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原稿用紙 ~ ギルド受付嬢の新しい暮らし  作者: 橘
物語は始まる

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特別編:キャラクターたちのプロテスト

 その日の夕暮れ時、茜はここ数ヶ月の間ずっと忘れていた、圧倒的に穏やかな時間の停滞の中に身を浸していた。


 ――静寂。


 もう、カッターの角度を確かめるために目を血走らせる必要もなければ、背表紙の糊付けの不均等さに頭を抱えて身悶えする必要もない。作者の都合の良い命令口調を無視して、画面の向こう側で勝手に暴走を始めるキャラクターたちの息遣いに振り回される夜だって、もうとっくに執行を終えて安全に格納された後だった。

 彼女は四畳半の狭いアパートの床の上に直接胡坐をかき、ただの日常の周期に従って、ゆっくりと熱を失っていく磁器のカップの紅茶を穏やかに楽しんでいた。

 トントン、トン。

 不意に、古い木製のドアの表面から、規則正しい確かなノックの音が響いて室内の静けさを短く切り裂いた。

 茜は怪訝そうに細い眉をひそめて、たたきの方角へと声を投げかけた。

「どなたですか?」

 暗闇の廊下からは、何の応答の言葉も返ってはこなかった。

 数秒の沈黙の後、先ほどよりも遙かに頑なな質量を持った打撃音が、再びドアのノブを激しく震わせた。

 トントン、トン。

 茜はカップを天板の上へと下ろし、フローリングの床を踏みしめて玄関へと向かった。内鍵のノブを引き絞るようにしてドアを内側へと大きく押し開くと、そこに直立していたのは、自らの生活圏の中では到底あり得ない組み合わせの、三人の具体的な人間の輪だった。


 しおりちゃん。

 シーナ。

 そして、ミナミ。


 茜は開いた口が塞がらないまま、その三人の生々しい顔の輪郭を交互になぞり続けた。

 何かが根本から間違っている。

 それは、絵空事の境界線をまたいだ三人の登場人物が、現実のたたきの上に車座になって並んでいるからという、そんな次元の驚きではなかった。

 その三人の一対の目の奥に、昨日までの地続きの日常では一度として見たことのない、徹底的に冷徹で、強固な感情の記号が刻まれていたからだ。


 ――不満。


「……あの、一体どうしたのよ、みんなして」

 茜が諦めの混じった声で呟くと言葉の進行は空中ではたと停止した。

 三人の列の先頭に立っていたしおりちゃんが、胸の奥からゆっくりと長い呼吸を吐き出し、至って日常的な、飾り気のないトーンで告げた。

「私たちはね、茜ちゃん。あんたの作り出したこの不格好な運命に対して、正式な抗議の執行を宣言しにきたんだよ」

 茜は何度も瞬きを繰り返した。

「……私に?」

「ええ、そうよ」

 すぐ斜め後ろにいたシーナが、軍務の規律を患ったような硬い足取りで一歩前へと踏み込み、彼女のセリフを力強く遮った。

「私のこれまでの生活のあり方について、作者であるあんたとは、一から十まで徹底的に話し合う必要があるわ」

 ミナミも自らの広い肩のラインを真っ直ぐに立て直し、小さく首を縦に振ってみせた。

「俺だって、言いたい仕事の山はそれこそ星の数ほどあるんだからな」

 茜はもう一度、彼らの真っ直ぐな瞳の奥にある誠実な引力をじっと見つめ、それから自らの狭い四畳半の室内の様子へと視線を落とした。

「……分かったわよ。とりあえず、中に上がってちょうだい。廊下で大声を出すんじゃないわよ」

 三人は狭いたたきでするりと靴を脱ぐと、促されるままに部屋の中央へと歩み寄った。

 茜が静かにドアを閉めたその瞬間、彼女の知性は、これから始まる時間が、自らの精神を極限まで摩耗させる最悪の混乱の連続になるであろうという事実を、完璧に予感していた。


 四人は木目の折りたたみテーブルの周りに、自然な所作で腰を下ろした。

 片側の位置には茜が一人。

 その対面の境界線には、しおりちゃん、シーナ、ミナミの三人が、まるで役所の厳格な審議会のような物々しい規律を保って車座になって座り込んでいた。天板の上には、たった四つの磁器のカップを並べるだけの、そんな貧しい容積の余白しか残されてはいないというのに、室内の空気の密度は、どうしようもないほどの重苦しい緊迫感で満たされていた。

 茜は深くゆっくりと呼吸を整えた。

「よろしい。それじゃあ、一体誰の口から最初の手順をスタートさせるわけ?」

「はい! 私から!」

 しおりちゃんが、畳の上から無邪気に右手を高く掲げた。

 茜は小さく頷いた。

「どうぞ、しおりちゃん」

 ショートヘアの少女は、自らの真っ直ぐな目を茜の瞳へとしっかりと向けた。

「私はね、茜ちゃん。一人の労働者として、どうしても納得のいかない不条理が一つだけあるんだよ」

「何かしら?」

「どうして私のこの一つの肉体の中に、『理香』っていう別の登場人物の役割まで強引に上書きしなきゃいけなかったわけ?」

 茜は言葉を失い、喉の奥が硬く凍りつくのを感じた。

 その詰問の発生は、ある意味では昨日までの執筆のなかで、自らの脳内も十分に予測していたことだった。しかし、いざ生きた人間の唇からその事実を正面から突きつけられると、自らの防波堤は簡単にひび割れてしまうのだった。

「それは……」

 言葉の進行が頓挫する。

 しおりちゃんは諦めの色一滴すら浮かべずに、ただ静かに次の言葉を待っている。茜は喉の奥から、自らの最も不器用な言い訳を引っ張り出してくるしかなかった。

「……だって、お話の展開上、どうしてもあそこの交差点のシーンには、ミナミの日常を外側から観察するための、もう一人の冷徹な目が必要だったのよ」

「そんなの、物語の都合の良い言い分じゃん!」

しおりちゃんは怒りで声を一段と高く弾ませた。

「それはそうだけど――」

「私が訊ねているのはね、茜ちゃん。その過酷な二足の草鞋の労働の役回りに、どうして世界の数ある名前の中から、この私の『しおり』っていう存在が選択されなきゃいけなかったかってことだよ!」

 茜は再び、完璧な沈黙のなかに立ち往生してしまった。

 しおりちゃんは言葉を止めなかった。その声の響きは至って平坦で日常的なトーンを維持していたけれど、その表面の薄い紙の裏側には、彼女の流した汗の分の激しい不満のエネルギーが濃厚に渦巻いているのが、一発で透けて見えた。

「あんたさあ、一日のうちに自分の人格のあり方を別の姿へと何度も切り替えるのが、どれほど私の頭を激しく消耗させるか、一瞥でも考えたことがあるわけ?」

「……」

「お昼の場面ではいつも通りに能天気なしおりを演じさせられてさ」

「……」

「夜の場面になった途端、今度はキリッと引き締まった騎士の理香として唇を動かさなきゃいけない」

「……」

「そうして夜明けが来れば、また何事もなかったかのように喫茶店のレジの前に立って、いつもの笑顔の手続きを実行しろっていうの?」

 しおりちゃんは胸の奥から長い重い吐息を吐き出した。それから、テーブルを激しく叩いた。

「きっついんだよ、本当に! 身体の節々がバラバラになりそうだわ!」

 茜は首を深く項垂れるしかなかった。

「……ごめんなさい、しおりちゃん。私の配慮が足りなかったわ」

「私の不満のリストは、まだ終わってないよ!」

「……ええ、どうぞ。続けてちょうだい」

「私はね、この過酷な二重雇用の対価として、相応の具体的な埋め合わせを要求するわ!」

 茜はハッとして顔を上げた。

「具体的には、どんな形を望んでいるの?」

「さあね、そんなの私の頭の中には一行の答えも用意されてないよ!」

「だったら、どうしてそんな要求を口にするわけ? 答えもないのに」

「だって、私の胸の奥の不満の炎が、今でも限界を越えて激しく燃え上がってるんだもん! ただただ、頭にきてるの!」

茜には、その野生の合理性の前に、まともな弁明の言葉は見当たらなかった。彼女の不躾な頑なさに、ただ圧倒されるばかりだった。 しおりちゃんのすぐ隣で、シーナが天板の上をコン、と硬い指先で何度も叩いて会話の動線を遮った。

「もしその喫茶店の給仕の用件が終わったなら、ここからは正式に私の順番ね」

茜は首を巡らせ、その異世界からやってきた少女の瞳へと視線を合わせた。シーナはもはや、自らの不満の色彩を隠そうとするポーズすら放棄していた。

「私はね、茜。あんたの書き連ねたこの私の生存の基本方針について、どうしても降伏することのできない不格好な欠陥がいくつもあるのよ」

茜は深く、長い溜息を吐き出した。

「……最も具体的な不満の場所はどこかしら?」

「あの世界を揺るがすような壮絶な危機の真ん中よ」

「……」

「なぜ、あの最前線の戦場の中心で私がこの現代世界へと生まれ落ち、あろうことか、この隣にいる『ミナミ』っていう徹底的に頼りない青年の手によって拾い上げられなきゃいけなかったわけ?」

ミナミがパッと弾かれたように横を向いた。

「ヘッ! 何でそこで急に俺の名前が引き出されるんだよ! この恐ろしい対話の巻き添えにするな!」

「あんたの不甲斐なさが、今の私の議題に上がっているからよ。ちょっと静かにしなさい」

「分かってるよ、クソが」

シーナは隣の雑音を完全に無視して、茜を真っ直ぐに睨みつけた。

「あの戦場は、大いなる危機の舞台だったわ。無数の勇敢な冒険者たちが人波を割り、剣の火花を散らして運命と戦っていた。一人の主人公の物語の書き出しとしては、これ以上ない完璧な設定のはずでしょう?」

「……ええ、そうね」

「だったらさ! どうしてその境界線の向こう側で私を待っていたのが、もっとこう、最高に格好いい英雄的な主人公じゃなかったわけ!?」

茜は思わず両目を閉じ、自らの額を左手の手のひらで覆った。シーナの唇からは、自らのエゴの残響が溢れ出ていく。

「一撃で怪物を切り裂く、圧倒的な武力を持った剣士!」

彼女は細い人差し指を空中へと力強く掲げた。

「世界の不条理の前に、恐れることなく自らの二本の足で立ち向かう、揺るぎない蛮勇!」

二本目の指が跳ね起きる。

「あらゆる知恵を完璧に熟知した、経験豊富な大人の知性!」

三本目の規律が刻まれる。

「……そして、もし可能であるならば――」

少女は一瞬だけ言葉の進行を区切り、その頬の色彩を微かに赤く染めた。

「――本屋さんの棚に並ぶ美しい本のように、誰の目で見ても一発で理解できるほどの、端正な容姿を持った男の主人公よ!」

ミナミは自らの隣のスペースで、徹底的に平然とした冷淡な一瞥を彼女に向けていた。

「あんたさあ、どうしてその不作法な要求リストの中に、いつも当然のように『顔の良さ』の条件が混じり込んでくるわけ?」

「一人の読者の想像力の娯楽にとっては、それが最も本質的な法則だからよ! 顔の良さは絶対なの!」

「意味が分からないわ」

「あんたには聞いてない!」

シーナは再び、茜の青白い顔に向かって、完璧な勝利のポーズを突きつけてきた。

「――私の言いたい核心はね、茜。要するに、どうしてよりによって、この地べたに這いつくばっている男だったのかってことよ!」

茜は胸の奥の空気を低く吐き出した。

「つまり、あなたの不満の根底は、ミナミの存在そのものにあるってこと?」

「私の不満の正体は、どうしてあらすじの中に、もっと格好いい英雄の記号を配置してくれなかったのかってことよ!」

「このお話は、世界を救うための高尚な恋愛小説としては設計されていないのよ」

「そんなの、私の耳にとっては少しも論理的な言い訳にならないわ」

「……ええ、そうね。確かにその通りだわ」

茜は両方のこめかみが、じわじわと痛みを伴って悲鳴を上げ始めるのを感じていた。しかし、彼女がその混乱を収めるための言葉をひねり出すよりも早く、今度は対面のミナミが畳の上から勢いよくその肉体を浮かせた。

「なら話は別だ! 俺の口からも、これからの人生の設定について、追加の不満の山をこれでもかとぶちまけてやるからな!」

シーナはわずかに身体の重心を後ろへと引き、その青年の動きに道を譲った。

「どうぞ、ミナミ。その情けない弱音を響かせなさい」

ミナミは両手のひらをきつく握りしめ、自らのエゴのプライドを爆発させた。

「俺だってな、茜! この人生のあり方には、どうしても納得することのできない不格好な欠陥の項目が山ほどあるんだよ!」

茜は自らの疲れた目を、その青年の真っ直ぐな瞳へと向けた。

「……何かしら、ミナミ」

「どうして俺の基本設定が、ただの部屋の中に引きこもって現実から逃げ回るだけの、そんな不格好な日陰の存在として最初から決められてなきゃいけなかったわけ!?」

四畳半の空間に、妙にシュールで息苦しい静寂が広がった。ミナミの声のボリュームは、夜の静けさを完全に切り裂いて大音量で響き渡る。

「どうして俺の毎日の日常には、社会的に誇れるようなまともな仕事の手順が何一つ登録されてないんだ?」

茜はただ、不格好な沈黙を守り続けた。

「どうして俺の財布の残高は、いつもいつも極限の最低ラインを推移してなきゃいけないんだよ? 釣りをするのだって、趣味じゃなくてただ餓死を免れるための泥臭い生存の仕事なんだぞ!」

茜は身動き一つしなかった。

「どうして俺の人生の道筋は、未来のいつの日になっても、何一つ幸福な成功のゴールテープが見えてこないような、そんな底なしの絶望の穴の中に放置されてなきゃいけないわけ?」

茜の知性は、ただ黙って彼の言葉の連なりを観察し続けることしか選択できなかった。

「探して回ったって、見つかるのは怪しい工場の重労働だけじゃないか。大人の規律からはみ出したゴミのようにさ。そして何よりも納得がいかねえのはな! どうして俺の毎日の生活の周期の中で、何かの場面が開くたびに、この隣にいる異世界の女から『馬鹿だの貧乏だの』って、自尊心をズタズタに切り裂くような冷酷な罵倒を一方的に浴びせられ続けなきゃいけないんだよ!」

ミナミは右手の指先を高く掲げ、シーナのまっ正面を指し示した。シーナは自らの胸の前に細い右手を宛がい、当然のような顔をして言った。

「それは、私のセリフの規律ね。あんたが頼りないからよ」

「知ってるよ、クソが!」

ミナミは再び、茜の瞳の奥に向かって、自らの魂の叫びを真っ直ぐに突きつけてきた。

「俺だってな、自分が世界を救うような英雄になれないことくらい、自分の頭の中でちゃんと理解してるさ。綺麗な衣服に身を包んだ、何不自由のない天上の暮らしなんて最初から望んじゃいねえよ。自分の生活のあり方が、徹底的に些細で、地味な四畳半の日常のままで終わったって、それを不幸だなんて呪うつもりは一滴もない」

彼の両手の拳が、より頑なな重量感を持ってきつく握りしめられた。

「だけどさ……どうしてその不格好な欠陥のすべての重みが、この『ミナミ』っていう一人の肉体の中にだけ、これ見よがしに集中して格納されてなきゃいけないわけ?」

茜はしばらくの間沈黙し、それからようやく、自らの唇の隙間から最も重い言葉を低く吐き出した。

「それはね……もし、その不甲斐ない歪みがなければ、シーナの硬質な歩調と噛み合って新しい生活の周期が回り始めないから……」

「ストーリーの都合が良いから、なんていうその安易な答えだけは、絶対に口にするんじゃないわよ、茜」

茜は開いた口を、無言のまま静かに閉じるしかなかった。ミナミの細い指先が、テーブルの境界線をまたいで、彼女の顔を真っ直ぐに指し示していた。

「俺たちはもう、その退屈な公式の答えを、自分自身の耳の表面で何度も聞き飽きているんだ」

しおりちゃんも満足のいくように、小さく首を縦に振ってみせた。

「うん、私もその意見には同意するわ。もっと別の、オリジナリティのある言い訳を用意してほしいものね」

シーナも自らの細い両腕を胸の前で交差させ、冷淡なポーズを崩さなかった。

「最も安易で、最も手抜きの解決策ね、それは。作り手の傲慢なエゴが透けて見えるわ」

茜は自らの目の前に並ぶ、その三人の生々しい人間たちの横顔を、長い長い沈黙の中でただじっと見つめ続けていた。彼女は今、自らの直面している難問の壁の容積が、昨日までの執筆の焦燥などとは比べ物にならないほどに巨大で、取り返しのつかない陥没の穴に変わっていることに気づいて、愕然としていた。

そこに、世界を脅かすような怪物の襲撃のイベントは何一つ起きてはいない。世界の命運が自壊しようとしているわけでもない。

外側からの具体的な危険など、どこにも転がってはいなかった。

ただ、これまで自分が液晶画面の向こう側の冷たい檻の中に閉じ込め、自らの意志のインクでその一挙手一投足を都合よくコントロールし続けてきたはずの、あの愛おしい物語の登場人物たちが――今、一人の生きた「人間」としての絶対的な尊厳と、自らの足で歩くための独立した知性を宿して、作者である自分の真正面に車座になって座り込み、自らの運命のあり方について、最も誠実な抗議の言葉をぶつけ合っているという、その動くことのない現実の景色だった。

茜は身体の重心を後ろへと引き、アパートの冷たい壁に自らの体重を預けて力なく項垂れた。

「……あんたたち、わざわざこの真夜中の時間に、ただの不作法な我が儘の文句を私にぶつけるためだけに、この部屋の境界線をまたいできたわけ?」

「我が儘の文句じゃないわ」

シーナの応答は、驚くほどに迅速で、力強かった。

「正式な、抗議(プロテスト)の手続きよ」

「一体、何が違うっていうのよ」

「規模と、重みが何倍も違うわ。私たちは大真面目なのよ」

「あ……そう」

茜はゆっくりと首を縦に振った。自らの頭の芯では、もうこの暴走の方程式を一人で処理するためのエネルギーの残高は、完全に底を突きかけていた。

彼女は畳の上から立ち上がった。

「……よし。それじゃあ、佐藤さんの家へ行きましょう。今すぐ、この上着をひったくってね」

三人は一斉に瞳のピントを合わせ、驚いて彼女の顔を見つめてきた。

「一体、何のためにそんな場所へ移動するのさ、茜ちゃん。夜中の寄り道なんて、私のスケジュールには入ってないよ」

ミナミが怪訝そうに訊ねた。

「もし私が、この夜明け前の時間まで、あんたたち三人の不条理な詰問をこの四畳半の空間の中で一人で受け止め続けなきゃいけないのだとしたら……私の頭の神経は、明日の朝が来る前に完全に自壊しちゃうわよ。お腹の細胞が痛む前に、責任の分配を実行しなきゃ」

しおりちゃんはすぐに立ち上がった。

「それは合理的なルートね。名案じゃん!」

シーナも自らの衣服の手触りを確かめながら、その決断に同意した。

「私も、その手順の進行には賛成するわ。後ろ盾の顔を一目拝んでやりましょう」

ミナミも自らの二本の足を踏みしめて立ち上がった。

「だったら、今すぐその編集者の家へ向かって歩き出そうじゃねえか。靴紐をきつく締め直してな」

茜は彼らのあまりにも滑らかな動きを、呆然とした目で見つめ直した。

「あんたたち……どうしてそんなに簡単に、次のステップへの移行に同意するわけ?」

「だってさあ、私たちだって、そのお話のコードを後ろから都合よく切り刻んでいる、その大人の編集者の顔の輪郭を、一目この目で観測してみたいと思ってたんだもん! すべての黒幕でしょ?」

茜は胸の奥から重苦しい、しかし諦めの混じった長い長い吐息を深く吐き出した。

「……ええ、そうね。分かったわよ、行きましょう」

深夜のビジネス街の静寂を切り裂いて、四人の不格好な足跡の軌跡は、次の目的地の座標であるあの佐藤さんのマンションのドアの前へと、真っ直ぐに運ばれていった。

ガチャリ、と内鍵のラッチが外れ、メインのドアが内側から大きく押し開かれた瞬間――そこに直立していた佐藤さんの真面目な顔の輪郭には、生まれて初めて、一人のプロとしての規律を完全に失った完璧な驚愕の表情が鮮烈に跳ね起きていた。

「……茜?」

彼はまず、自らの元パート従業員の疲れた顔を見つめ、それから、そのすぐ後ろのスペースに佇んでいるシーナの藍色の衣服を捉え、ミナミの怠惰に泳ぐ目をなぞり、最後に、しおりちゃんの何の罪の意識もない満面の笑顔の記号へと視線のピントを合わせた。

「……一体、何のエラーが起きてこんな真夜中に押し寄せてきたわけ?」

茜は自らの血の気の引いた青白い顔を、これ以上ないほどに疲れ果てたトーンのままで静かに動かした。

「この人たち、あんたに向かって、最も誠実な抗議(プロテスト)の文字を手渡しにきたのよ、佐藤さん。肩の力が完全に抜けちゃうわ」

 佐藤さんは細い眉の間に深い皺を刻み、不満そうに声を響かせた。

「抗議、だと?」

「ええ、そうよ」

 シーナが一歩前へと踏み込み、その大人の男の瞳をまっ正面から見つめ返した。

「あんたがこのお話の後ろ盾になっている編集者ね。私たちの人生の規律を裏から操作している番人ね」

 佐藤さんは他のお客様と全く同じ、日常の平坦なトーンで短く首を縦に振った。

「そうよ。私が編集の佐藤だ」

「だったら話は早いわ。あんたも一人の大人の規律として、私たちの流した汗の分の言い分を、黙ってその耳の表面で受け止めなさい。今夜の猶予は短いわよ」

佐藤さんは驚いて茜の方へと視線を向けたが、茜はただ両手を空中へと軽く掲げてみせるだけだった。

「私を見ないでちょうだい、佐藤さん。私はもう、この暴走の方程式を一人で処理するエネルギーの残高は完全に底を突いて、とっくの昔に降伏しているんだから」

佐藤さんは胸の奥から重苦しい溜息を深く吐き出すと、自らの部屋のドアをさらに広く押し開いた。

「……上がんなさい」

四人は狭いたたきでするりと靴を脱ぐと、静まり返ったリビングの空間へと足を踏みいれた。そして、本日二度目となる、何の計画の予定も存在していなかった臨機応変な審議会のタイムラインが、再びそのフローリングの床の上で厳かに幕を開けたのだった。

シーナが自らの役回りに対する不満のリストを最初から熱心に解説し、ミナミが自らの人生の設定の不甲斐なさについて大音量の弱音を吐き散らし、しおりちゃんが二重雇用の過酷さについて徹底的に直接的な屁理屈を並べ立てる。

佐藤さんはソファーに腰を下ろしたまま、その三人の言葉の連なりを、ただ静かに長い沈黙のなかで観察し続けていた。彼は時折、一人の大人の作法として小さく首を縦に振り、時折、彼らの知性の混乱を宥めるための業務的な注釈を低く返していたけれど、その横顔のあり方は、高尚な編集者というよりは、ただの不条理な嵐の前に身をすくめて生存の道を必死に検索している、一人の不器用な男のシルエットに酷似していた。

やがて、シーナの視線が、再びあの始まりの危機のシーン(スタンピード)の描写へと跳ね返った。

「――要するにね、私はどうしても納得がいかないのよ! なぜ、あの最前線の戦場の中心で私がこの現代世界へと生まれ落ちた瞬間に、この男の定位置へと真っ直ぐに運ばれなきゃいけなかったのか。もっと別の、格好いい英雄のルートだって選択できたはずでしょう?」

佐藤さんは温かいコーヒーの残りを喉へと流し込みながら、特に難しいことを考える風でもなく、至って平然と言い放った。

「そんなの、最初から橘がその分量の中にそう書き込むって、基本の設定をロックしていたからに決まっているでしょう」

彼の唇からその数文字の記号が放たれた瞬間、室内のすべての空気の振動が、空間の真ん中でピタリと完全停止した。

全員が、彫像のように動かなくなり、沈黙する。

茜はゆっくりと首を巡らせ、その古い相棒の真面目な顔の輪郭をじっと凝視した。

「……佐藤さん。今、何て言った?」

佐藤さんはすぐには次のセリフを返さなかった。開いた口が塞がらないまま、自らの口走ってしまった文字列の致命的な内部エラーに気づき、その青白い顔が一瞬にして硬直していく。

シーナは細い眉を深くひそめた。

「……タチバナ?」

ミナミも自らの瞳のピントを合わせ、驚いて彼の顔を見つめ直した。

「誰だよ、その名前は。新しく登場する怪物の名前か?」

しおりちゃんは余計な雑音の一瞥をくれることもなく、ただ畳の上から真っ直ぐに佐藤さんの瞳の奥を見つめ続けていた。

茜は一対の目を限界まで細め、そのベテラン編集者の輪郭を鋭く射抜いた。

「……佐藤さん」

「……何かしら、茜」

「どうしてあんたの口から、その『橘』っていう名前が、まるですべてを知っている神の視点みたいに当然のように飛び出してくるわけ? そんな解説、私の原稿のどこにも書いてないわよ」

佐藤さんの唇の端が微かに歪み、ぎこちない苦笑のポーズをひねり出そうと身悶えした。

「それは……ほら、一人のプロの編集者としての、外側の情報の手続きよ」

「嘘ね」

茜の応答はあまりにも迅速で、冷徹だったため、佐藤さんは次の言い訳を検索するための余白を完全に奪われてしまった。

しおりちゃんが、その沈黙の隙間に、至って平坦で日常的なトーンの言葉をそっと滑り込ませた。

「編集者という日常の観測者はね、佐藤さん。原稿の紙の上に一文字も並んでいないような、そんな未開のプロットの核心の答えを、最初から自分の中に格納しているわけがないんだよ。作者の手帳を盗み見でもしなきゃね」

佐藤さんは完全に絶句し、返すための言葉を失ってしまった。

シーナは自らの細い両腕を胸の前で交差させ、最も冷ややかな視線を彼へと突きつけた。

「――あんた、一体どこの世界の人間なわけ?」

「……佐藤だ」

「その偽物の名前を聞いているんじゃないのよ」

ミナミもその場に立ち上がった。

「あんたの、本物の命の名前の正体はどこにあるんだよ」

佐藤さんは胸の奥から、これまでの人生のどの夜とも根本からその生命法則が異なっていた重い吐息を深く吐き出すと、ソファーの背もたれに自らの体重を預けて力なく項垂れた。今度は、自らのブレーキを使って逃避のルートを検索するような蛮勇は、どこにも残されてはいなかった。

「……橘だ」

 完全な真夏の暗闇の静けさが、リビングの空間の真ん中へと滑り込んできて収束した。

茜は折りたたみ椅子の定位置に座ったまま、その大人の男の顔をしばらくの間じっと見つめ続け、それから、自らの唇の間からその名前の響きを愛おしむようにしてゆっくりとなぞり直した。

「……橘さん?」

佐藤さんは重々しく、首を縦に振った。

「ああ、そうよ」

「『ギルドの受付嬢』の、本物の生命をこの世に生み出した、最初の作者(オリジナル)ってわけね?」

「……ええ。私が、その原稿を書いた本人よ」

シーナは開いた口が塞がらないまま、何度も瞬きを繰り返し、それから自らの細い右手の指先を真っ直ぐに佐藤さんへと突きつけた。

「じゃあ……じゃあ、これまで私の運命の足跡をこんな不格好な四畳半の檻の中に閉じ込めて、散々な衝突の歴史を強引に稼働させてきたその黒幕の正体は、最初からあんただったってわけね!?」

佐藤さんは無言で首を縦に振った。

ミナミも自らの拳を固く握りしめて立ち上がった。

「なら話は別だ! 俺の口からも、これからの人生の設定について、追加の抗議の山をこれでもかと上書きしてやるからな! この恨みは深いぞ!」

しおりちゃんも畳の上から軽快に飛び起きた。

「私もだよ! 理香っていう二つ目の役割を維持させられたあの毎日の肉体労働の疲労について、一人の労働者として徹底的に厳しいレビューを叩きつけてあげるからね!」

シーナの唇の端に、パッと弾けるような完璧な勝利の笑顔が咲き誇った。

「私の要求のリストだって、まだ何一つ処理の終了には到達してないわよ、タチバナ!」

佐藤さんはその三人の生々しい人間たちの真っ直ぐな瞳の質量に押し潰されそうになりながら、ゆっくりと首を巡らせて茜の顔を見つめた。おそらく、彼の頭の中には、世界でたった一人、自らの物語を一番近くで読み返してくれたこの元パート従業員の女の子だけは、自分の防波堤の味方になってくれるはずだという、そんな淡い期待が残されていたのだろう。

しかし、茜は折りたたみ椅子からしなやかに腰を上げると、自らの一対の瞳の奥に、昨日までの過保護な怯えなど一滴も残していない、確かな大人の作家としての成熟した光を燃え上がらせて直立した。

「……ちょっと待ってちょうだい、みんな」

佐藤さんは祈るようにして彼女を見つめた。

茜は細い指先の先端を伸ばし、自らの正面の顔を真っ直ぐに、冷徹に指し示した。

「もし、あんたの本物の命の名前が本当に『橘』なのだとしたら……」

彼女は言葉の進行を一拍だけ区切った。

「……私がこれまで、あの編集部の一室で自尊心を赤ペンで切り裂かれ、四畳半の部屋の暗闇の中で『私は一体何をしているんだろう』って頭を抱えて身悶えし続けさせられてきたあの過酷な夜の周期のすべては――最初から、あんたの張り巡らせた冷酷な方程式の罠だったってわけね?」

佐藤さんは言葉を失い、完全に絶句した。

茜の唇の端に、ハハ、と短い、乾いた自嘲の笑い声が漏れ出た。それは面白さに降伏したからでは決してなかった。ただ、世界の外側にある現実世界のリアルが、これほど不格好でシンプルな真理の上に成り立っていたのだという事実に気づかされ、自らのエゴの防波堤が綺麗に解体されたからに過ぎなかった。

「だったら……だったら私の口からも、これまでの人生の損失の分の、最も誠実な抗議の文字を手渡さなきゃ嘘だわ。容赦はしないから」

佐藤さんは胸の奥から重苦しい溜息を吐き出した。

「茜……」

「いいえ、拒絶するわ」

茜は静かに、しかし絶対的な重量感を持って首を横に振った。

「今夜に限っては、あんたが一人のプロの作者として、私たちの言葉の連なりを最後のページまで黙って聞き届ける番よ」

シーナが一瞬にして彼女のすぐ右斜め前のスペースへと歩み寄り、自らの肩のラインを真っ直ぐに立てて直立した。

「私も、その手順の執行には全面的な同意を刻むわ。最強の布陣ね」

ミナミもそのすぐ隣へと自らの二本の足を滑り込ませた。

「俺だって、このまま退却するなんて選択肢は最初から持ち合わせてねえんだよ」

しおりちゃんも無邪気に右手を高く掲げてみせた。

「私もだよ! 私はまだ、二重雇用に対する具体的な埋め合わせの手続きを、何一つ手のひらの中に受け取ってないんだからね!」

佐藤さんは自らの真正面に車座になって並び立つ、その四人の生々しい独裁者たちの瞳の奥をじっと見つめ返し、生まれて初めて、自らの置かれている生存の境界線が、これ以上ないほどに絶体絶命の絶望の穴にロックされているという事実を自覚したのだった。

「……あんたたち、本気で言っているのかしらね」

茜が真っ直ぐに応答した。

「本気よ、タチバナさん。これ以上ないほどに、本物の覚悟よ」

シーナも続く。

「徹底的な、真面目な決意よ」

ミナミも拳を固く握りしめた。

「一ミリの嘘もねえよ」

しおりちゃんも満面の笑顔を咲かせた。

「完璧な、確定の手順だよ!」

佐藤さんはゆっくりと首を巡らせ、自らの部屋の真っ白な天井の余白をじっと仰ぎ見た。

「……ただの、口を滑らせただけのエラーのセリフだったというのに。完全に寝不足のせいだわ」

「もう、システムの巻き戻し(リセット)のコマンドは通用しないわよ」

茜は自らの細い両腕を胸の前で交差させ、冷徹な勝利のポーズを崩さなかった。

「あんたは今すぐ、一人の大人の責任として、私たちのこの胸の中の不満の質量に対して、具体的な責任の処理を実行しなければならないわ」

「……どうすればいいのよ、一体」

茜はほんの数秒だけ考え、自らの脳内をフル稼働させた。

シーナも自らの知性を回転させていた。

ミナミもその不格好な頭脳を巡らせていた。

しおりちゃんにいたっては、自らの細い指先を使って、何か別の炭水化物の分量を空中で几帳面に計算し始めていた。

やがて、茜の唇から、最も飾りのないシンプルな解決策の方程式が真っ直ぐに吐き出された。

「――ご飯を、奢りなさい」

佐藤さんは一対の目を驚いたように丸くして硬直した。

「……何ですって?」

「私たちの、毎日の生存のための食事の費用を、あんたのその革の財布の残高の中からすべて吐き出しなさいって言ってるのよ」

「期間は、どれくらいを要求しているの?」

茜は首を巡らせ、後ろの三人の日常の観察者たちへと視線の端を向けた。

シーナが細い人差し指を空中へと力強く掲げてみせた。

「一ヶ月よ! 一ヶ月の間、毎夜毎夜、私を最高に美味いレストランの中に付き合わせなさい!」

ミナミも即座に首を縦に振った。

「俺もそのルートには賛成だ。お腹いっぱい肉を貪り食わなきゃ、倉庫の肉体労働の疲労が修復できねえからな」

しおりちゃんは少しだけ自らの頭の神経を稼働させ、それから、不満そうに眉をひそめて首を横に振った。

「一ヶ月なんて、私の胃袋の残高の推移からすれば、あまりにも少なすぎる不格好な部数だよ、茜ちゃん。それじゃあお腹が満たされないじゃん」

茜の唇の端に、これ以上なく温かい、楽しそうな笑みが浮かび上がった。

「ええ、本当にその通りね、しおりちゃん。あんたの言う通りだわ。最高の引力ね」

彼女は再び向き直り、佐藤さんの深い瞳の奥を冷徹に射抜いた。

「――一年よ、タチバナさん」

佐藤さんは完全に絶句し、リビングの真ん中で身動き一つできなくなった。

「……一、一年間も、あんたたち四人の生存の予算案を、私が一人で維持し続けなきゃいけないの?」

「当然でしょう。あんたが、私たちのすべての運命のコードを書き殴った、本物の『作者』なのだから」

シーナは満足のいくように、何度も首を縦に振ってみせた。

ミナミも自らの肩のラインを真っ直ぐに保ち、降伏の気配を一滴も見せなかった。

しおりちゃんは唇の端にパッと、何の罪の意識もない満面の笑顔を咲かせていた。

佐藤さんはゆっくりと両目を閉じ、真夏の暗闇の静けさの中に自らの肉体を預けた。もう、彼の知性のロジックの中に、この四人の不格好な独裁者たちの前でまともな反論のセリフをひねり出せる余白は、どこを探しても一行すら残されてはいなかった。

(中略)

 茜は再び、ソファーの定位置へと自らの肉体を滑らかに沈めた。

シーナも土手の草を払うような動作でその隣へと腰を下ろした。

ミナミも広い肩のラインを緩めて畳の上に直接胡坐をかいた。

しおりちゃんも自らの水のグラスを大切そうに抱え込んだまま、その車座の輪の中へと自然な所作で加わった。

四人が部屋の境界線をまたいで押し寄せてきて以来初めて、彼らの一対の目の奥には、これ以上ないほどに穏やかで、満ち足りた平和な安心感の質量がピタリと満たされていた。

佐藤さんだけが、部屋の真ん中で彫像のようにぽつんと直立したまま動けずにいた。彼は自らのリビングを占拠しているその四人の生々しい人間たちの横顔を、ただ長い長い沈黙の中で見つめ続け、それから、低く吐き出すようにして訊ねた。

「……せめて、私が自らの意志で、そのレストランの場所を選択する許可証くらいは与えてくれるのよね?」

「ダメよ」

四人の大人の唇からは、寸分の狂いもない完璧な同期の響きを伴って、たった一言の冷淡なセリフが同時に放たれた。

佐藤さんは重苦しい溜息を深く深く吐き出すと、そのまま力なく肩を落とすしかなかった。

その日の夕暮れ時、本来なら一人の大人の編集者が孤独に自らの日常のクロックを刻んでいるはずだったその静かな部屋の中には――名も知らない一つのフィクションの世界の裏側に転がっていた、あの不格好な登場人物たちが、自らの求めていた最も具体的な成果の質量を手のひらの中にしっかりと掴み取り、楽しそうな笑い声をフロアの真ん中に弾けさせていた。

この夕暮れの対話の着地点は、決して彼女たちの物語に都合の良い劇的な変化を強要するためでもなければ、プロットの構造を強引に書き換えてハリボテのハッピーエンドを捏造するためでもなかった。世界の外側にある現実の前に、もっともらしい答えの用紙を乞うための卑屈な疾患もそこにはない。

そこに広がっていたのは、ただの、これ以上ないほどに些細で、他愛のない、しかし一人の人間としての尊厳に満ちた、最高に自由な生命の権利そのものだった。

自分たちの不格好な運命をインクの点で汚し、背後からコントロールし続けてきた、あの全能の神の視点の真正面に真っ直ぐに立ち塞がって、自らの一対の足で地面を踏みしめ、正面から泥臭い抗議の手続きを手渡すことのできた、その最も誠実な日常の余白だけが、そこに美しく直立していた。

...そして、この真夏の夜のしめくくりの時間軸において――その四人の不格好な独裁者たちの前で、頭を抱えて身動き一つしないまま、彼らの流した汗の分の文句を黙って聞き届けなければならない義務を課されていたのは、もう、あの四畳半のレジの後ろにいた茜では決してなかった。

それは、世界の外側という名の本当の現実の真ん中で、今や完全に血の気の引いた青白い顔をして立ち尽くしている、あの『橘』という名の一人の不器用な書き手の、終わりのない生存の義務そのものだったのだった。



TERIMA KASIH TELAH MEMBACA CERITA AKANE SAMPAI SELESAI.

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