III 財布が空っぽになった日
南琴音という男の人生には、壮大な計画など最初から存在しなかった。
世間で言うところの「成功者」を目指したこともなければ、大企業に就職して立派な肩書を手に入れたいと願ったこともない。他人が大層な夢を語るのを横目に、彼はただ、自分の安穏だけを求めていた。足を伸ばして眠れる場所があり、飢えを凌げる最低限の食料があり、そして何より、誰にも邪魔されずに大好きなライトノベルや漫画を貪るための自由な時間がある。それさえ担保されているのなら、彼の人生はそれだけで十二分に満ち足りていた。
家賃の安さだけが取り柄の四畳半アパート。そこに引きこもる二十歳の無職にとって、この薄暗い一室こそが、あらゆる世俗の嵐から身を守ってくれる絶対防衛圏であり、同時に至高の楽園でもあった。
部屋は、お世辞にも広いとは言えない。
万年床と化した煎餅布団が床面積の大部分を占拠しており、残された細い隙間が、辛うじて狭いミニキッチンと玄関へと続く動線を確保している。壁際に鎮座する不格好なカラーボックスには、ライトノベルと漫画本が限界まで詰め込まれていた。整然と並んでいるのは最初だけで、入りきらなくなった後半の巻は、すでに棚の上に無造作なピラミッドを形成している。
テレビの脇には、中身の干からびた炭酸飲料のアルミ缶がいくつも放置されていた。
部屋の隅を埋め尽くしているのは、油の浮いたポテトチップスの空き袋。
本来ならとっくに洗濯機へ放り込まれているべき数日分の衣服が、座る人間のいない椅子の背もたれに、だらしなく引っ掛けられている。
他人が見れば、眉をひそめて立ち去るようなゴミ溜めかもしれない。
だが、琴音にとっては違った。この混沌こそが、彼にとって最も心地よく、すべてが「あるべき場所」に収まっている完璧な秩序の証明だった。
その日の朝――あるいは、時計の針がすでに正午を回っているという意味では、朝と呼ぶには些か手遅れの時間帯だったが――遮光性の低い薄手のカーテンの隙間から、容赦のない初夏の陽光が差し込んでいた。容赦なく降り注ぐ暖かな光の束が、眠る琴音の顔を的確に照射する。
彼は不快そうに、眉間に深い皺を寄せた。
骨の抜けたような腕をだらしなく伸ばし、布団の海を泳がせてスマートフォンを手繰り寄せる。
バックライトが灯った画面には、無慈悲に「12:03」という数字が浮かび上がっていた。
「……まだ、朝じゃん」
誰に言い訳するでもない掠れた呟きを漏らし、琴音は再びゴロリと寝返りを打った。薄汚れた毛布を頭からすっぽりと被り、外界の光を拒絶するようにして丸くなる。
しかし、それから数分も経たないうちに、静寂に満ちていた室内を不穏な音が破った。
ぐぅ、と、低く長い音が響く。
他人の気配を完全に排した四畳半の中で、その音は驚くほど明瞭に鼓膜を叩いた。自らの胃袋が上げる、あまりにも世俗的で間抜けな悲鳴。
琴音は毛布の隙間から、片目だけを億劫そうに開いた。
「……腹減った」
観念したように短い溜息を吐き出し、煎餅布団の上でのそりと上体を起こす。寝癖で四方八方に爆発した髪。数日間着古して、すでに自らの体臭が染み付いたヨレヨレのTシャツ。
まだ半分ほど眠気に支配された顔のまま、彼は枕元のローテーブルへと手を伸ばした。
そこには、使い古されて角の擦り切れた茶色の革財布が、いつものように転がっている。
大した思考のプロセスも経ず、彼はその財布を掴み上げた。脳裏にはすでに、今日の遅い昼食のメニューが浮かんでは消えている。
手軽なカップ麺にするか。
あるいは、近くのコンビニまで歩いてジャンクな唐揚げ弁当でも買い込むか。
もし少しばかり予算に余裕があるのなら、ホットスナックのチキンを追加するのも悪くない。
そんな生産性の低い妄想を浮かべながら、財布のファスナーを引き、中に指を滑らせる。
手元には、しかし、紙幣特有のざらりとした手応えが一切返ってこない。
琴音は不審に思い、眉をひそめた。
財布の口を両手で無理やり押し広げ、暗い内部をじっと覗き込む。
茶色い合皮の底が見えるだけだった。一万円札どころか、野口英世の姿すらそこにはない。
嫌な予感を覚えながら、彼は財布を逆さにして畳の上へと振った。
かさりと乾いた音を立てて、一枚の十円硬貨が転がり出た。畳の目の上で数回不規則に回転し、力尽きたようにパタリと止まる。その後を追うようにして、三週間前の日付が印字された、端の丸まったレシートの切れ端が滑り落ちてきた。
それだけだった。
琴音の思考が、数秒間、完全に停止する。
目の前に突きつけられた、あまりにも無慈悲で容赦のない現実。彼は瞬き一つせず、畳の上に転がった十円玉を凝視し続けた。
薄暗い室内には、再び元の静寂が戻ってくる。
「……は?」
声にならぬ声を漏らし、彼はもう一度財布のナカを覗き込んだ。
それから、視線を床の十円玉へと戻す。
もう一度財布を開く。二度確認したところで、布の隙間から奇跡的に千円札が湧き出してくるわけもないのに、彼は執拗にその作業を繰り返した。もちろん、結果が覆るはずもない。底は綺麗に払底していた。
琴音は完全に脱力し、その細い肩をがっくりと落とした。
「マジか……終わったわ」
ここ数週間の、自らの杜撰な収支報告を脳内で逆算してみる。
先月の家賃の支払い。
買い溜めしておいたはずの即席麺の消費。
夜中に口寂しくなって貪ったポテトチップス。
ゲームをしながら煽った炭酸飲料。
そして――別に発売日に買わなくてもよかったはずの、ひいきの漫画の最新刊。
計画性という概念を母親の胎内に置き忘れてきた結果、彼の僅かな貯蓄は、自覚のないまま文字通り綺麗さっぱり食いつぶされていた。
琴音は畳の上に崩れるようにして、シミの浮いた壁に背中を預けた。
焦点の定まらない目で、雨漏りの跡が複雑な模様を描く天井を見つめる。
『労働』
社会を構成する有為な人間なら誰もが通るその二文字が、脳裏を過った。
しかし、彼は間髪入れずに、首を左右に激しく振った。
「いや、無理。絶対に無理」
自己防衛の本能が、あまりにも早すぎる拒絶を弾き出す。
働くということは、目覚まし時計の不快な音で無理やり叩き起こされるということだ。
見ず知らずの他人に愛想笑いを振り撒き、理不尽なシステムに頭を下げなければならないということだ。
そして何より、最も忌避すべきで、想像するだけで吐き気がする事実は――
明日も、その次の日も、同じようにその地獄へ通い続けなければならない、ということだった。
そんな生活を想像するだけで、生きる気力そのものが根こそぎ削ぎ落とされていくのが分かった。
だが、彼の高潔(あるいは怠惰)なプライドを嘲笑うように、胃袋が再び鳴った。
今度は、先ほどよりも一段と大きく、切実な質量を伴った轟音だった。
ぐるるる、と、内臓が悲鳴を上げる。
琴音は両手で顔を覆い、深く、長い溜息を吐き出した。
「このままだと……本当に餓死体で発見されるやつじゃん、これ」
彼は肺の底にある空気をすべて吐き出し、ようやく顔を上げた。
再び、視線が狭い部屋の混沌を這う。
黄ばみかけた漫画の山。
潰れた段ボール箱。
ラベルの剥がれかけたペットボトル。
そして、彼の視線は、部屋の最奥の隅でピタリと止まった。
埃をかぶった段ボールの影に隠れるようにして、一本の古い釣竿が立てかけられていた。
数年前に他界した祖父が遺した、手入れの行き届いていない安物だ。グリップのコルクは黒ずみ、プラスチックのリールには薄い埃の層が堆積している。
琴音は、その忌々しい遺品を長いこと見つめ続けた。
それから、重い外套を羽織るような足取りで、ようやくその温かい煎餅布団の城から這い出た。
「……少なくとも、魚は履歴書も面接も要求してこないしな」
釣竿を手に取り、手のひらでパンパンと埃を払う。油の切れたリールを回すと、ギチギチと不快な金属音が四畳半に響いた。
その日、琴音は数ヶ月ぶりという単位で、自らの絶対防衛圏の外へと一歩を踏み出した。それは新しい漫画を買うためでも、深夜のコンビニにスナック菓子を買いに行くためでもない。
彼は、忌々しい外界の太陽の下、川の土手へと向かっていた。
勤勉さに目覚めたわけでもなければ、突然自然の美しさに心動かされたわけでもない。
ただ単に、彼の薄い革財布の中に、これ以外の選択肢が「実質的に」残されていなかったからに過ぎない。




