエティ番組の笑い声と奇妙に共鳴しているようだった。このアパートの周辺の休日は、どうしてだか平日とは異なる周波数を帯びている。より緩やかで、より泥臭く、地面に足がついている。

洗濯が終わるのを待つ間、茜は少し埃の立ち始めた布団のシーツを替え、普段は見落としがちな床の隅を箒で掃き、昨日からドアの脇に溜まっていたゴミ袋の口をきつく縛った。掃除をしたからといって、四畳半の部屋が急に広くなるわけではない。けれど、どうしてだろう。室内の空気が、先ほどよりもずっと軽くなり、呼吸がしやすくなったように感じられた。


 夕闇が迫る頃、炊飯器から炊き立ての米の甘い香りが部屋全体に漂い始めた。一口きりのガスコンロの上で、小さなテフロン加工のフライパンに数滴のごま油を落とすと、パチパチと軽快な、小気味よい音が弾けた。茜は刻んだキャベツを放り込み、卵を一つ割り入れ、塩とブラックペッパーをひとつまみずつ振りかける。今夜の夕食は、お世辞にも贅沢とは言えない極めて簡素なものだったが、今の彼女にとっては、それで十分に事足りていた。最後のひと口を飲み干すと、彼女はすぐに流し台へ向かい、皿と箸を洗った。汚れた食器をそのままにして夜を越し、翌朝の自分に不快な現実を突きつけることだけは、どうしても避けたかったのだ。


 太陽はゆっくりと西の地平線へと沈み込み、窓際の折りたたみ机の表面に、燃えるような朱色の残光を長く落としていた。茜は深く、肺の底から息を吸い込み、胸の奥にある決意を確かめるようにして身体をこわばらせた。

 朝からあえて意識的に遠ざけていたノートパソコンを、机の上で再び開く。電源のインジケーターは、充電が完了したことを示す鮮やかな緑色に灯っていた。薄暗い部屋の中央で、液晶の白い光が唐突に鋭く発光し、ここ数ヶ月間、彼女が付き合い続けてきたお馴染みのフォルダを表示する。タイトルは――『ギルドの受付嬢』。

 白く発光する画面の最下部、何もない空白の端で、小さな黒いカーソルが規則正しく明滅を繰り返している。そのチカチカという動きは、まるで彼女の心臓の鼓動を急かすかのようだった。

 第七章。

 ページは未だ完全に真っ白なままで、一文字のインク(文字)の汚れさえ存在していなかった。

 茜はキーボードの上に両手を添えた。しかし、すぐには指を動かさなかった。彼女の視線は、ガラス窓の向こう側に広がる、夜の帳が下り始めた東京のシルエットへと向けられていた。

 眼下では、小さな子供が、買い物袋を下げた母親の足跡を追いかけるようにして楽しげに走っている。コンクリートの防潮堤のような境界壁の上では、一匹の野良のキジトラ猫が優雅な跳躍を見せ、そのまま建物の影へと滑り込むように消えていった。遥か彼方の高架線上を、通勤電車の長い光の帯が疾走していき、鉄輪がレールを削る特有の轟音が数秒間だけ部屋の空気を震わせ、やがて潮が引くように静寂の中へと消えていった。


 茜は視線を、再び目の前で白く輝くモニターの表面へと引き戻した。

 あの日、あの狭い編集部でベテラン編集者である佐藤さんが最後に残した言葉の残響が、不意に耳の奥で、驚くほど鮮明に蘇ってきた。

『まだ書かれていない、残りのページたちだ』

 茜の唇から、ひとつの長い溜息が漏れた。それは、彼女を長い間縛り付けていた完璧主義という名の、最後の迷いを振り払うための呼吸だった。

 彼女の指先が動き始めた。確かな打鍵音を立てて、キーボードのキーを迷いなく押し込んでいく。

 最初の一文字が、白い画面の上に浮かび上がった。それに導かれるようにして、二の文が先ほどよりも滑らかに流れ出す。さらに、三つ目の段落が、何の手抵抗もなく形を成していった。

 四畳半の木造アパートは、再び完全な夜の静寂に包まれていた。ただ、規則正しく響くタイピングのプラスチック音だけが、新しい物語の糸を紡ぐように室内を満たしていく。窓の外では、無数に並ぶ他人の部屋の窓灯りが、まるで地上の星屑のように一つ、また一つと点り始めていた。

 その薄暗い小さな部屋の中で。東京という名の冷厳な現実と、彼女が頭の中に構築した不格好なファンタジーという二つの異なる世界が、今、再び心地よいリズムを刻みながら、静かに並走を始めていた。


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