第39章 未完の領域
レジカウンター越しに交わしたあの短い立ち話から、日を追うごとに、茜の頭の中はある一つのフレーズに占領されていった。
言葉自体は、何ひとつ大層なものではない。むしろその逆で、ありふれた単語をただ軽口の延長として放り投げただけのものだ。
――中盤の章で、どうしても気になるところがあって。
その一言のせいで、茜は四六時中、男の言う「気になるところ」の正体をあてどなく推測する羽目になっていた。あるときはトレイを抱えてフロアを歩いている最中に、あるときは深夜の帰り道を一人で歩いているときに。一度などは、風呂場で髪を洗っている最中に、その疑問が唐突に脳裏を掠めて泡を流す手が止まった。
一体、どこのことだろう。ミナミに関する描写だろうか。それとも、リカが登場するあの場面か。まさか、シーナが元いた世界の背景設定のことだろうか。あるいは、書き手である茜自身が、まったく無意識のうちに書き飛ばしてしまった何らかの歪みなのだろうか。
どれだけ脳細胞を絞っても、答えが出るはずもなかった。結局のところ、彼女はそれ以上深く考えるのをやめることにした。読者には読者の、物語の受け取り方というものがある。作者だからといって、他人の頭のネジの回転をすべて把握できると思うのは傲慢だ。それでいいし、それが普通なのだ。少なくとも、茜はそうやって自分を納得させ、胸のざわつきを抑え込もうとしていた。
その日の昼下がり、件の男がまたやってきた。
両手に二つのマグカップを乗せたトレイを運んでいた茜は、ドアベルが鳴った瞬間にその横顔を捉えた。
「いらっしゃいませ」
営業用の丁寧な笑みを向けると、若い男は小さく上品に会釈を返し、いつもの窓際の席へと歩いていった。今回は、茜も必要以上に彼を目で追うような真似はしなかった。彼の存在に少しずつ慣れてきたというのもあるし、少なくとも「最初の読者」の前で自意識過剰な醜態を晒したくないという防衛本能が働いていた。
二時間ほどが過ぎ、ランチタイムの波が引いて店内に穏やかな隙間ができた頃。男が空になったカップを手に、レジカウンターへと歩いてきた。
「今日は少し、のんびりした空気ですね」
男がトレイにカップを戻しながら、何気ない調子で話しかけてきた。
茜は誰もいない客席を見渡した。「ええ、いつもより一段と静かです」
「良かったじゃないですか。少しは息が抜ける」
「まさか。お客さんみんなにそう思われたら、この店、明日には潰れて別の意味で息が抜けなくなっちゃいますよ」
茜が冗談めかして言うと、男は低く笑い、茜も釣られて口元を緩めた。こういう他愛のない世間話のほうが、自分の書いた本の中身について解剖されるよりも遥かに気が楽だった。今日の天気のこと、客足の気まぐれな波、新しくメニューに加わった焼き菓子のこと。数分後には綺麗さっぱり忘れてしまうような実のない会話が、二人の間を滑り落ちていく。
しかし、男が席に戻ろうと半歩身を引いたとき、その動きが不自然に止まった。「ああ、そういえば」
茜は男の目を見た。「はい?」
「この前、言ってた件なんですけど」
すぐに察しがついた。あの、喉に刺さった小骨のような疑問の件だ。「……思い当たる節、ありましたか」
「少しだけ」男は微かに微笑んだ。
「少しだけですか」
「ええ」
茜は好奇心の突沸を隠すように、硬い笑みを作った。「一体、どこのことですか」
男はほんの数秒、記憶のページをめくるように視線を泳がせた。それから、ひどく簡潔な単語を口にした。「主人公です」
茜の眉が動いた。「主人公?」
「シーナっていう、あの女の子」
心臓の歯車が、一瞬だけ噛み合わせを外したような感覚があった。無論、ただの気のせいだ。しかし、彼女の身体は確かにその場に数秒間、硬直していた。
「シーナが、どうかしましたか」
茜の声は、自分で思っているよりも少し低く、固かった。
男は店員の突然の真剣な表情に気圧されたのか、少し意外そうな目を向けた。「いえ、大したことじゃないんです」
「大したことじゃないって、何ですか」
「ただの疑問ですよ」男は少し間を置いてから、茜にとって完全に想定外の問いを投げかけてきた。「あの子、本当に元の世界に帰りたくないのかな、と思って」
茜は言葉を失った。
周囲の環境は何ひとつ変わっていなかった。他の席から漏れるかすかな話し声、スプーンが触れ合う陶器の音、奥の厨房から漂うトースターの香ばしい匂い。カフェのルーティンはいつも通りに駆動している。
しかし茜の耳からは、数秒間のあいだ、すべての雑音が遠ざかっていった。目の前の客をただ凝視したまま、思考のキャンバスが真っ白に染まっていく。その質問はあまりにも単純で、初歩的なものだった。それなのに奇妙なことに、茜はその答えを一切持っていなかった。
男は、茜が自分の問いの意図を測りかねて沈黙しているのだと思ったのだろう。急かす風でもなく、辛抱強く次の言葉を待っている。
茜は何かを言い出そうと唇を開きかけたが、喉の筋肉が使い物にならなかった。彼女の意識は、自分が夜を徹して書き殴った原稿の束へと一瞬で飛び火していた。
シーナが東京の片隅に漂着した、あの最初の夜。ミナミとの、酷く不器用でぎこちない出会い。古びたアパートの一室で、身を寄せるようにして始まった同居生活。シーナが少しずつこちらの世界の生活リズムに馴染み、アルバイトを始め、リカと出会い、何でもない日常の些細な出来事を消費していくプロセス。
そのすべての場面とセリフを、茜は自分の手で、苦心しながら組み立てていった記憶がある。シーナがこの日本の、東京という街でそれなりに居心地よく暮らしているように見えるよう、細心の注意を払ってペンを動かしたはずだった。
けれど、執筆中の数ヶ月間、ただの一度も自分自身に問いかけたことのない領域がそこにあった。
――シーナ自身は、自分が置き去りにしてきたあの世界に対して、本当は何を思っていたのだろうか。
茜には分からなかった。彼女はシーナの「現在」を描くことに手一杯で、そのキャラクターが背負っているはずの過去や、生まれ故郷という器に対して、あまりにも無関心だった。作中のシーナを、失われた故郷を思って夜な夜な涙を流すようなセンチメンタルなキャラクターとしては描かなかった。その手落ちとも言える事実が、書き手としての茜の土台を静かに揺さぶり始めていた。
「どう思います?」
男の穏やかな声が、茜の思考の回路を現実へと引き戻した。
茜は小さく肩を揺らし、瞬きをした。「え……何がですか」
「いや、ただの読者の思いつきです」男は自嘲気味に繰り返した。
茜は男の顔をじっと見つめた。もしここで営業用の模範解答を作るだけなら、いくらでも言葉は捏造できた。シーナはこちらの世界での暮らしが気に入っているからだとか、ミナミの側にいることに安心感を覚えているからだとか、あるいは、元いた世界に二度と振り返りたくないほどの暗い過去があるからだとか、それらしい理由は一瞬でいくらでもでっち上げられる。
しかし、それはすべて表面的なお飾りの嘘だ。作中のシーナという人格が、心の底で抱いているはずの「本物の感情」だという確信が持てない。自分が頭の中から捻り出したはずのキャラクターについて語ることが、これほど不快で、恐ろしいことだとは知らなかった。
「……どうなんでしょうね」
結局、茜の口から漏れたのは、ひどく苦い笑みを伴った誤魔化しのセリフだけだった。
男はまだ、その先を促すように彼女を見つめている。
茜は一度、木目の天板に視線を落とした。それから、もう一度まっすぐ男の目を射すように見上げた。「……逆に、あなたはどう思ったんですか」
予想外の逆質問に、男は不意を突かれたように小さく吹き出した。「おかしな人ですね。僕が先に訊いたのに、質問をそのまま返されるなんて」
「それもそうですね」茜も薄く笑ったが、その笑みはすぐに消えた。
男は少しトーンを落とし、真面目な声で言った。「僕の個人的な感覚ですけど……多分、彼女は帰りたかったんじゃないですかね」
茜は息を呑んだ。
「どんな場所であれ、そこが彼女のホームだったわけですから」男は静かに続けた。
ホーム。故郷。
耳慣れた、ありふれた単語だ。しかしどういうわけか、その日の茜の鼓膜には、その言葉が鉄の塊のように重く響いた。これまでのどんな鋭い指摘よりも、深く刺さったような気がした。
茜はただ、操り人形のように小さく首を縦に振ることしかできなかった。「……そうかもしれませんね」
男はそれ以上追及することなく、満足したように短く会釈すると、荷物をまとめるために席へと戻っていった。男にとって、それはただの珈琲ブレイクの合間の、他愛のない雑談の一つに過ぎない。しかし茜にとっては、その質問がもたらした波紋の広がりこそが、本当の始まりだった。
彼女はレジカウンターの裏に立ち尽くしたまま、急に色彩を失ったかのように見知らぬ空間に変貌したカフェのフロアを、ただ呆然と眺めていた。
帰りたい。その四文字が、胸の奥で何度も何度もリフレインする。シーナは本当に、あの世界へ帰りたがっていたのだろうか。
茜はその答えを頭の中で描こうとしたが、筆先が完全に固まってしまったかのように、思考のキャンバスには何も浮かんでこなかった。自分が生み出したはずのキャラクターが、急に遠い異国の他人のように思えてならなかった。
茜の視線は、吸い寄せられるようにしてフロアの隅のブックラックへと向いていた。カウンターの裏からでも、見慣れた本の表紙ははっきりと視認できた。これまで何百回、何千回と網膜に焼き付けてきたデザインだ。しかし奇妙なことに、その日の昼下がり、その見慣れたはずの物体は、まるで得体の知れない異物のように彼女の目に映った。
茜は導かれるようにしてカウンターの外へ出ると、ゆっくりとした足取りでラックへ近づいた。中段の棚から一冊を抜き出し、焦燥感に突き動かされるようにして最初のページをめくる。
紙の上に「シーナ」という文字が並んでいる。茜が自分の頭の中から絞り出した世界の中で、その記号は確かに生きていた。彼女は貪るようにして段落を追い、頁をめくる指を速めた。シーナとミナミが初めて出会ったあの夜の描写、その後に続く二人の生活のさざ波。自分がかつて苦心して配置した言葉のパーツは、すべてそこにあるべき姿で整然と収まっている。
しかし、読み進めれば進めるほど、その物語の底板にぽっかりと開いた、巨大な空白の存在が浮き彫りになっていった。
シーナがかつて暮らしていた、元の世界。
それは単なる物語の味付けのための、通り一遍の背景設定などではなかったはずだ。運命という暴力によって理不尽に引き剥がされる前、その少女にとって間違いなくそこは、唯一の「ホーム」だったのだ。
茜は静かに本を閉じた。
「……私、一回も考えてなかったんだ」
静まり返った店内の空気に、掠れた呟きが溶けていく。それは彼女の意思とは無関係に、唇の間からこぼれ落ちた白白とした告白だった。
手の中にある本の重みを、茜は呆然と見つめていた。これまで彼女は、シーナというキャラクターのすべてを誰よりも理解しているつもりでいた。自分が彼女の骨格を作り、血を通わせ、物語のレールを敷いたのだから、当然だと思い込んでいた。
しかし今日、見ず知らずの他人が放ったたった一言の素朴な疑問によって、彼女が築き上げてきた書き手としての全能感はあっけなく瓦解した。自分が産み落としたはずの主人公が、本当は何を望み、何を失って立ち尽くしているのか、自分自身が何も掴めていなかったという無様な現実を、彼女は突きつけられていた。
もし、作者である自分自身がキャラクターの心の拠り所を見失っているのだとしたら、私はこれまで、一体誰の、何のための物語を書いていたのだろうか。
茜は本を元の位置へと戻した。ラックの木目に背表紙が収まった後も、彼女の手のひらはしばらくのあいだ表紙の上に留まっていた。未練を断ち切るように、ゆっくりと指を離す。
耳の奥で、あの若い男の声が何度も木霊していた。
――あの娘、本当に元の世界に帰りたくないのかな。
今の茜には、自分の傷ついたプライドを慰めるための安易な言い訳を探し回る気力は残っていなかった。彼女はただ、午後の光が斜めに差し込むラックの前で、静寂に身を委ねていた。
生まれて初めて、彼女は理解したのだ。自分が原稿用紙の上に書き出してきた世界の裏側には、まだ言葉にされていない、途方もなく巨大な「描かれざる領域」が眠っているのだということを。そして、本当の意味での新しい物語は、今日の昼下がりに投げつけられたあのあまりにも無垢な問いかけの場所から、ようやく産声を上げるのかもしれない、と。




