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原稿用紙 ~ ギルド受付嬢の新しい暮らし  作者: 橘
物語は始まる

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第33章 机の上の、一冊の本

 その本は、最初はただ何という目的もなく、食卓の天板の上にぽつんと置かれただけだった。

 喫茶店のシフトが終わった後の夜更け、その男は自らの重い鞄を椅子の脇へと脱ぎ捨て、上着のボタンを外し、冷蔵庫から冷たい水のペットボトルを取り出した。昼下がりにあの小さな喫茶店の若いウェイトレスから手渡された臨機応変な紙の塊のことは、帰りの電車の中ですっかり忘れていたのだ。スラックスのポケットからいくつかの古い領収書の残骸を引っ張り出そうとした瞬間、彼の指先がその画用紙のカバーの端っこに触れ、ようやく脳の記憶が呼び出された。

「ああ、そういえば、こんなものを貰ったな」

 男は鞄の底からそれを取り出した。一冊の、手作りの文庫本。表紙のスケッチの色彩は決して悪いものではなかった。しかし、駅前の巨大な書店に並んでいる大手の商業出版の単行本と比較すれば、裁断のラインや紙質の手触りには、素人の手作業による闘いの爪痕が色濃く残っている代物だった。

 男は意味もなくその肉体を裏返してみた。タイトルの文字列。名も知らないアマチュア作家の名前。裏表紙に書き殴られた短いあらすじの段落。そこには、見慣れた大手の出版社のロゴマークもなければ、流通のためのバーコードの記号も、冷酷な価格の方程式の数値も、何一つ印刷されてはいなかった。

 彼の脳裏に、昼間のフロアでテーブルを挟んでその物質を差し出してきた、あの少女のぎこちない顔の輪郭が鮮烈に甦る。

『どうかこのお話を家に連れ帰り、あんたの目で読んでみてください』

 その祈るような、不格好な勧誘のセリフは、大人の彼の鼓膜には今でも少し奇妙な雑音として響いていた。見ず知らずの人間から物品を受け取る習慣など彼にはなかったし、ましてや一銭の金の手続きも発生しない無料のフィクションを押し付けられるなんて、人生のシステムにおいては極めて稀な例外エラーだったからだ。

「どうして私が、この文字の連なりを読む観測者に選ばれたのかしらね」

 頭脳の中にまともな答えを返してくれるデータベースは存在しなかった。

 男は小説を食卓の隅へと置き去りにすると、そのまま狭い浴室へと向かい、一日の泥臭い汚れを洗い流した。

 入浴を終えた後、彼はスマートフォンの液晶画面が放つ無機質な光を眺めながら、簡単なレトルトの夕食を済ませた。本は、昨日と全く同じ場所で沈黙を維持していた。食事の間、彼の目は、自らの意志とは関係なくその白い表紙の色彩へと何度も何度も引き戻されていた。それは彼の中に劇的な好奇心の炎が跳ね起きたからではなく、単にその手作りのカバーの焼き色が、殺風景な部屋のレイアウトの中で妙に濃厚な違和感を放っていたからに過ぎなかった。

 食事が終わり、彼は汚れた食器をシンクへと片付けた。本は邪魔にならないように机の端っこへと数センチだけ移動させられ、再びガランとした空間の中に放置された。テレビの画面が明かりを放ち、スマートフォンのログが彼の手のひらの間でめまぐるしく更新されていく。壁のアナログ時計の長針が静かに進み、液晶の数字が午後十一時を越えた頃。

 男はソファから腰を上げ、冷たい水を一杯淹れようと台所へ向かって歩き出した。しかし、自らの身体の重心が食卓の脇を通り抜けるまさにその瞬間、彼の目は、そこに取り残されていたあの未完のフィクションの肉体を再び捉えてしまった。彼の足の動きが、空間の真ん中で一拍だけ停止する。彼は右手を伸ばし、その紙の塊を静かに持ち上げた。

「まあいい、少しだけ中身を観測してみるか」

 頭の中の初期設定の予定では、ほんの数ページの書き出しをなぞってみるだけのはずだった。どうせタダで手に入れたものだ。一人の大人の作法として、一文字も読まずにゴミ箱の階層へ放り込むよりは、最初の数行に目を通しておく方が、あの少女の誠実な引力に対する最低限の礼儀だと思えたからだ。

 彼は木製の椅子を引き、腰を下ろすと、表紙の画用紙をゆっくりとめくった。第一ページ。そして次のチャプターへの階層が開く。

 物語のシステムは、いきなり大きな不条理のイベントの発生によって幕を開けていた。大量の怪物の群れ(スタンピード)、ギルドという名の官僚的な組織の構造、荒くれ者の冒険者たちの人波、そして最前線で繰り広される、硬質で緊迫した闘いの描写。男は文字の連なりを視線でなぞりながら、自らの細い眉をわずかにひそめた。

「ずいぶんと大真面目な世界観の構築じゃないの……」

 静まり返った室内の空気に向かって、彼は低く呟いた。

 彼はもともと、こういったファンタジー小説のジャンルを貪り読むような熱心な読者ではなかった。作者の生み出した独自の固有名詞や専門の記号に足を取られ、読書のスピードが数秒間立ち往生することも珍しくはなかった。どこかで見たことのあるようなありふれた設定の配置に眉をひそめることもあったし、ある段落の長さに対して「少し説明が蛇足ね」と冷徹な評価を下すこともあった。途中で一度、指の動きを完全に止め、二分間の時間を費やして台所に忘れてきた水のグラスを取りに立ち上がったほどだった。

 しかし、彼の肉体は再び木目の天板の前へと戻り、白い紙の上の文字列へとピタリと視線をロックした。

 シーナという名の、軍務の規律を患ったような不器用な少女がプロットの中に押し寄せてくる。彼女は自らの許容の限界値を遙かに越えた巨大な危機の前に、その細い両肩を強張らせて立ち尽くしていた。ギルドのマークの崩壊、前線の崩壊、そしてそのすべての闘いの歴史は、男が最初にこの本を開いたときには到底予測することの叶わなかった、ある奇妙な反転のイベントによって唐突に締めくくられた。

 男の親指が、次のページをめくるテンポをほんの少しだけ速めた。彼の動きが変わったのは、一人の純粋な読者としての好奇心の炎が、「この頑なな女の子が、一体どんな臨機応変なルートを使ってその絶望の穴から生還するのか」を、その目で確かめてみたくなったからだった。

 次の瞬間、本の世界は、全く違う現実の手触りへと劇的に変貌した。見慣れた都会の川の土手。どこにでもいる平凡な現代の青年。そして、四畳半の、ミニマムな賃貸アパートの空間。男は驚いて目を細めた。

「おや……? ベクトルの矛先が、こっちの方向へ曲がるのか」

 彼は新しい一ページをめくった。それから、眉の間に深い皺を刻みながら、次の文字の連なりを真剣になぞり始めた。

「なるほど、構造としては……逆異世界転移の方程式というわけね」

 時計の長針が回るのも忘れ、彼は一分、また一分とそのまま読み続けた。四畳半の狭い部屋の中で繰り広げられる、二人の不格好な家庭的な対話の断片は、大人の彼の唇から、何度もクスクスとした軽い笑い声を弾けさせた。それは部屋の壁を揺らすような大音量の爆笑では決してなかった。ただ、自らの肉体の緊張が緩み、面白さに降伏した一人の人間の口元から、ハハ、と短い吐息の波が自然とこぼれ落ちてしまうような、そんな質の高い娯楽の響きだった。

 シーナというキャラクターは、ミナミの部屋にある現代のあらゆる生活家電のシステムを、自分を暗殺するための恐ろしい魔法の罠か怪物の擬態だと本気で信じ込み、警戒のログを最大にして身をすくめていた。一方のミナミという青年は、一人の社会の構成員として、何一つ他人の模範となるような崇高な規律を持ち合わせていない、徹底的に怠惰な疾患に冒されていた。二人はお互いの背景にある文明を何一つ理解できないまま、暗闇の中で手探りの衝突を繰り返していた。

 男はページの中ほどで指の動きを止め、その二人のダイアログをもう一度だけ心の中で静かになぞり直し、それから唇の端に薄い笑みを浮かべた。

「この男の子の不甲斐なさの描写は……認めざるを得ないわね。本当に見ていてイライラするほどに頼りないわ」

 彼は再び親指を動かし、紙の端を弾いた。台所のシーンを越えたあたりのいくつかのチャプターは、驚くほどに軽やかで、気軽で、滑らかな血流となってページの間を流れ始めていた。コンビニのインスタント食品の分量。電子レンジの駆動音。洗濯機の回るシステム。そして、理香という名の、日常の冷徹な観測者の介入。

 彼の笑いの神経をシャープに刺激するおかしな描写もあれば、一人の大人の批評眼からすれば「少し平坦で退屈ね」と切り捨てたくなるような、ありふれたページもいくつか混じっていた。ある説明の文字列に対して「長すぎるわ」と感じることもあったし、あるシーンの処理を「もっと短く解体できたはずよ」と不満に思うこともあった。

 しかし、それらすべての厳しい評価のログの裏側で――彼の両手のひらは、その本を途中でパタンと閉じてしまう決断のコマンドを、頑なに拒絶し続けていた。彼の細い指先は、磁石に引き寄せられるようにして、次のチャプターの新しい余白を、ただひたすらにめくり、なぞり、貪り読み続けていたのだった。

 彼の目と頭は、いつの間にか紙の上に並ぶキャラクターたちの名前を、何の違和感もなく正確に識別するシステムを構築していた。シーナ。ミナミ。理香。その文字列が一対の網膜を過るたび、彼の知性は、それぞれがどんな歪みを持った人間であるかを、いつの間にか正確に記憶していたのだ。男は自分の中で起きたその変化に、最初の第一ページから遥かに遠い核心の場所まで歩みを進めてしまった後になって、ようやく気がついた。彼が今この文字の連なりを追っているのは、単なる義務のログをこなすためではなかった。彼の魂が、液晶を離れたその不格好な登場人物たちの生活の軌跡を、本当に知り、馴染み、愛おしみ始めていたからだった。

「ああ……」

 男は身体の重心を後ろへと引き、椅子の背もたれに自らの広い背中を力なく預けた。テーブルの上の、真っ白な余白の広がるページをじっと見つめ直す。

「……いつの間にか、こんなところまで読み進めてしまっていたのか」

 彼は視線を動かし、スマートフォンの液晶の明かりを覗き込んだ。時計の針は、とっくに真夜中の午前零時の境界線を越えようとしていた。合理的に考えても、彼は今すぐ本を閉じて眠るべき時間だった。明日の朝になれば、またいつも通りの過密なクロックが始まり、自らの二本の足を使ってビジネス街の職場へと出勤しなければならない現実の規律が待っているからだ。

 しかし、彼の右手の指先の運動神経は、自らの知性のブレーキを強引に無視していた。彼は再び新しい一ページの端を親指で手繰り寄せると、確かな重みを持って、次の文字列の上へと視線のピントをロックした。


 物語の進行が、シーナという少女が自らの頑なな規律を少しずつ緩め、東京という名の見知らぬ巨大な都市のルーティンへと、不器用に適応し始めるフェーズへと滑り込んだとき――大人の彼の胸の奥に、かつてない静かな熱が満ち始めるのを彼は感じていた。紙の上に描かれる些細な生活の断片のすべてが、今の彼の肌には、どうしようもないほどの愛おしい質量を持って迫ってきたからだ。

 シーナはミナミのあの散らかった四畳半の部屋の、どこに何が格納されているのか、その定位置を完璧に記憶し始めていた。現代の奇妙な機械の仕組みを、自らの手のひらを使って正確に稼働させる手順を覚えつつあった。一方のミナミという青年も、ただの気まぐれな偶然によって異世界の少女を川底から拾い上げた、あの最初のチャプターの頼りない記号のままでは決してなかった。

 二人は、その四畳半の狭い空間の真ん中で、間違いなく同じ一つの日常を分かち合って生き始めていた。激しい屁理屈をぶつけ合い、テーブルを挟んで正直な言葉を交わし、畳の上で安物のインスタント食品を一緒に咀嚼し、お互いのプライドの領域を踏み荒らして眉をひそめ合いながらも……次の朝が来れば、また何事もなかったかのように、単調で不格好な毎日の周期の中へと静かに戻っていく。

 男は冷たい水を口に含む手を一時停止させた。グラスを天板に戻し、その手作りの文庫本を、一度だけパタンと静かな音を立てて閉じた。彼は表紙の不器用なスケッチのラインを数秒間だけ見つめ、それから再び、真夜中の静寂の中で、元のチャプターの続きのページを開き直した。

「……おかしな話だな。今日の夕方までは、ほんの数行だけ目を通すつもりだったというのに」

 男はほんの一瞬の気まぐれが、これほど頑なな没頭の方程式に化けてしまったことに、唇の端に可笑しそうな本物の苦笑を浮かべた。それから再び、テキストの深淵へと意識を沈めた。

 スマートフォンの液晶に表示された時刻は、午前零時十七分。

 男は胸の奥からゆっくりと長い呼吸を吐き出し、強張っていた首の節々の強張りを解きほぐした。

「よし、残りの変数は……明日の夜の宿題として、大事に残しておくことにしよう」

 彼はテーブルの隅に転がっていた、今日の夕方にレジの横で受け取った小さな古い領収書の残骸を一枚手繰り寄せると、その紙片を、今読んでいるページの隙間へと正確に滑り込ませた。自らの指先で、次の観測のための仮のしおりとして、その位置を綺麗にロックした。そして、本を静かに閉じた。パタン、とプラスチックのような軽い音が、静まり返った部屋の壁に跳ね返って消えた。

 彼の右の手のひらは、本を閉じた後も、しばらくの間その画用紙のカバーの表面に添えられたまま動かなかった。紙の手触りを、そこに残る微かな熱量を確かめるようにして、長い沈黙の中に佇んでいた。それから彼はゆっくりと椅子から腰を上げた。男はその手作りの文庫本を大事そうに手のひらで包み込んだまま、寝室のベッドのすぐ脇にある、小さなサイドテーブルの定位置へと運んでいった。

 部屋の壁のメインのスイッチへと右手を伸ばし、照明のシステムをシャットダウンするまさにその直前、男は薄暗がりの中で、その表紙に踊るタイトルの文字列を、もう一度だけ鋭い一対の目で睨みつけた。

 今夜の彼の頭の中のデータベースに並んでいるのは、明日の朝からの過酷な仕事の手順でもなければ、産業の冷酷なリアルでもない。ただの、これ以上なくシンプルで、地に足の着いた、明日の夜へのささやかな誓いの一行だけだった。

 ――明日の夜、仕事のシフトをすべて片付けてこの部屋に戻ってきたなら……私は真っ先にこのしおりのページを開き、この物語の呼吸を、最後の句点まで自らの目で見届けるだろう。

 男はスイッチを押し下げ、白い蛍光灯の放つ青白い光の供給を完全に切断した。

 室内のレイアウトは、一瞬にして濃厚な暗闇の中へと収束していった。しかし、ベッドのすぐ脇の小さな折りたたみテーブルの上では、茜が自らの流した汗を使って物質化させたあの最初の一冊が、白い領収書のしおりをそのページの肉体の間に几帳面に挟み込んだまま、主人の帰還を待つようにして静かに沈黙を守り続けていた。

 そのインクの世界の内側では、シーナとミナミが、昨日と全く同じ位置で静かに佇んでいる。お話はまだ、終わってはいない。

 そして――物語がその最後の句点を刻み終えて以来、生まれて初めて。

 世界の外側という名の本当の現実の中に、明日の朝が来れば、再び彼らの運命の続きへと戻ってきたいと、心から願う生きた人間が、確かに一人、実在していたのだった。


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