第37章 読まれはじめた本
ここ数週間のあいだに、何かが静かに変わりつつあった。それはあまりにも微かな変化で、最初はただの見落としだと思っていた。
茜がそのことに本当の意味で気づいたのは、よく冷え込んだある朝のことだ。手元のバインダーに挟まれた、月次の販売報告書。その数字の列を追っていた指先が、ふと止まった。
売上部数の数字が、またひとつ動いている。
増えたのはほんの数冊だった。昨日の数字と見比べなければ、おそらく見過ごしてしまうような僅かな違いだ。通りすがりの他人が見れば、取るに足らない端数にしか映らないだろう。茜自身、その小さな上積みを「成果」と呼んでいいものかどうか、しばらく迷ったくらいだ。
それでも、彼女の目は長いあいだ、その一点に釘付けになっていた。
印刷された数字の表面を、人差し指の腹でそっとなぞってみる。上から下へ視線を走らせ、もう一度最初から見直した。目の錯覚ではない。誤植でも、集計の手違いでもなかった。自分の視界の届かないどこか遠くで、誰かが小銭を払い、自分が夜を徹して紡いだ言葉の連なりを家に持ち帰ることを決めたのだ。
茜は事務椅子の冷たい背もたれに、ゆっくりと体重を預けた。
「……まあまあじゃん」
誰もいない六畳間の静寂に向かって、低く呟いてみる。
それだけだった。歓声を上げて飛び跳ねるような高揚感はどこにもない。スマートフォンの画面を叩いて、誰かにこの報告を自慢しようとも思わなかった。不思議なもので、あの手元の原稿が印刷所を経て一冊の「本」という形になってしまうと、そこに記される数字はどこか現実味を欠き、自分とは無関係のデータのように思えてしまう。
初めて数字が動いたのを見たときは、確かに胸の奥がちりりと爆ぜるような喜びがあった。けれど、その直後には決まって、出所のわからない薄暗い不安が這い上がってくる。本当に間違いないのかと何度も画面をリロードし、自分の運の良さを疑い、そうしているうちに、ただ時間が過ぎて感覚が麻痺していった。
日を追うごとに、数字は足元を確かめるようにして、一段ずつ上がっていった。
それは誰かの記憶に名前を刻み込めるような規模ではないし、一夜にして自分の冴えない生活をひっくり返してくれるような劇的なものでもない。それでも、その小さな歩みは、茜が心のどこかで維持し続けていた言い訳を木端微塵にするには十分だった。――この本は確かに生きていて、今、誰かに読まれている。見ず知らずの他人が、自分の切り売りした感性を買い取っていったのだ。
茜はバインダーを閉じた。時計の針はすでに午前九時を回っており、冬の薄い陽光が窓枠を白く縁取っている。これ以上数字を睨みつけていても、今日の分の家賃が免除されるわけではない。彼女は立ち上がり、姿見の曇った鏡の前で跳ねた髪をいくつか手櫛で直すと、コートを羽織って部屋を出た。
日常のルーティンは、何ひとつ変わっていなかった。そして、その変わらなさこそが、茜にとっては最初の違和感だった。
本が正式に世に出る前、彼女はよく、自分の生活に何か大きな変化が訪れるのではないかという他愛もない空想を膨らませていた。大層なものでなくていい。毎朝目を覚ましたときに覚えるかすかな充足感だとか、あるいは「私は作家だ」と胸を張って言えるような、ささやかな自信の拠り所のようなもの。
しかし現実は、相変わらず寒くて眠いだけの朝だった。トーストに塗る安物のジャムの味も同じなら、駅までの薄暗い道を足早に歩く歩調も同じだ。生活費を稼ぐためのアルバイト先であるカフェには、いつも通りの見慣れた雑務が、彼女の「肩書き」など一顧だにせず待ち構えている。
カチリと音を立てるガラスのドアを押し開けると、ドアチャイムの頼りない金属音が茜を迎えた。焙煎された珈琲の匂いを深く吸い込みながら、彼女はいつも通りエプロンを締め、木製のテーブルをダスターで拭きはじめる。椅子の位置を直し、カウンターの裏の消耗品をチェックする。すべてが判で押したようなリズムの中で動いていた。
その視線が、店内の少し影になった隅に留まるまでは。
小さな、木製のブックラック。
茜の手がピタリと止まった。これまで何百回となく通り過ぎてきた、ただの調度品だ。しかし今朝は、その古びた木目にどうしても視線が吸い寄せられてしまう。中段の棚に、数冊の本が背表紙を揃えて並んでいた。
片手の指で数えられるほどの冊数。ラック自体、客席の動線から少し外れた、照明の届きにくい場所にひっそりと置かれている。「当店スタッフの著作!」といった立て看板があるわけでもなければ、この店でお代わり自由のブレンドを淹れている店員が、自分の内臓を裏返して作ったような言葉をここに並べていると知らせるポップもない。
ただ、茜が嫌というほど見慣れた装丁の本が、そこに静かに佇んでいるだけだ。自分が生み出した、自分の子供のような本。
茜は足音を忍ばせるようにして、そのコーナーへ近づいた。まるで大きな音を立てると、本たちが驚いて逃げてしまうとでも言うように。手を伸ばし、少しだけ斜めに傾いていた一冊の端に触れ、隣の背表紙と平行になるように位置を直す。
「……なんでこんなに、他人のものみたいなんだろ」
声を潜めて呟いてみたが、当然、背表紙の文字は黙り込んだままだ。
茜は数秒間、表紙のイラストを見つめてから、無理やり視線を逸らした。気後れする必要なんてどこにもないはずだ。本は売られるために作られたのであり、見ず知らずの手によって買われないのだとしたら、わざわざインクの匂いをさせて流通させる意味がない。
ただ、茜にとって「書く」という行為は、常に閉じた狭い部屋の中の、ひどく親密な儀式だった。静まり返った深夜、端の剥げかけた学習机、そして耳が痛くなるような静寂。その領域において、彼女は絶対的な独裁者だった。一行書いては消し、気に入らない原稿を丸め、夜明けの光がカーテンの隙間から差し込むまで言葉の辻褄を合わせる。
あの部屋には、自分を覗き込む他人の目は存在しない。批評する読者もいない。少なくとも、実体を持った人間としての気配はどこにもなかった。だからこそ、カフェのラックに収まっているその物体は、自分の机の上に転がっていた束とは、まったく別の生き物のように感じられるのだ。
部屋にある本は、自分だけの秘密だ。しかしここに置かれた本は、すでに自分から切り離され、世界の側へ行ってしまったのだという奇妙な断絶感があった。
「よし、仕事」
小さく息を吐き出して頭の中の靄を振り払うと、茜は再びダスターを握り直した。
午前中の静けさは、十時を過ぎたあたりから徐々に崩れはじめた。ガラスのドアが何度も開閉し、ビジネス街の喧騒が店内に流れ込んでくる。カップの触れ合う音と、せわしない注文の声が重なり合い、茜は注文を捌く作業の中へと埋没していった。店内の隅にある本のことなど、感傷に浸って思い返す余裕はどこにもない。いや、正確には、考えるのを自分に禁じていた。
しかし、ランチタイムのピークが過ぎ、店内に緩やかな午後の空気が戻ってきた頃。一人の客が、その小さなラックの前に足を止めた。
カウンターの奥で磁器のカップをトレイに並べていた茜は、反射的にそちらへ目を向けた。心臓が、嫌な位置でどくりと跳ねる。
客は若い男だった。顔に見覚えはない。うちの店によく来る常連の会社員たちとは、明らかに雰囲気が違っていた。男は退屈そうに背表紙の列を眺めていたが、あるところでその指先を止めた。
茜の本だった。
男はそれを棚から引き抜いた。
茜の脈拍が、にわかに速度を上げる。肋骨の裏側を、硬いもので小突かれているような落ち着かない感覚だ。誰かにナイフを突きつけられているわけでもないし、人生を賭けた大勝負が始まったわけでもない。どうして自分の身体がこれほど過剰に反応しているのか、自分でも説明がつかなかった。
若い男は表紙をめくった。紙が擦れる微かな音が、店内のBGMを突き抜けて茜の耳に届いたような気がした。さらに次のページがめくられる。
茜は慌てて顔を伏せ、すでに何度も拭いてピカピカになっているステンレスのカウンターを熱心に擦りはじめた。覗き見しているのを見咎められるわけにはいかない。そもそも、カフェで客が本を開くなんて、ありふれた光景だ。怪しむ要素など何ひとつない。
それでも、見えない磁石に引っ張られるようにして、数秒後にはまた首がそちらを向いてしまう。男の手には、まだあの本があった。男は本を裏返し、裏表紙に印刷された短いあらすじを、眉の間に少しだけ皺を寄せて読んでいる。それから、また適当な真ん中のページを開いた。
茜は唾を飲み込み、二度目の視線を気まずく遮断した。
「……なんで私が緊張してんだよ、馬鹿じゃん」
声にもならない呟きは、自分の呼吸の音にかき消された。
緊張が限界に達したのは、その若い男がくるりと身体を反転させ、レジカウンターに向かってまっすぐ歩いてきたときだ。その指の間には、あの見慣れた表紙の本がしっかりと挟まれている。この後に続く展開は嫌というほど分かっていたが、実際にその本が自分の目の前の天板にコトリと置かれたとき、茜の胃のあたりは妙に複雑な形に変形したような気がした。
「これ、お願いします」
男はぶっきらぼうに言った。本を指差すわけでもなく、ただ当然の買い物として。
茜は引きつりそうな頬の筋肉をどうにかコントロールして、営業用の笑顔を作った。
「かしこまりました。一冊でよろしいですか」
指先は機械的にレジのキーを叩き、一日に何度も繰り返す合計金額の手続きを進めていく。本の感想を求められることもなければ、「この著者はどんな人なんですか」という質問が飛んでくることもない。男は財布から千円札を出し、トレイに乗せた。茜は小銭とレシートを返し、商品を紙袋に入れる。男は短く会釈した。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
できるだけ声を上擦らせないようにして、茜はマニュアル通りのセリフを返した。
終わりだ。時間にして、わずか一分にも満たないやり取り。それはあっけなく、午後の店内の空気に溶けて消えた。
茜はレジの前に突っ立ったまま、本を小脇に抱えて出口へと歩いていく男の背中を見つめていた。やがて彼女は深く息を吐き、残った仕事を片付けるために身体を動かしはじめた。
だが、ガラスのドアが閉まってから何分が経っても、彼女の意識の半分はさっきの取引の瞬間に置き去りにされたままだった。
私は今、自分の本を売ったのだ。それも、ネットの向こうの数字としてではなく、この手から相手の手へと、直接。
それは、毎月送られてくるあの冷たい報告書の数字を眺めるのとは、まったく質の違う体験だった。折れ線グラフの推移を分析することとも、自分の頭の中で「どんな人が買ってくれているんだろう」と都合のいい想像を巡らせることとも違う。今日、茜は自分の目で見たのだ。生身の人間が、あの小汚いラックから本を手に取り、ページの厚みを確かめ、そして自分の生活の場へとそれを持ち去っていく姿を。
その光景は、ひどく奇妙で、同時に少しだけ現実離れしていた。
こういうとき、作家という生き物がどんな顔をすればいいのか、茜は知らなかった。大喜びすべきなのだろうか。確かに胸の奥には灯火のような嬉しさがある。けれど、その隙間に滑り込んでくる別の感情があった。それはあまりにも平坦で、広すぎて、今の茜の語彙ではまだ名前をつけられない種類のものだ。
おそらく、これまでの茜にとって、その本の中に閉じ込めた物語はあまりにも私的で、自分の内臓の一部のようなものだったからだ。彼女がキャラクターを生み出し、彼らの口から出るセリフをすべてコントロールし、その運命の行き先を決定してきた。途中でプロットが行き詰まり、自分の書いた文章に自分で涙を流すような夜であっても、そのすべての葛藤は、自分の手の届く安全な部屋の中に収まっていた。
しかし、今この瞬間から、その特権は失われたのだ。
本が他人の手に渡った以上、茜にはその先で何が起こるかを知る権利はない。あの男がどの街の、どんな部屋でそのページを開くのか、茜にはわからない。どの行で男の指が止まり、どんな表情をするのかも。彼が作中の人物を気に入ってくれるのか、あるいは、途中で退屈して二度と開かれないまま、本棚の隅で埃を被るだけになるのか。
そして茜は、初めてその「不透明さ」に気づくと同時に、それが決して恐ろしいことではないという事実にも気づきつつあった。むしろ、それこそが物語の本質なのかもしれない、と。
物語というものは、生みの親の脇の下にいつまでも抱え込まれているために作られるのではない。もしそれに命があって、誰かに読まれるべきものなのだとしたら、いつかはこうして、外の世界へと放流されなければならないのだ。
時間はその後も淀みなく流れていった。夕方に近づくにつれ、あの木製ラックの前で足を止める客が他にも何人か現れた。背表紙のタイトルを眺めて通り過ぎる者もいれば、一度手に取ってパラパラとめくったものの、小さく息を吐いて元の位置に戻す者もいた。そして、そのうちの一人か二人は、さっきの男と同じようにレジカウンターまでそれを持ってきた。
その光景が繰り返されるたび、茜はカウンターの裏で完璧な「普通の店員」の仮面を維持しようと必死だった。けれど、彼女の目は騙せなかった。伏せた睫毛の隙間から、彼女は客の手元をじっと観察していた。
何円の印税が入るか、なんていう計算のためではない。もう、そんなことはどうでもよかった。彼女が見ていたのは、他人の指が自分の選んだ紙の質感にどう触れるかであり、その視線がどうやって文字の列を追っていくかだった。そして彼らが、自分の魂の破片を、自分の想像もしなかったような場所へと運んでいくのを頭の中で見送っていた。
西の空の朱色が薄れ、ゆっくりと夜の藍色に塗り替えられていく。カフェの客足はまばらになり、エスプレッソマシンの洗浄をする金属音が店内に響きはじめた。茜が窓際の席をダスターで拭いていたとき、ふと視界の端に、昼間にやってきたあの最初の男の姿が映った。
男はガラスのドアを押し開け、夜の街へと出ていくところだった。
それは本当にただの偶然の構図だった。今日最初のお客が、左手に買い物品の紙袋を下げて、のんびりと店の敷地を離れていく。
劇的な要素なんて何ひとつない光景だ。この過密な都市において、人々が何かを買い、それを持ってどこかへ去っていくなんていうのは、網膜を素通りしていく退屈な日常のコマ送りに過ぎない。それでも、茜の足は床板に張り付いたように動かなかった。彼女は窓際に佇んだまま、透明なガラス越しに、男の背中を静かに追いかけ続けた。
一歩、二歩と、男のシルエットが遠ざかっていく。
やがてその姿は、街灯の鈍い光の下を行き交う群衆の中に紛れ込み、夜の闇に吸い込まれるようにして見えなくなった。
茜はなおも、男の消えた路地の先を見つめていた。あの本はもう、この店にはない。数時間前まではあのラックの二段目に収まっていたし、もっと前には、工場の接着剤の匂いが残る段ボール箱の中にきれいに敷き詰められていた。そしてさらに気の遠くなるほど前には、それはただの頼りない着想として、茜の頭蓋骨の内側にだけ閉じ込められていたものだ。
それが今は、名前も知らない誰かの手のひらの中で、夜の街を移動している。
茜の口元に、ひどく小さく、けれど迷いのない笑みが浮かんだ。
「……行ってらっしゃい」
それは忍び寄る夜の静寂に向けられたものか、あるいは、たった今自分の手を離れて旅を始めた物語への、最初で最後の挨拶だったのか。
ひとつだけ、確信できたことがある。これまで彼女は、あの薄暗い部屋で一人で机に向かうことだけが、物語を自分のものにする方法だと思っていた。けれど、それは間違いだった。物語は最初から、自分の足で歩くために生まれてくるのだ。
そして今夜、茜は生まれて初めて本当の意味で理解した。自分のあの狭い部屋の外には、自分が作り出した世界を静かに受け入れ、ページをめくろうとしている広大な世界が広がっているのだということを。




