IV 空から降ってきたイレギュラー
郊外を流れる川の水面は、傾きかけた夕日を反射して不気味なほど穏やかだった。
時折、気まぐれに吹く川風が水面に小さなさざ波を立て、土手に群生する雑草の穂を頼りなげに揺らす。傾きかけた西日が、生い茂るブッシュの影を長く伸ばし、そこからは早くも夜の訪れを予感させる虫の鳴き声が、途切れ途切れに響き始めていた。
南琴音は、少し湿り気を帯びた地面の上に直に胡坐をかいていた。
右手に握られているのは、祖父の遺品である古い釣竿だ。ナイロン製の糸が夕日を浴びて鈍く光り、水面へとまっすぐに伸びている。その先にある赤と白の安っぽい浮子は、流れのない水面で、まるで自らの意志を放棄したかのように微動だにせず浮かんでいた。
かれこれ、一時間近くはこの姿勢のままだ。
しかし、浮子が水面下に引き込まれる気配は、ただの一度としてなかった。
当然、針に仕込んだエサに興味を示すような、奇特な魚など一匹も現れない。
琴音は半分閉じた瞼の隙間で、その動かないプラスチックの塊をただ眺めていた。
時折、大きくあくびを噛み殺す。
時折、痒くもない頬を指先でガリガリと掻く。
そうしてまた、何もない水面を凝視するだけの、不毛な時間が再開される。
周囲の環境は、あまりにも静かだった。川のせせらぎというよりは、澱んだ水が流れる無機質な音だけが、彼の耳腔を虚しく満たしていく。
ぐるるるる……。
その静寂を乱暴に引き裂いたのは、やはり彼の内臓が上げる、情けない自己主張だった。
琴音は思わず前屈みになり、空腹の痛みに耐えるようにして自らの下腹部を抱え込んだ。
「……マジで腹減った」
視線を足元に這わせれば、そこにはプラスチック製の小さなバケツが転がっている。
中身は、言うまでもなく空っぽだ。
底に溜まった数センチの水が、夕日を反射して虚しく揺れているだけで、そこには小魚の影すら存在しない。
「今日という日を呪いたいね、本当に」
琴音は肺の底にある空気をすべて吐き出すように、深く、重い溜息をついた。
もしこのまま何の成果も得られなければ、明日の朝、彼はあの四畳半の煎餅布団から起き上がるためのエネルギーすら完全に枯渇させていることだろう。
『労働』という、彼の辞書において最も忌避すべき単語が、再び脳裏の隅でチラついた。
彼は即座に首を大きく横に振る。
「いや……明日だ。明日になれば、きっと何か変わる」
それが自らを奮い立たせるためのポジティブな思考なのか、あるいは単に、目の前の冷酷な現実から目を背けるための、いつもの先延ばし癖なのかは、彼自身にも分かっていなかった。
琴音は億劫そうに腰を浮かせ、油の切れたリールをギチギチと音を立てて回し始めた。
「やめだ、やめ。帰ろう」
しかし、水面下に沈んでいた錆びかけた釣り針が、まさにその輪郭を現そうとした、その瞬間のことだった。
周囲を満たしていた空気が、突如としてその密度を変えた。
さっきまで肌を撫でていた生温い川風が、まるでピタリと息の根を止められたように途絶える。
近くの立ち木に止まっていた野鳥たちが、何かに怯えるようにして一斉に羽音を立て、狂ったように空へと飛び去っていった。
異様な気配に、琴音は反射的に顔を上げた。
「……ん?」
頭上、はるか高い上空から、聞き覚えのない奇妙な音が響いてきた。
最初は、ごく小さな音だった。
古びた布地を、素手で無理やり引き裂くような、どこか繊維質の摩擦を伴う音。
だが、その不快な残響は、数秒の間に爆発的な質量を持ってこちらの鼓膜へと迫ってきた。
バリバリ、ズゥゥゥン――!
琴音は弾かれたように土手の上に立ち上がった。
「な、なんだ……?」
川面の上空、何もない夕焼け空に、銀色の細い「亀裂」が唐突に走った。まるで透明なガラスの天球に、不可視の刃物で鋭い傷をつけたかのように、その裂け目は不自然に光を放ちながら横に広がっていく。
琴音の身体は、完全に硬直していた。
二十年の人生において、これほど非現実的な現象を目撃したことなど、一度としてない。
彼の貧弱な脳細胞がその異常事態を咀嚼し、SFの知識を総動員して理解しようとするよりも早く、その輝く裂け目から、一つの歪な『影』が猛烈な速度で吐き出された。
それは重力という絶対的な法則に従い、地表に向かって一直線に落下してくる。
鳥でもなければ、どこかの戦闘機でもない。もちろん、子供が手を離した凧の類でもなかった。
「あれって……」
琴音の網膜が、その影のディテールを正確に捉えた瞬間、彼の両眸が限界まで見開かれた。
「……人間、か?」
それは、一人の女だった。
風を孕んで不規則に狂い咲く、長い髪。
ところどころが鋭利な刃物で引き裂かれ、煤と泥に汚れたボロボロの衣服。
女の身体は、凄まじい風切り音を伴いながら、自由落下の軌道を描いて突き進んでくる。
そして、その凶悪なまでのベクトルが指し示す着地点は――
「……え?」
琴音は間抜けに瞬きをした。
「……こっち?」
彼の脳が、その命に関わる最悪の事実を認識するまでに、あまりにも致命的な数秒のラグを要した。
直後、体内の生存本能がようやく悲鳴を上げる。
「待て待て待て! ちょっと待て!」
彼は慌ててバタバタと足を動かし、数歩ほど後ろの斜面へと後退した。それと同時に、まるで迫り来る暴走車を静止させるかのように、両手を前方へと突き出す。言うまでもなく、上空から時速数百キロで降ってくる質量に対して、何の役にも立たない無意味な拒絶のポーズだった。
「受け止められるわけねぇだろ、あんなの!」
女の影が、一瞬ごとに巨大化していく。
加速する。
もはや、彼女の乾燥してひび割れた唇や、固く閉じられた瞼の睫毛の揺れまでが視認できる距離だった。
「大マジでこっちに落ちてきてんじゃんかよ!」
ドォォォォン――!!
次の瞬間、目の前の川面が爆発した。
激しい水煙が視界を真っ白に染め上げ、信じられないほどの質量を持った水の壁が形成される。その大質量は重力に従って周囲へと炸裂し、土手の上にいた琴音の身体を正面から容赦なく叩き潰した。
「うわあっ!?」
泥水混じりの衝撃波に押し流され、琴音の身体は数メートル後ろの草地へと吹き飛ばされた。背中から地面に激突し、息が詰まる。
手から滑り落ちた祖父の釣竿は、湿った土の上を空しく転がり、そのまま川の流れに吸い込まれて数メートル先のアシの茂みに引っかかった。
頭頂部から、顔面、そしてTシャツの裾に至るまで、冷たい川の水が容赦なく滴り落ちる。
琴音はただ、泥まみれの草地の上に尻餅をついたまま、微動だにせず前方を見つめていた。
文字通り、全身が中身まで「ずぶ濡れ」だった。
ほんの数十秒前まで、彼はただ、今日の飢えを凌ぐための哀れな一匹の魚を求めていただけだったはずだ。
それがどうだ。
今、彼の目の前には、文字通り空の裂け目から降ってきた一人の女が沈んでいる。
激しい衝撃によって巨大な同心円を描いた水面は、未だに不規則な大波を立てて激しく揺れ動いていた。その波紋は、夕闇の迫る茜色の空の下で、酷く不自然で不気味な静寂を孕みながら、ゆっくりと対岸へと広がっていく。
「……」
「……いまの、さぁ」
琴音は、喉の奥でひび割れた生唾を、苦そうに飲み下した。
「……絶対に、空から人が降ってきたよな?」




