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原稿用紙 ~ ギルド受付嬢の新しい暮らし  作者: 橘
描かれざる世界へ

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第38章 交差する視線

 時間の針はただ平坦に回り続け、茜が再びあの「視線」と巡り合うまでに、そう多くの日は必要なかった。

 最初、その男の存在は彼女の意識の網の目から完全にこぼれ落ちていた。その日の午前中、カフェの店内はほとんど同時に押し寄せた客の波によって、にわかに騒がしくなっていたからだ。磁器のカップにスプーンが当たる金属音と、床板を引きずる椅子の軋みが行き交う。茜は注文のメモを取り、次のテーブルへトレイを運ぶ作業に追われ、ドアをくぐってくる客の顔をいちいち確認する余裕などなかった。

 彼女の思考に冷水が浴びせられたのは、窓際の席にブレンド珈琲を運んでいったときだ。

 そこに座っていた若い男の横顔を見た瞬間、唐突な既視感が胸の奥を突いた。よく来る常連のサラリーマンではない。かといって、昔の友人でも知り合いでもなかった。

 茜はトレイを抱えたまま、テーブルの脇で数秒間だけ足を止めてしまった。記憶の引き出しを乱暴にかき回す。次の瞬間、本能的な衝動に駆られて、彼女の視線はフロアの隅にある薄暗い木製ラックへと向かっていた。

 頭の中で、バラバラだったパズルの破片が一つの絵を結んだ。数日前、自分の魂の切れ端を紙袋に入れて持ち去った男。私の本を買っていった、あの最初の客だ。

「あ……」

 小さな声が、無意識に唇の間から漏れた。

 そのかすかな息遣いに反応して、男がふと顔を上げた。怪訝そうな視線とぶつかり、茜は我に返って慌てて首を振った。そして、顔の筋肉を無理やり動かして、営業用の愛想笑いを作る。

「失礼いたしました。ごゆっくりどうぞ」

 磁器のカップを慎重にテーブルへ置くと、彼女は逃げるように身を翻してカウンターの裏へと戻った。


 身体はいつものルーティンワークに従って動いていたが、視線の行方だけはどうしても制御できなかった。ダスターを絞り、焼き菓子のガラス瓶を並べ替える合間に、彼女の目はどうしても窓際の席へと向かってしまう。

 男の様子に不審な点は何もなかった。ただ一人で静かに椅子に腰掛け、定期的にカップに口をつけ、時折スマートフォンの画面を眺めているだけだ。何か特別な目的を持ってこの店に居座っているようには見えない。

 茜はそんな自分に呆れはじめていた。ただの自意識過剰だ。一度見かけただけの他人の顔を、無駄に記憶していただけに過ぎない。だいたい、世の中に数多く存在する「本を買う人間」の顔を、自分のような無名の新米作家がいちいち覚えているなんて、どうかしている。

 しかし、そんな彼女の冷めた推測は、数十分後に男が席を立ったことで覆された。店を出るのだろうと茜は思ったが、男の足は出口ではなく、あのフロアの隅にある小さなラックへと向かったのだ。

 近くのテーブルを拭く振りをしながら、茜は盗み見を続けた。男は棚に並ぶ背表紙の列を品定めするように眺め、やがてその指先を止めた。そして、一冊の本を抜き出した。

 茜の心臓が冷たく跳ねた。見間違えるはずのない、自分の本だ。

 最初に来たときとは違い、男はページをめくろうとはしなかった。ただ立ち尽くし、表紙のイラストをじっと見つめている。その表情の意図は読み取れなかった。

 うなじのあたりに、じっとりとした不快感が這い上がってくる。男が何か悪いことをしているわけではない。ただ、茜の頭の中に処理しきれない疑問の渦が湧き起こってしまったのだ。

 あの男は、本当に最後まであの文章を読んだのだろうか。それとも、この前買ったのは単なる同情か、あるいは店内のインテリアに雰囲気が合っていたから気まぐれで手を伸ばしただけなのか。そんなことは読者の勝手であり、著者が立ち入るべき領域ではない。そう自分に言い聞かせて思考を打ち切ろうとするほど、好奇心は容赦なく彼女の脳裏を支配していった。

 男がその本を手に持ったままレジカウンターへ歩いてきたとき、茜の思考は強制的に中断された。彼女はカウンターの裏で背筋を伸ばした。

「こちらの本でよろしいですか」

 できるだけ事務的な、平坦な声を意識する。

「ええ」

 男は短く答えた。茜が会計を進めようと手を伸ばしかけた瞬間、男が言葉を足した。

「でもこれ、もう持ってるんですけどね」

 茜は思わず顔を上げ、男の目を正面から見据えた。「持っている?」

「ええ」

 二人のあいだに、奇妙な静寂が数秒間だけ流れた。

「あ……」

 茜の喉の奥から絞り出されたのは、それだけだった。本を受け取ろうとしていた両手が、宙で不自然に止まる。

 男の口元に、微かな笑みが浮かんでいた。

「数日前、ここで買いましたから」

「……あ」

 頭の中を覆っていた霧が、完全に晴れた。あの日の緊張、紙袋を小脇に抱えて夜の闇に消えていった後ろ姿――すべてがこの男という実在の前に収束していく。この男は、間違いなく彼女にとっての「最初の読者」だった。

 木目の天板の上にぽつんと置かれた本を見つめながら、茜の理性はブレーキを踏み損ねた。気づいたときには、言葉が口から滑り落ちていた。

「……最後まで、読まれたんですか」

 問いかけた瞬間に、猛烈な後悔が押し寄せた。あまりにも不躾で、客のプライベートに踏み込みすぎた質問だ。幸いにも、男の顔に不快そうな色は浮かばなかった。

「読みましたよ」

 男は淡々と言った。

「そうですか……」

 茜は小さく頷き、暴れそうになる心臓をどうにか宥めた。

 接客の常識で言えば、会話はここで打ち切られるべきだった。男は背を向けて去り、茜は自分の仕事に戻る。それが正しい。しかし奇妙なことに、二人ともその場から動こうとしなかった。男はカウンターの前に佇み、茜は気まずい沈黙の中で立ち尽くしていた。

 やがて、男が低い声でその沈黙を破った。

「結構、面白かったです」

 茜の思考が停止した。自分の意識が一瞬だけ、肉体から数センチほど後ろにズレたような感覚だった。

「……ありがとうございます」

 蚊の鳴くような声で応じるのが精一杯だった。それ以上の適切な言葉が見つからなかった。

 カフェの店員として働いているあいだ、客から料理や接客を褒められることならいくらでもあった。「恐れ入ります」「励みになります」といった定型句なら、脳を通さずに口から出すことだってできる。

 しかし、今耳に届いた言葉は、彼女が淹れた珈琲の味に対するものでも、器用な手際に対するものでもなかった。自分の狭い六畳間で、身を削るようにして原稿用紙に叩きつけた魂の残骸――それに対する評価だった。その事実は、アルバイトの初出勤の日よりも遥かに強い緊張の波を彼女にもたらした。

「どの部分が……その、一番良かったですか」

 第二波の後悔が茜を襲う。なぜ自分はここで、文芸批評家を問い詰めるような真似をしているのだろう。

 男も、店員の突然の追及に少し驚いたようだった。眉の間にわずかな皺を寄せ、記憶を辿るように視線を泳がせる。「そうですね……」男は適切な言葉を探すように間を置いた。「二人が、一緒に暮らすことを決めるあたりですかね」


 茜の呼吸が、喉の途中で止まった。

 二人が。男は「そのエピソード」とか「あの場面」といった三人称の指示代名詞を使わなかった。「二人」と言ったのだ。それは、茜の脳内で生まれたあの記号の塊たちが、この男の頭の中では血の通った人間として息づいているという、何よりの証拠だった。

 男が表紙の絵や裏表紙のあらすじをなぞっただけでなく、頁の裏側に広がる世界へ確かに足を踏み入れ、そこに滞在していたのだという確信。それはこれまで、茜一人だけが隔離されていた世界だった。

「どうしてですか」

 茜はさらに重ねていた。もはや気恥ずかしさよりも、純粋な好奇心が勝っていた。

 若い男は少し首を傾げ、可笑しそうに茜を見た。「どうして、そこが好きなのかって?」

「はい」

「さあ」男はうなじを軽く擦った。「なんていうか……普通だったからですかね」

 茜の眉が不審げに寄った。感情を隠しきれない。「普通、ですか」

「ええ」男は短く笑った。飾りのない、乾いた笑い声だった。「悪い意味じゃなくて。その普通なところが、すごく綺麗だと思ったんです」

 茜は黙り込んだ。男の口にした矛盾する言葉の意味を、論理的に噛み砕こうとする。男はそのまま言葉を続けた。

「前半にあれだけ大きな事件が起きて、緊張感が続いていたから、このまま最後まで高いテンションで押し切る話なのかと思ってたんです。でも、違った。二人の生活のテンポが急に遅くなって、なんてことのない日常のやり取りが始まるじゃないですか」男は視線を戻し、茜の目をまっすぐに見つめた。「だから、すごく腑に落ちたんです」

 茜は言葉を失った。彼女の意識は、その場面を執筆していた数ヶ月前の夜へと引き戻されていた。

 朝食のメニューに関する他愛のない会話、家事の役割分担を巡るささやかな口論、静かな部屋での夕食の風景。物語の大きなプロットを動かすわけでもない、地味で平坦な描写の連続。深夜、彼女は何度も不安に駆られていた。こんな世間話のような描写が延々と続いて、読者は退屈しないだろうか。独りよがりの無駄なページとして、削ってしまった方がテンポが良くなるのではないか、と。

 その、かつて自分が最も疑い、切り捨てようとしていたはずの断片を、目の前の見ず知らずの他人が「一番心に残った」と言っているのだ。

「……そうですか」

 茜の顔に、今度は取り繕うことのない自然な笑みが浮かんだ。「ありがとうございます。嬉しいです」

「正直、最初はもっと違う方向に行く話だと思ってました」男は少し調子を緩めて言った。

「違う方向?」

「もっとこう……」男は手元で何かを形作るように指を動かした。「よくあるファンタジーというか、ヒーローものみたいな」

 茜はくすくすと声を立てて笑った。「それは……遠回しな批判ですか?」

「まさか。的外れな褒め言葉ですよ」男は素早く言い返した。

「どういうことですかそれ」

「さあ、僕にもよく分かりません」

 二人の笑い声が重なり、カウンターを隔てていた見えない壁が少しだけ薄くなった。会話はひどく世俗的だった。文学的なナラティブの構造論もなければ、インスピレーションの源泉に関する高尚な質問もない。サインをねだるようなお決まりの儀式もなかった。

 それはただ、自分の素性を隠した作り手と、その世界にたまたま触れた一人の人間との、他愛のない立ち話に過ぎなかった。

 それでも、茜の胸に残る残響はどこまでも非日常的だった。これまで彼女は、完全な静寂の中で言葉を紡いできた。誰がそれを読むのか、具体的なイメージなど持ったことはなかった。

 頭の中で「想像上の読者」を捏造することはできた。一般的な反応を予想し、どの章が好まれ、どの描写が飽きられるかを計算することはできる。けれど、それはすべて机の上の空論であり、ただの独り言に過ぎない。

 今、彼女の目の前には、肉体を持った生身の人間が立っている。そして、最終頁を閉じた後に覚えた感情の揺らぎを、剥き出しの言葉で伝えてくれている。この経験は、これまでのどんな机上の推敲よりも圧倒的に生々しかった。

 男は席に戻って荷物をまとめるために会釈をし、茜もまた、中断されていたカフェの雑務へと意識を引き戻した。しかし、集中力は完全に散逸していた。彼女の精神は、現実のルーティンへと完全には帰還しようとしなかった。

 その日の午後、彼女の脳裏には男の言った言葉が何度もリフレインしていた。――二人が、一緒に暮らすことを決めるあたり。


 執筆している間、茜はその場面を特別な名場面だと思ったことは一度もなかった。それは物語の時系列において、ただの論理的な繋ぎのパーツに過ぎなかったのだ。主人公のシーナは、まったく馴染みのない異世界に放り出される。そこに、不器用だが根は善良なミナミが手を差し伸べる。

 そして二人は、一つの屋根の下で暮らすことを選ぶ。そこから先は、ただの生活だ。血の流れるような決闘もなければ、世界の命運を賭けた大戦もない。世界の歴史を揺るがすような奇跡など何ひとつ起きない。

 しかし、見ず知らずの他人がその描写の奥深くまで潜り込み、そこに自分だけの価値を見出していった。その瞬間、茜は自分が生み出した世界が、他人の頭の中でどう解釈され、どう変容していくのかについて、自分がどれほど無知であったかを思い知らされた。

 太陽が天頂を過ぎた頃、あの若い男が再びカウンターへと歩いてきた。今度はジャケットを肩に引っ掛けており、店を出る準備が整っていることを示していた。

「珈琲、ごちそうさま」男は言った。

「ありがとうございました。お気をつけて」茜はトレイを片付けながら応じた。

 男は背を向け、二歩ほど歩いた。しかし、何か言い忘れたことを思い出したように足を止め、振り返った。「ああ、そうだ」

 茜は顔を上げた。「はい?」

「実は、中盤の章で、どうしても気になるところがあって」

「どこですか」茜は思わず身を乗り出した。好奇心がまた頭をもたげる。

 若い男はすぐには答えなかった。ただ、少し含みのある笑みを浮かべただけだ。「また今度、機会があれば」

 茜は不満げに眉を寄せた。「なんで今じゃないんですか」

「今言っちゃうと、次の楽しみに取っておけないじゃないですか」男は軽口を叩いた。

 茜が反論する間もなく、男は短く手を振ると、そのまま出口のドアへと向かった。ガラスのドアが開き、真鍮のベルが店内に甲高い音を響かせる。数秒後には、男の姿は外のアスファルトを行き交う雑踏の中に消えていた。

 茜はカウンターの裏で、完全に閉まったドアを見つめたまま立ち尽くしていた。


「気になるところがある」

 その言葉自体は、何の修飾もない単純なものだった。しかしどういうわけか、その文字列は彼女の耳の奥にこびりつき、離れようとしなかった。

 茜はゆっくりとカウンターの裏から出て、少しだけ温かみを帯びて感じられるフロアの隅のブックラックへと歩み寄った。自分の本は、相変わらず静かにそこに並んでいる。彼女は手を伸ばし、指先でその一冊の背表紙をそっとなぞった。

 これまで彼女は、最後の原稿用紙のマス目を埋め、本が印刷されて書店に並んだ時点で、作家としての仕事の大部分は終わるものだと思い込んでいた。それは完全な誤解だった。

 物語の本当の旅は、本が自分の手を離れ、外の世界へ放たれた瞬間に始まるのだ。誰かがそれを読み、自分とは異なる視点で意味を解釈し、作者自身さえ見落としていたような細部に愛着を抱き、そして作り手自身が想像もしなかったような新しい問いを生み出していく。

 茜は指を離し、エプロンのポケットに深く突っ込んだ。

「どこだよ、一体……」

 静かなラックに向かって低く呟いてみる。

 当然、本は何も答えない。ただの紙とインクの束が、彼女の視線を受け止めているだけだ。

 茜は再び身を翻し、午後の仕事の続きへと戻っていった。けれど、その瞬間から、あの背表紙の列と視線が合うたびに、彼女の胸の奥にはこれまでと違う種類の感覚が静かに満ちていくようになった。

 生まれて初めて、彼女は「自分が何を書きたいか」という内省的な問いから解放されつつあった。自分が紡いだ言葉の檻の向こう側で、他人がどんな新しい世界を発見し、読み解いているのか。その広大な未知に対して、彼女は今、静かな畏敬の念を抱き始めていた。


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