V 川辺の初対面
南琴音は、未だに湿った土の上で呆然と座り込んだままだった。
頭頂部から滴る川水が、首筋を伝ってヨレヨレのTシャツをさらに冷たく濡らしていく。デニムのズボンも先ほどのスプラッシュを正面から浴びて、すでに肌に不快に張り付いていた。彼はただ、不自然な大波が引き始めた水面を凝視し、自分の身に起きた超常現象の辻褄を脳内で合わせようと必死になっていた。
ほんの数分前まで、彼の目的は極めて卑近だった。今日の飢えを凌ぐための、哀れな一匹の魚。ただそれだけを求めていたはずなのだ。
それがどうだ。空が割れ、そこから人間が降ってきた。
「……」
「……俺、まだ飯食ってないよな?」
琴音は両手で顔をごしごしと乱暴に擦った。空腹のあまり、脳が都合のいい幻覚でも見せ始めているのではないかと本気で疑ったのだ。しかし、掌に伝わる水滴の冷たさと、鼻を突くリアルな泥水の臭いが、これが紛れもない現実であることを無慈悲に告げていた。
川面に広がっていた巨大な同心円の波紋が、ゆっくりと穏やかな流れの中に吸い込まれていく。
「――ん、ぐ」
琴音の眉間に、再び深い皺が刻まれた。
静まり返りかけた水面の一角で、何かが不自然に動いた。
それは魚の跳ねる小気味よい動きではなく、かといって上流から流れてきた不浄な流木の手触りでもなかった。
澱んだ水底から、一本の「人間の腕」が突き出されたのだ。
その手には、ところどころが鋭利な刃物で引き裂かれた、奇妙な革手袋が嵌められていた。細い指先が、空を掴むように弱々しく痙攣している。何か縋るべき支えを求めて、虚空を彷徨うようなその動き。
「ごほっ……! う、ぐ……っ」
水面を割って、小さく、しかし酷く苦しげな吐瀉音が響いた。
次いで、長い髪を乱暴に張り付かせた女の頭部が、水面へと這い出てくる。彼女は激しく咳き込みながら、肺に溜まった水を吐き出し、必死に大気を乞うように顎を突き出していた。
「けほっ、げほっ……!」
しかし、浮力を失ったその身体は、川の冷たい抱擁に抗いきれず、再び肩のあたりまでするすると沈み込んでいく。
琴音は弾かれたように土手の上に立ち上がっていた。
「……マジかよ」
彼は視線を固定したまま、数秒の間、その光景を網膜に焼き付けた。
ダッチワイフの類でもなければ、悪質な悪戯のロボットでもない。
紛れもない、生きている人間だ。
「おい……っ!」
女の身体が、再びバランスを崩して水底へ沈みかけようとした瞬間、琴音の脳内から「怠惰」という名のストッパーが完全に吹き飛んだ。彼はバタバタと不恰好な足取りで、斜面を滑り落ちるようにして水際へと駆け寄る。
「おい、しっかりしろ! 手ぇ伸ばせ!」
滑りやすい濡れた草地の上に両膝を突き、上体を限界まで川面へと乗り出させた。骨の抜けたようだった彼の腕が、いまは必死の形相で前方へと突き出されている。
「掴めっ!」
水中で女が、鉛でも埋め込まれているかのような重々しい動作で、泥に汚れた右腕を掲げた。
互いの指先が、一瞬、空中で触れ合う。
だが、まだ足りない。あと数センチの距離が、絶望的な溝となって二人の間を隔てていた。
「クソっ、あと少し……!」
琴音はさらに身体を前のめりにした。片方の膝が容赦なく冷たい泥水に没したが、そんな不快感を気にする余裕はすでになかった。
次の瞬間、肉と肉が衝突する鈍い感触が手元に返ってきた。
ガシッ、と。
彼の細い指先が、女の細い、しかし酷く冷え切った手首を確実に捕らえた。
「捕まえた……!」
琴音は奥歯を噛み締め、ありったけの力を腕に込めて引き剥がそうとした。
だが、その瞬間に彼を襲ったのは、想定を遥かに超えた強烈な「自重」だった。小柄に見えるその身体は、水を吸った衣服のせいだけではない、まるで異世界の重力そのものを引きずってきたかのように、底知れず重かった。
「っの、重っ……! 何食ったらこんな重くなんんだよ!」
悪態を吐きながら、彼は足元の濡れた草に靴底を食い込ませた。何度もズリズリと足が滑り、危うく二人まとめて水底へ引きずり込まれそうになりながらも、彼は指の骨がきしむほどの力で手首を握り締め続けた。
一センチ、また一センチと、濁った水面から女の輪郭が引き揚げられていく。
「あと、一歩……!」
「上がれ、よっ……!」
最後の、文字通り火事場の馬鹿力を振り絞った一引きと共に、女の身体が土手の草地へと滑り込んできた。
ドサリ、と。
水を含んだ重い質量が地面に倒れ込むのと同時に、琴音もまた、完全に体力を使い果たしてその場に大の字にひっくり返った。
「はーっ……、はーっ……!」
「ふぅ、う……、はぁ……っ」
彼の貧弱な胸板が、狂ったように上下する。
日頃の運動不足がこれ以上ない形で祟っていた。二十歳のNEETにとって、大人の人間一人を水から引き揚げるという作業は、自らの寿命を数年分前借りするほどの重労働に他ならなかった。
隣では、這い上がった女がなおも激しく身悶えし、咳き込んでいた。
「げほっ、ごほっ……!」
彼女の薄い唇から、大量の川水が溢れ出る。
身に纏った漆黒の衣服は、完全に水分を吸って彼女の細い肢体に無残に張り付いていた。その不気味なほど長い髪の先からは、土手の雑草に向かって、途切れることのない雫がぽたぽたと滴り落ちている。
琴音は痛む腰を庇いながら、這うようにして上体を起こした。
そうしてようやく、彼は「空からの落とし物」の正体を、至近距離から観察する機会を得た。
見たところ、年齢は自分とさして変わらないように思えた。
だが、その身なりは、この令和の日本の郊外にはおよそ存在し得ない、狂ったディテールに満ちていた。
ところどころが何らかの爪や刃物でズタズタに引き裂かれた、見たこともない意匠の仕立ての良い上着。
泥と炭化組織が付着した革の手袋。
そして、ふくらはぎまでを覆う、泥まみれの重厚な革靴。
どれをとっても、近所のショッピングモールで買えるような代物ではなかった。まるで、深夜アニメかファンタジー映画の撮影現場からそのまま脱走してきたかのような、現実感の欠如したコスチューム。
「……」
琴音は濡れた頭を傾げ、ぽつりと呟いた。
「……何これ、映画のロケ?」
しかし、その仮説は、女の剥き出しになった前腕に走る無数の「生々しい擦り傷」と、彼女の顔全体に張り付いた、演技とは思えない本物の疲弊を見た瞬間に、霧散せざるを得なかった。
周囲を見渡しても、カメラの一台もなければ、ディレクターの怒鳴り声も聞こえない。
あるのはただ、茜色から紫へと移り変わりつつある、静まり返った夕暮れの川辺だけだ。
やがて、女がゆっくりと、その重そうな瞼を持ち上げた。
水分を含んで束になった睫毛が微かに震え、その奥から、冷徹な光を宿した両眸が姿を現す。
彼女は小さく頭を動かし、自らの真横に座り込んでいる見ず知らずの青年――南琴音の姿を、その網膜の真ん中に捉えた。
その瞳の奥には、確かに底知れない困惑と動揺が渦巻いていた。
だが、それと同時に、長年「組織の顔」としてあらゆる不条理を処理してきた 官僚・事務職特有の、冷徹なまでの理性が、その奥底で死にきれずに燻っているのが見えた。死線を潜り抜けた直後だというのに、彼女の眼差しは、どこか他人を値踏みするような鋭さを保っている。
琴音は、ただただその視線に圧されて、言葉を失っていた。
しばらくの間、二人の間には一枚の紙ほどの隙間もない、奇妙な沈黙が流れた。
耳腔に届くのは、相変わらず澱んだ川の流れが立てる、規則的で無機質な水音だけだ。
気まぐれな川風が再び土手を吹き抜け、濡れた二人の身体を容赦なく冷やしていく。
二人は、互いに全く同じ性質の、しかし方向性の違う困惑を抱えたまま見つめ合っていた。
一方は、なぜ何もない平凡な夕空から、こんな奇妙な女が降ってきたのかが分からない。
もう一方は、なぜ自分が死んだはずの世界の後に、こんな見たこともない無機質な平穏が広がっているのかが理解できない。
かくして、夕闇がすべてを均一に塗りつぶそうとする静かな川辺において、シーナと南琴音の邂逅は果たされた。
そこに、物語の始まりを告げるような劇的な音楽はなく、世界の命運を語る予言者の大音声も響かない。
いたのはただ、今日の飯にすら困窮して釣りに失敗した一人の無職と、自らの職場ごと世界に裏切られ、空から降ってきた一人の元受付嬢。
そのあまりにも生産性の低い二人の視線が交錯した瞬間から、新しい、そしてどこか冷え切った日常の歯車が、静かに回り始めようとしていた。




