VI 四畳半の異邦人
帰路の足取りは、南琴音が事前に覚悟していたよりも数倍は過酷なものだった。
彼が川底から引き揚げた女の身体は、成人女性の平均から見れば決して大柄な部類ではない。しかし、日頃から四畳半の絶対防衛圏に引きこもり、漫画本の束より重いものを持ち上げたことのない無職の肉体にとって、水を吸った奇妙な上着と異世界の重力を引きずったその質量は、文字通りの拷問だった。数歩進んでは立ち止まり、肺が焼き切れるような呼吸を整える。その不毛な作業を、彼は薄暗くなりかけた住宅街の片隅で何度も繰り返した。
「……あと、少し」
琴音は肩の上でずり落ちそうになる女の身体を、苦し紛れに持ち上げた。
「なんで空から降ってくるような奴が、こんなに自重あんんだよ……」
ようやく辿り着いた安アパートの前に立ち、彼はデニムのポケットから鍵を引っ張り出すのにも一苦労した。両腕が塞がった状態でシリンダーに鍵を差し込むという高度な作業に何度か失敗し、苛立ちが限界に達した頃、ようやくドアノブがカチャリと頼りない音を立てて回った。
鍵を開けて滑り込んだ狭い室内は、彼が数時間前に家を出た時と全く同じ、救いようのない停滞の空気で彼を迎え入れた。
万年床の煎餅布団は相変わらず床の中央を占拠している。
テレビの脇には、炭酸飲料の空き缶がそのままの角度で放置されていた。
座る人間のいない椅子の背もたれには、コンビニのビニール袋がだらしなくぶら下がっている。
琴音は踵でドアを乱暴に閉め、限界を迎えた足をもつれさせながら布団の脇へと歩を進めた。
「――っと、な」
壊れ物を扱うような、あるいは単にこれ以上体力を消費したくないという極めて利己的な慎重さで、彼は女の身体を薄いマットレスの上へと横たえた。
布団に沈んだ女の身体は、ピクリとも動かなかった。
ただ、その呼吸だけは驚くほど規則正しかった。
水を吸った上着の胸元が、小さく、一定の周期で上下している。
琴音はそこで初めて、肺の底に溜まっていた熱い空気をすべて吐き出した。
「……生きてるな、とりあえず」
彼は畳の上に崩れるように座り込み、悲鳴を上げている自らの両肩を交互に揉みほぐした。火事場の馬鹿力が切れた途端、暴力的な疲労感が全身の関節に押し寄せてくる。
彼は視線を落とし、女の濡れた衣服を忌々しそうに見つめた。
「……このまま放置したら、普通に風邪ひいて死ぬやつじゃん、これ」
琴音は重い腰を上げ、部屋の隅にある小さな収納から、まだマシな吸水性を保っていそうな使い古しのバスタオルを引っ張り出してきた。
彼はひどくぎこちない手つきで、女の長い髪にタオルを押し当てた。
束になった黒髪から滴る水分が、またたく間にタオルの繊維を重く変えていく。
しかし、二十歳の無職にできる人道的なケアは、悲しいかなそこが限界だった。見ず知らずの異性の服を着替えさせるほどの胆力もなければ、そんな面倒な作業に割く体力も残されていない。彼はただ、顔に張り付いていた濡れた髪を数本払い、顔の輪郭が判別できる程度に整えるだけで満足することにした。
女の呼吸が安定していることを再度確認すると、彼は湿ったタオルを枕元に放り投げた。
「あとは……明日だ。明日考えよう」
彼自身の肉体も、すでに強制シャットダウンの領域に達していた。
琴音は数歩這うようにして自らの領域へと移動し、もう一枚の薄汚れた毛布に潜り込んだ。そして、顎のあたりまでそれを引き上げる。
結果は、一瞬だった。
意識のコードが引き抜かれたような唐突さで、室内には彼の軽薄な寝息が響き始めた。
夜は、酷く不自然な静寂を保ったまま更けていった。
窓の外からは、数時間に一度、遠くの幹線道路を走るトラックのロードノイズが届き、それに混ざって、終電を逃した酔客の締まりのない話し声が通り過ぎていく。遮光性の低い tiraiの隙間から滑り込んだオレンジ色の街路灯の光が、混沌とした部屋の輪郭をうっすらと浮かび上がらせていた。
その薄暗い光の中で、布団に横たわっていた女の瞼が、ぴくりと痙攣した。
彼女は眉間に深い不快感の皺を刻んだ。
頭の芯が、まるで冒険者たちの怒鳴り声を何時間も浴びせられた後のように重く、鈍く痛む。
脳裏に去来する最後の記憶は、足元の床板が大きな音を立てて割れ、自らの身体が重力に捕らわれていく、あの圧倒的な崩壊の瞬間だった。
それから……深い、闇。
シーナは、ゆっくりと目を開けた。
網膜が捉える視界は、未だに白い霧がかかったように不鮮明だった。
彼女は何度か執拗に瞬きを繰り返し、それから片手で自らの額を押さえながら、重い上体を起こした。
「……」
視界が焦点を結ぶにつれて、彼女の思考は急速に凍りついていった。
目の前に広がっていたのは、彼女の二十数年の人生において、ただの一度も見聞きしたことのない、全く未知の空間だった。
非常に、不愉快なほどに狭い部屋だ。
天井は手を伸ばせば届きそうなほどに低く、壁面は見たこともない薄い素材で区切られている。
彼女は驚愕を押し殺しながら、冷徹な目で周囲を走査した。
ドアの近くには、半透明の不気味な袋に詰められたゴミの山。床の上には、金属製の小さな円筒がいくつも無造作に転がっている。部屋の隅にある不格好な棚には、背表紙に奇妙な絵が描かれた薄い書物が無秩序に積み上げられ、座る人間のいない椅子の背もたれには、布切れがだらしなく引っ掛けられていた。
そこには、彼女が処理すべき書類棚はなかった。
ふんぞり返った冒険者が無理難題を喚き散らす受付カウンターもない。
そして何より、彼女の人生の呪縛そのものだったローゼンブルク冒険者ギルドの紋章が、どこにも見当たらなかった。
シーナの眉間の皺が、さらに深く刻まれる。
「私は……」
その時、部屋の反対側から、緊張感の欠片もない、間抜けな寝息が聞こえてきた。
シーナは反射的に視線をそちらへと向けた。
そこには、だらしなく首元の伸びた衣服を纏った一人の青年が、お世辞にも上品とは言えない姿勢で泥のように眠っていた。毛布は腹のあたりまで蹴飛ばされ、片方の腕は畳の上に無様に投げ出されている。
シーナは再び、視線を自らの周囲へと戻した。
この空間は、徹底的に乱雑だった。
しかし、それは先ほどまで彼女が目撃していた、スタンピードによる暴力的で悲劇的な「破壊」の結果ではない。
住人であるあの青年が、自らの明確な怠惰の意志によって、意図的にこの惨状を「維持」している。その事事実が、プロの事務職である彼女の目には一瞬で見抜けた。
缶は捨てられず、紙切れは散らばり、部屋の隅には薄い埃の層が堆積している。
シーナは、完全に言葉を失った。
脳裏に、かつて自分が死に物狂いで維持していた、あの整然とした受付の光景が蘇る。
毎日、何百枚もの報告書を精査し。
書類の端を寸分の狂いもなく揃え。
ナンバリングされたファイルを完璧な秩序の元に管理する。
すべてを「正しい場所」に収めるために、彼女はその精神をすり減らしてきたのだ。
それなのに、今、目の前にあるのは――。
彼女の視線が、再びドアの脇の薄汚れたゴミ袋へと吸い寄せられる。
シーナの薄い唇が、微かに、戦慄に震えた。
「……まさか」
彼女は乾いた喉の奥で、ひび割れた生唾をゆっくりと飲み下した。
もう一度、絶望を噛み締めるようにして四畳半の混沌を見つめ直す。
「……ここが……」
血の気が引いていく彼女の顔が、街路灯のオレンジ色の光に照らされて、幽霊のように青白く浮かび上がった。
「……死後の、罰を課される場所(地獄)なの?」
その言葉は、ほとんど声にならない絶望の囁きだった。
「私は、あの馬鹿どもの書類管理を全うできなかったせいで……よりによって、こんな無秩序の極みのような奈落へ落とされたというの……?」




