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ギルド受付嬢の新しい暮らし  作者:
物語は始まる

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7/21

第1章:最初のダメ出し

「いい小説だよ」

 その声はどこまでも平坦で、感情の起伏というものが綺麗に削ぎ落とされていた。佐藤さんは机の上に置かれた分厚い原稿の束に、大きな両手をそっと重ねた。最終ページの右下がわずかに折れ曲がり、頼りない白さに不格好な折り目がついている。彼はそれを親指の腹で、まるで高価な古書の皺を伸ばすようにゆっくりと、執拗なほど丁寧に平らにならした。それから、一度だけ短く、重い息を吸い込んだ。

「ただ、遅すぎる」

 会議室は再び、元の重苦しい静寂へと沈み込んだ。天井の古いエアコンが立てる規則正しい駆動音だけが、先ほどからずっとこの部屋の空気を支配している。その微かな機械音が、今はやけに鼓膜を圧迫して、耳障りに響いた。

 茜は背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、自分の身体が限界まで縮んでいくのを必死に堪えていた。膝の上に置いた、使い古した革鞄のストラップを、凍えた指先で強く握りしめる。それは外の寒さのせいだけではなく、彼女が自ら作り出した、世界との境界線としての防壁でもあった。この出版社の門を叩く前から、どんなに手厳しい批判でも、泥水をすするような言葉でも受け入れる覚悟はしてきたつもりだった。しかし、目の前に座るベテラン編集者の口から放たれたわずか二言の断定は、予想以上の質量で彼女の胸を的確に突き刺した。呼吸が浅くなる。まるで、この狭い空間の酸素だけが急激に薄くなり、肺が拒絶反応を起こしているかのような錯覚さえ覚えた。


 佐藤さんは一度閉じたはずの原稿の束を、再び乱暴に開いた。指の間に挟んだ安物の黒いボールペンが、規則正しいリズムで第一ページを叩く。トントン、トントン、と刻まれる硬質な音が、茜の焦燥をじわじわと煽り立てる。一種の威嚇のようにも聞こえた。

「シーナ」佐藤さんはページをめくりながら、確認するように呟く。「ドン。現代の日本に落ちてくる」

 めくられる紙の音が、静寂を鋭く引き裂いた。スリ、という摩擦音が皮膚を逆撫でする。

「みなみと出会う」

 さらに次のページへ、躊躇いのない手つきで移行する。

「アパートに入る」

 ペンの先端が、ある行の上でぴたりと止まった。佐藤さんはそこにじわりと圧力をかけ、白い紙の上に、小さな黒いインクの染みをぽつりと残した。逃げ場のない烙印のようだった。

「そこから……自分のいた世界の説明が、長々と三章にわたって続く」

 佐藤さんは最後の数枚を、少し手荒に放り出すようにめくった。バサリ、と湿った音が響く。

「終わりだ」

 佐藤さんは原稿を完全に閉じ、今度は机の上に小さな衝撃を伴ってそれを置いた。彼はゆっくりと顔を上げ、茜の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、悪意も好意も、いかなる情緒も混ざっていない。ただ純粋な、商業という名の現実だけがあった。

「もし私が、街の本屋でなけなしのお金を払ってこの文庫を買い求めた一人の読者だとしたら。一体どういう動機があれば、退屈な設定説明を耐え抜いて、七章までページをめくってくれると思うかい?」


 茜は言葉を失った。頭の中の最も見られたくない部分を、容赦なく暴かれたような感覚に背筋が寒くなる。アパートの薄暗い六畳間で、深夜にキーボードを叩いている時、その懸念は何度も頭をよぎっていた。けれど、そのたびに彼女は「この設定の緻密さ、世界の奥行きこそが読者を惹きつけるはずだ」という、傲慢で独りよがりの自信で不安を塗りつぶしてきたのだ。数ヶ月の夜を犠牲にして築き上げたその強固なはずの防壁が、現役のプロによる、至極まっとうで論理的な一言によって、音も立てずに瓦解していく。

「それは……」茜は震える声を、喉の奥からどうにか絞り出した。「最初のテンポを、あえて落としたんです、佐藤さん。急ぎすぎるウェブ小説のようにはしたくなかった。キャラクターの足取りを、丁寧に描きたくて」

「分かっているよ」

 佐藤さんの返答に淀みはなかった。茜の拙い言い訳を遮るその声はどこまでも静かだったが、同時に、これ以上の反論を一切許さないという拒絶の響きを含んでいる。

「それは、君が書いたすべての行から痛いほど伝わってくる」

 再び、気まずい沈黙が二人の間に降りてきた。佐藤さんは椅子の背もたれにどっしりと身体を預け、茜が自分の言葉を咀嚼し、現実を受け止めるための時間を数秒だけ与えた。


「だがね、茜ちゃん。丁寧な導入と、単に物語が停滞していることは、全くの別物だ」

 茜は喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じた。その指摘の正しさに、脳が、あるいは書き手としてのプライドが拒絶反応を起こしている。丁寧とは、計算されたリズムで土台を組み、読者を誘導することだ。停滞とは、物語を同じ場所で足踏みさせ、読者の貴重な時間を無駄に消費させることだ。自分の原稿がどちらに属しているかなど、言われるまでもなく明白だった。彼女の物語は、二人の出会いというピークを迎えた後、ただ作者の都合による説明の沼に足を取られて動けなくなっていた。

 佐藤さんはページを最初の部分へと戻した。

「君はシーナというキャラクターを、もっと深く読者に知ってほしい。そうだろう?」

「……はい」

「彼がいた世界の複雑な仕組みを、どうしても理解させたい」

「そうです」

「シーナとみなみの関係も、安易なものではなく、時間をかけて自然に育ませたい」

 茜はすがるように、何度も何度も小さく頷いた。張り詰めた薄暗い視界の先に、かすかな理解の光が見えた気がした。

「はい。まさに、その通りなんです」

 しかし、佐藤さんは原稿を再び、今度は完全に最終的な動きとして閉じた。その動きには、一切の迷いも妥協もなかった。

「すべて成功しているよ」


 茜は思わず顔を上げた。予想外の肯定的な言葉に、ストレスで耳がおかしくなったのかと思った。だが、佐藤さんの表情を見た瞬間、その淡い期待は一瞬で霧散した。彼の目は笑っていなかった。

「すべて成功している」佐藤さんは、残酷なほどの間を置いて繰り返した。「ただし、バラバラにね。それらは情報として、あるいは設定資料としては非常に質が高い。君が熱意を持って設定を練り上げたことは伝わる。けれど、それらが互いに絡み合い、一つの『物語』という織物にはなっていないんだ」

 ペンがまた、机の上で乾いた音を立てた。トントン、というその音は、まるで彼女の才能の限界を告げるカウントダウンのようだった。

「君の小説は、設定説明という檻の中に閉じ込められている」

 茜は深くうつむき、自分の古びた靴の先を見つめた。二ヶ月。六つの章。会社帰りの疲れ切った頭で、こめかみの拍動を覚えながら書き進めた夜。娯楽をすべて断ち切り、友人の誘いも断った日曜日。満員電車の吊り革に掴まりながら、激しい眠気と戦ってスマホのメモ帳に打ち込んだアイデアの断片。過去の八週間を構成していた彼女の人生のすべて、削り取った命の結晶が、今、目の前の安っぽい木目調の机の上で「失敗した露出」として冷たく積み上がっている。ただのゴミのように思えて、視界が滲みそうになった。


「プロットの控えは持ってきているかい?」佐藤さんの声が、茜の自嘲の思考を鋭く遮った。

「はい……ノートパソコンに入っています。手帳にも、大まかな流れはメモしてあります」

「結末まで、全体の構成は決まっているんだね?」

「はい。ラストの着地点、物語のコンクルージョは固まっています」

 佐藤さんは小さく頷き、眉間の険しさをわずかに和らげた。

「よろしい。それが何よりの資本だ」

 彼は脇に置かれていた黒い厚手のバインダーを開き、そこから社名入りの公式な便箋を一枚引き抜くと、手元のペンを滑らせた。無駄のない、しかしどこか人間味のある端正な筆跡で、四つの項目が書き込まれていく。


 一、導入の停滞。

 二、メインコンフリクトの遅延。

 三、キャラクターの距離感は良好。

 四、書き進めること。


 茜の前に、そのメモ用紙が静かに滑り込んできた。彼女の視線は、上の三行に並んだ手厳しい指摘よりも、最後の短い一言に、ずっと長く留まった。

「書き進める……」茜は掠れた声で呟き、恐る恐る顔を上げた。「私は、その……てっきり、第一章からすべて書き直しを命じられるものと思っていました。ボツだと」

「どうして私が、そんな非効率的で非生産的な真似を勧めなければならないんだい?」

「だって、これだけ致命的な欠陥があると言われたばかりですから。最初がダメなら、全部ダメなんじゃないかと」

 佐藤さんは深く、重い息を吐き出し、椅子の背もたれにより深く体重を預けた。先ほどまでの威圧感が、わずかに和らぐ。

「茜ちゃん、いいかい。これはあくまで編集者としての『意見』であり『批判』だ。君の執筆リズムを木っ端微塵に破壊するための命令じゃないんだよ」

 茜は黙って佐藤さんの言葉を反芻した。意味が、すぐには脳に染み込んでこない。


「最初の数章を書くたびに、他人からの批判や、自分自身の未熟さに怯えて一ページ目へと引き返していたら」佐藤さんは茜の原稿に静かな視線を落とした。その眼差しには、これまで何人もの挫折者を見てきた老兵のような、深い哀愁が混ざっていた。「この物語は、一体いつになったら『終わり』というゴールに辿り着くと思う?」

 責めるようなニュアンスは皆無だった。ただ事実を淡々と指摘する、あまりにも合理的で冷徹な問いかけ。だからこそ、茜には返す言葉がなかった。

「多くの新人候補が途中で筆を折り、原稿をハードディスクの肥やしにする。彼らのアイデアが悪かったわけじゃないんだ」佐藤さんの声が、わずかに柔らかくなる。「彼らはあまりにも生真面目で、完璧主義者で、精度を求めるあまり自分のプライドを慰めるために第一章をこねくり回すことに疲れ果ててしまっただけだ。直すたびに、物語が持っていたはずの新鮮さは失われていくというのにね」

 佐藤さんは原稿の束を、机の境界線を越えて、茜の硬直した指先のすぐ前まで押し戻した。

「前半の歪みなんて、全体の初稿が上がった後に、いくらでも外科手術ができる。今、君の未熟な技術を待っているのは」彼は一呼吸置き、言葉の重みを茜の脳裏に刻み込むように言った。「まだ書かれていない、残りのページたちだ」


 茜は静かに自分の原稿を見つめた。脳裏に、あの第一章を書き上げた夜の、異様なほどの疲労感が蘇る。最初の一行、最初の一文を決めるためだけに、三時間近くパソコンの前で頭を抱えていた。翌日にはそれが気に入らなくなり、また消して書き直した。その次の日も、同じことを繰り返した。終わりのない、閉じた円環の中をぐるぐると回り続けるようなあの不毛な時間。それは、プロ意識などではなく、ただの「失敗することへの恐怖」だったのだ。

 茜の口元に、自嘲気味な、しかし少しだけ憑き物が落ちたような笑みが浮かんだ。佐藤さんの言う通りだ。彼女は、自分自身の恐怖心という奴隷頭に鞭を振るわれていただけだった。

「……佐藤さん、一つだけお伺いしてもいいですか?」

「構わないよ。何だい」

 茜は原稿を手元に引き寄せ、躊躇いがちにページをめくった。紙が擦れる音が、彼女の決意を確かめるように響く。第二章の中盤、ある長めの会話のブロックの上で、彼女の指がぴたりと止まった。

「この、まとまりのない、設定だらけの紙の束の中で……佐藤さんが一番マシだと思ってくださったのは、どこですか?」

 佐藤さんはすぐには答えず、


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