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原稿用紙 ~ ギルド受付嬢の新しい暮らし  作者: 橘
物語は始まる

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第32章 三冊の本

 その朝、茜の狭い四畳半の部屋にある折りたたみテーブルの上は、いつもよりずっと綺麗に片付けられていた。

 フローリングの床の上には、もうカッターの切り屑一つ転がってはいない。金属製の長い定規は引き出しの定位置に戻され、ハサミや糊のボトルも無造作に晒されることなく整理されている。背表紙の糊付けに失敗した不格好な試作の残骸は、部屋の隅に置かれた小さな箱の中へと綺麗に隔離されていた。

 そして、その整然とした景色の真ん中に、部屋の空気の密度をがらりと変えるような、ある一つの具体的な物質が直立していた。


 ――本。


 茜は両手のひらを使って、静かにその肉体を持ち上げた。表紙の画用紙をめくり、背表紙のラインを指先で確かめる。真っ直ぐだ。至近距離から厳しい大人の目で凝視すれば、まだいくらかの裁断の拙さは残っているかもしれない。しかし、少なくとも昨日までの試作のように、右の斜め下へと不格好に歪んではいなかった。

 茜の唇の端に、小さな本物の笑みが浮かんだ。彼女は本のインクのページをめくってみた。

 右手の親指の先で紙の端を弾くたび、本文の紙片が軽やかなリズムを立てて滑らかにめくれていく。糊の塗りの不均等さのせいで内側の隅っこがひきつれるような不具合はもうどこにもないし、ページの上下の裁断ラインも、以前より遙かに綺麗に水平の規律を保っていた。

 茜は最終章の最後のページにある、一箇所の句点までを指先でなぞり終えると、パタンと静かな音を立てて本を閉じた。それから、意味もなく中ほどの手順のページからもう一度開き直してみる。視線を遮るような違和感は、もうどこにも転がってはいなかった。彼女は胸の奥から、長くて深い呼吸を一つ吐き出した。

「……できた」

 暗闇に向かって低く呟いたそのセリフは、あまりにもシンプルで飾りがなかった。しかし、これまでの過酷な夜のクロックにおいて、その二文字の着地点は、彼女の頭脳にとっては遙か彼方の奇跡のように思えてならなかった場所なのだ。

 茜は完成した文庫本を天板の上に置いた。そのすぐ隣には、今しがた同じ製本の手順をくぐり抜けて物質化を終えたばかりの、全く同じ二冊の立体が並んでいる。

 三冊の本。同じ一つのファンタジーの世界から生まれ落ちた、三つの生々しい肉体。茜はその塊を、長い長い沈黙の中でじっと見つめ続けた。表紙の画用紙には、もう実験用の不格好なバツ印のメモはどこにもない。ページの順序を仮止めするための不細工な麻紐もなければ、剥がれかけたカバーを強引に包み隠すような言い訳の装丁もない。

 生まれて初めて、茜は自分の手元にある物質を「失敗作の残骸」としてではなく、自らの魂の命を宿した、本物の「自著」として観測していた。


 夕方近くになり、茜はその三冊の文庫本をキャンバス地のバッグに忍ばせ、喫茶店へと足を向けた。バックヤードの従業員用カウンターの下、いつもの定位置にバッグを滑り込ませる。しかし今夜の彼女の肌が感じている手触りは、昨日までとは全く違っていた。いつもならバッグの中に収められているのは、赤ペンでズタズタに切り裂かれたプロットの手帳や、歪んだ裁断の紙片ばかりだった。だが今、彼女の足元に眠っているのは、完全に執行を終えた本物の完成品なのだ。

 ラックのガラス棚を拭いていた結衣ちゃんが、その横顔を覗き込んできた。

「終わったの、茜ちゃん」

 茜は確かな重みを持って首を縦に振った。

「ええ、形になったわ」

 レジカウンターの陰にいたしおりちゃんが、パッと弾かれたように目を輝かせて歩み寄ってきた。

「本当に!? 完成したの!?」

 茜はバッグの奥から、一冊の文庫本を静かに取り出した。しおりちゃんは許可を待つこともなく、その細い手でガシッとその肉体を掴み取った。彼女の真っ直ぐな目が表紙の色彩をなぞり、裏表紙のあらすじを睨みつけ、背表紙の糊の強度を確かめるようにして何度もひっくり返す。茜は対面から、その一連の動作をほんの少しだけ警戒のギヤを上げながらじっと見守っていた。

 しおりちゃんは首をわずかに傾げ、それから唇の端にパッと満面の笑顔を咲かせた。

「真っ直ぐになってるじゃん!」

 茜は堪えきれずに、クスクスと軽い笑い声を漏らした。

「おかげさまでね。なんとか直ったわよ」

「もし今日もカッターのラインが曲がってたらさ、私が一人の読者として容赦なく突っ込んであげようと思ってたのに」

 しおりちゃんは至って平然と言い放った。

「分かっているわよ」

 結衣ちゃんも隣へと歩み寄り、茜の本を手元に引き寄せると、数ページの文字の連なりをゆっくりとめくり直した。

「無線綴じの強度も、これなら商業の基準と比較しても遜色ないわね、茜ちゃん」

 茜は苦笑を浮かべ、静かに首を横に振った。

「まだまだ、素人の手作業の拙さがいくつも残っているわよ」

「よほど意地の悪い大人の目で凝視しなきゃ、そんな微細なバグには気づかないわよ」

 結衣ちゃんは穏やかな微笑を崩さずに言った。茜の胸の奥を、温かい熱が満たしていく。

「……それなら、私の宿題としては、これで十分ね」

 バックヤードの調理スペースから姿を現した美咲さんが、テーブルの上の三冊目の単行本を無言で右手で持ち上げた。オーナーは数秒間の沈黙の中でその重量感を確かめ、それから何事もなかったかのように天板の上へと静かに戻した。

「上出来ね」

 美咲さんの唇から漏れたのは、たった一言の、平坦なトーンのセリフだけだった。しかし、どうしてだろう。その飾りのない大人の一言だけで、今の茜の胸には、何万文字もの賞賛を浴びるよりも遙かに深く、十分すぎるほどの確信のログが格納されるのだった。

 彼女は三冊の文庫本を再びバッグの中へと格納した。生まれて初めて、彼女の行く手には、世界の外側に向かって正直に手渡すことのできる、本物の「商品」が実在していた。


 最初のうち、茜はその物質をフロアのどこの空間に配置すべきか、その最適解を見つけられずに立ち往生していた。レジのすぐ横のスペース? それではあまりにも入金の手続きの動線に近すぎて、お客様の視線が窮屈になってしまう。入り口のすぐ脇の小さな棚? それでは通り過ぎる人のベクトルから遠すぎて、誰の網膜にも引っかからなくなってしまう。

 試行錯誤の末、彼女が選択したのは、喫茶店の中央にある大きな本棚の片隅、窓からの柔らかな陽射しが差し込む特等席のスペースだった。

 三冊の文庫本が、自らの足で立つようにして綺麗に並べられる。茜は手元にあった裏紙の切れ端に、手書きの丁寧な筆致でタイトルと価格の方程式を書き込み、本の前へと宛がってみた。二歩ほど後ろへと下がり、全体のレイアウトを観測してみる。悪くない。不格好な独裁者の最初のブースとしては、十分に美しい景色だった。

 茜はカウンターの後ろの定位置へと引き返した。


 最初のお客様が、ガラスのメインドアをくぐって滑り込んできた。いつもの周期に従って朝のコーヒーを発注する。彼の一対の瞳は、中央の本棚の一角を一瞥もくれることはなかった。

 二人目のお客様が入ってきた。テイクアウトのアメリカーノの処理が進む。彼のアナログな視線も、やはりその白い表紙の色彩を捉えることはなかった。

 三人目のお客様が、注文を終えた後、何をするでもなくその本棚の前でピタリと足を止めた。

 レジの影にいた茜は、思わず自分の背筋をピンと垂直に伸ばし、息を詰まらせた。彼女の両手の指先は、業務の操作を止めたまま、空間の真ん中で数秒間硬直した。しかし、そのお客様はただおもむろに上着のポケットから自らのスマートフォンを取り出すと、何かの通知を確かめるようにして画面を睨みつけ、それから何事もなかったかのように自らの席のテーブルへと歩み去っていった。

 茜は首を深く項垂れ、胸の奥の張り詰めていた重い空気を低く吐き出した。

「……そうね。そんなに簡単に、奇跡のイベントが起きるわけないわよね」

 彼女は自らの知性の焦燥を宥めるように呟くと、再び目の前の入金の手続きへと意識を戻した。

 休暇の最初の一日が、何事も起きないまま淡々と通り過ぎていった。棚の上の本は、一冊も動かなかった。茜は胸の中のフラストレーションの残響を、安全なフォルダの中に格納しようと必死に努めた。

 二日目の時間の周期も、全く同じだった。誰の手も、その画用紙のカバーに触れようとはしなかった。

 三日目のクロックが回る頃も、景色は硬直したままだった。三冊の文庫本は、昨日と全く同じ不格好な配置のままで、そこに佇み続けていた。表紙の色彩も変わらない。価格の数値も変わらない。そして、在庫を表す変数の数字も、何一つ変動のログを記録してはくれなかった。


 ――三。


 茜は自分の胸の奥で、そのたった一つの数字の質量が、時間が経つにつれてどれほど重く、息苦しい鉛の塊となって自らの精神を圧迫し始めるかを、嫌になるほど自覚しつつあった。棚の上で身動き一つしないフィクションの肉体は、ただの静寂の雑音となって、彼女の作り手としてのプライドを冷酷に削り落としていくのだった。


 四日目の昼下がり、一人の若いお客様が、本棚の前で右手を伸ばし、その中の一冊を手のひらの中に収めた。

 カウンターの影でエスプレッソマシンのノズルを拭いていた茜は、視線の端だけでその動向をダイナミックに観測し続けた。心臓の鼓動が、一瞬にしてレッドラインを越えそうなくらいに激しく脈動を始める。彼女は自らの動揺のログを周囲に悟られないように、ただの不格好なポーズとして、目の前のステンレスの金属を必死になって擦り続け、何ページもの文字の連なりがめくられる乾いた音に耳をすませていた。

 そのお客様は、表紙の画用紙の感触を確かめ、裏表紙に書き殴られた短いあらすじを睨みつけ、それから数ページの文字の連なりをパラパラとなぞっていた。茜は網膜のピントを合わせる勇気すら湧かず、ただ祈るようにして祈り続けていた。

 しばらくして、舗道の底から響くような、無機質な足音がフロアに響いた。

 カサリ、と。

 本は、昨日と全く同じ元の配置の隙間へと、何事もなかったかのように静かに戻された。そのお客様は、自らの注文したアメリカーノのカップを手に取ると、そのままガラスドアの向こう側へと去っていった。

 茜は本棚の空間へと視線を巡らせた。


 ――三。


 数字は、まだ三のままだった。変数は何一つ変わってはいなかった。

 彼女は胸の奥から、長くて浅い呼吸を吐き出した。不思議なことに、その夜の彼女の胸の中には、作家としてのプライドを切り裂かれたような激しい怒りは一滴も湧いてこなかったし、自分の無力さを呪うようなあの底なしの絶望の疾患に引きずり戻されることもなかった。ただ、一人の大人の書き手としての、極めて冷徹な現実の自覚だけが、彼女の知性の上に静かに蓄積されつつあった。

 ――本を自分の手で物質化させることと、それを世界の外側にいる本物の読者が自らの意志で買い取ってくれることの間には、全く別の、巨大な不条理の壁が横たわっているのだ。

 その夜、茜は四畳半の静まり返った部屋の中で、手帳の支出の方程式を睨みつけながら、今回の実験のために自らの財布から吐き出した資金の数値を冷静に計算し直してみた。それから、手帳のカバーをパタンと閉じた。

 経済的なシステムだけで言えば、生活に致命的なバグが起きるような金額では決してない。一人のパート従業員の生活費の範囲内で、いくらでも処理のログを埋められる程度の損失だ。しかし、彼女の頭の神経を苛み続けていたのは、そんなお金の残高の推移ではなかった。あの喫茶店の棚の上で、身動き一つしないまま完全に死んだ記号のように佇み続けている、あの三冊の立体の存在そのものだった。

茜はバッグの中から、自分のために一冊だけ持ち帰っていたあの文庫本を手繰り寄せ、折りたたみテーブルの上で静かに開き直した。いくつかのチャプターの文章を、最初の一行から丁寧になぞり直してみる。物語は完全に執行を終えている。シーナがどこへ逃げ、ミナミがどんな言葉を選択したのか、作者である彼女はすべての解答用紙を自らの中に持っている。

だが、この夜の彼女の肌が感じている手触りは、どうしようもなく不気味で、奇妙なものだった。この本は、間違いなく私のノートパソコンの液晶画面を離れ、三次元の空間を占有する生々しい物体としてここに転がっている。机の上に置くこともでき、バッグの底に放り込むこともでき、誰かの手のひらの中に手渡すことだってできる肉体を持っている。

それなのに、世界の外側にいる生きた人間たちの誰一人として――この数日間の日常において、この本を自らの「家」へと連れ帰ってくれた者は、誰もいなかったのだ。


 茜は本を閉じ、薄暗い室内の電気の下で、その何も言わない表紙の色彩をじっと見つめ続けた。

「……誰も、このお話の存在を知らないのだとしたら。彼らは一体どうやって、このページの息遣いを見つけることができるのかしら」

 そのシンプルな問いかけに対するまともな答えのデータを、今の彼女のデータベースは、何一つ持ち合わせてはいなかった。


 五日目の朝も、三冊の本は元の配置のままそこに佇んでいた。

 六日目の昼下がりも、変数は何一つ動かなかった。

 七日目のクロックが回る頃には、茜の目は、その三冊の立体が本棚の空間の中に残している、微細な配置のバグまでを完璧に記憶するに至っていた。一番左側の一冊が、他の二冊に比べて数ミリメートルほど前方へと突き出している。二番目の塊は、正確に中央の座標を維持している。三番目の立体は、少しだけ椅子の背もたれに預けるようにして後ろへと傾いている。彼女はフロアを通り抜けるたびに、無意識の手作業の反射を動かして、その三つのパーツの歪みを何度も何度も真っ直ぐに揃え直していた。

 トレイを運んでいたしおりちゃんが、そのカウンターの影の不格好な行動をじっと覗き込んできた。

「……まだ、誰も触ってくれないの?」

 茜は小さく、弱々しく首を横に振った。

「ええ、まだよ」

 しおりちゃんはその三冊の文庫本を見つめ、それから茜の血の気の引いた青白い顔を見つめ直した。

「どれくらい、その定位置で立ち往生してるの?」

「一週間よ」

 しおりちゃんは小さく首を縦に振った。

「長いね。私の胃袋の感覚からすれば、一時間でもそんな風に放置されてたら、餓死しちゃうよ」

「ええ、本当にそうね」

 しおりちゃんは棚の中から一冊の文庫本をガシッと掴み上げ、いつものマイペースな動作でパラパラとめくり直した。

「でもさあ、このお話、めちゃくちゃ格好よくて面白いのにね。私が保証するよ」

 茜の唇の端に、かすかな、しかし温かい本物の微笑が浮かんだ。

「ありがとう、しおりちゃん」

「だったらさ、どうしてお客様は誰もこれをお家に連れて帰ってくれないのかな?」

「……それが、今私が自分の頭の神経をフル稼働させて、一生懸命考えている宿題の正体よ」

 しおりちゃんは当然のように頷き、それからその本を元の配置の隙間へと静かに戻した。

「もしさ……本屋さんでお金を出して買ってくれる人が誰もいないんだとしたら、あとはもう、見ず知らずの人に向かってタダで手渡して回るしかないじゃん」

 茜は自分の立っている場所で、一瞬にして思考のギヤを止められたまま硬直した。瞳を大きく見開いて、同僚の無垢な顔を見つめる。

「タダで……無料(フリー)で手渡すってこと?」

「うん、そうだよ」

「どうしてそんな暴挙に出なきゃいけないのよ。製作費の残高が完全に自壊しちゃうわ」

 しおりちゃんは両肩を軽くすくめ、至って無邪気な顔で言い放った。

「だってさ、そのお話が本当に面白いかどうかも分からないのに、最初からお金を払ってくれる大真面目な人間なんて世界のどこにもいないでしょ。まずは誰かに自らの意志でページをめくってもらって、その脳細胞の中に物語の息遣いを登録してあげなきゃ、お話が生きてるかどうかの判定ログすらスタートしないじゃん」

茜は言葉を失い、喉の奥が硬く凍りつくのを感じた。そのあまりにも乱暴で、しかし徹底的に合理的な読者としての言い分は、今の彼女のロジックにとっては、どうしても間違いだと退けることのできない絶対的な真理を含んでいた。フィクションの世界というものは、単にインクの点で紙を汚しただけの物質ではない。誰かの一対の目がその文字の連なりをなぞり、彼らの想像力の翼と融和して初めて、本物の「物語」としての生命法則を稼働させることができるのだ。

ラックのガラス棚を整理していた結衣ちゃんが、音もなくその会話の輪へと歩み寄ってきた。

「しおりちゃんのその恐ろしく不作法な直感は……認めざるを得ないわね、茜ちゃん。一人の観測者として言わせてもらうけれど、その引き算の手順は、今のあんたの行き詰まりの壁を切り裂くための、最も臨機応変な選択肢かもしれないわよ」

しおりちゃんは一瞬にして得意げな笑顔の記号を咲かせた。

「ほら! 結衣さんだってそう言ってるじゃん!」

茜は胸の奥から張り詰めていた重い空気を深く吐き出し、ついに降伏のポーズとしての軽い笑い声を漏らした。

「ええ……本当にその通りね。あんたの言う通りだわ、しおりちゃん」


その日の夕暮れ時、店内の混雑のクロックが引いて穏やかな静けさがフロアに戻ってきた頃、茜は本棚の前に真っ直ぐに直立していた。三冊の本は、相変わらず昨日と同じ不格好なレイアウトでそこに転がっている。彼女はそのすべての物質を両手のひらで抱え上げると、中央の大きな木目テーブルの上へと静かに並べ替えた。


――三。


茜はその三つの立体を一つずつ丁寧に見つめ、この一週間の日常のログから弾き出した、最もシンプルな決断の方程式を胸の中でロックした。大げさなイベントの告知もなければ、産業のシステムが好むようなディスカウントの記号もどこにもない。彼女はただ、世界に実在するたった三人の人間の網膜の中に、自らの物語の息遣いを手渡したかったのだ。

茜は一冊の文庫本を右手に取り、大きなフロントの窓ガラスに面した、四番テーブルの席へと歩み寄った。そこには、一人の男性客が腰を下ろし、静まり返った空気の中で夕方のコーヒーを穏やかに楽しんでいた。茜はその席のすぐ脇で足を止め、丁寧な所作で深く頭を下げた。

「恐れ入ります」

茜の声のトーンは低く、しかし驚くほどに安定していた。

そのお客様はハッとして顔を上げ、怪訝そうな眉の皺を刻みながら彼女の顔を見上げた。茜は自らの流した汗の成果である、世界で最初の自費出版の文庫本を、両手のひらを使ってテーブルの境界線の向こう側へと真っ直ぐに差し出した。

「これは……」

男性客はその表紙の色彩に一瞬だけ目を留めた。

「小説……かね?」

「はい」

茜は小さく、しかし確かな動作で首を縦に振った。彼女の一対の瞳は、お客様の目をまっ正面から見つめ返していた。

「私が……自らの意志で書き上げ、製本の手順までをすべて自分の手で執行した、私の物語です」

お客様は至って当惑したような表情を浮かべた。

「え? 君自身の作品ということかい?」

茜はぎこちない苦笑を浮かべながらも、自らの内面的な基準を揺らがせることはしなかった。深く呼吸を整え、しおりちゃんのアドバイスを聞いた瞬間に自らの脳の神経の中にロックした、最も飾りのない一行のセリフを真っ直ぐに吐き出した。

「もし……もしよろしければ、この本をあんたの家へと連れ帰り、その指先でページをめくってはくれないでしょうか」

男性客はその手の中にある紙の塊の、生々しい物質としての重量感を確かめるようにして何度も見つめていた。

「……タダで、かい?」

茜は迷うことなく、力強く首を縦に振った。

「はい。無料です。一銭の金の手続きもいりません」

お客様は表紙のスケッチをもう一度だけ見つめ、それから顔を上げて茜の真っ直ぐな瞳の奥にある誠実な引力をじっと探り当てようとした。数秒間の沈黙が流れた後、彼の口元に、穏やかな大人の笑みが浮かんだ。

「なるほどね。いいだろう、君のその終わりのない宿題の成果、喜んで家に持ち帰って読ませてもらうよ」

茜は、これ以上ないほどに慇懃な所作で、深く深く頭を下げた。

「……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」

彼女は再びカウンターの後ろの定位置へと引き返した。本棚の空間から、最初の一冊のパーツが消失していた。残された変数は、あと二冊。

それからそう時間はかからなかった。店内の空気の密度が緩やかに融和していくタイムラインの中で、茜は二冊目の文庫本を、バーの隅の席にいた別のお客様の手の中へと静かに手渡した。そして最後の三冊目の立体を、中央の通路を進んでいた一人の歩行者のお客様へと差し出した。

口にしたセリフは、最初から最後まで一文字も変わらなかった。

「どうかこのお話を家に連れ帰り、あんたの目で読んでみてください」

そしてその三度目の執行の瞬間も、世界の外側にいる生きた人間が、彼女の物語を自らの両手の中に温かく迎え入れてくれたのだった。


茜はレジカウンターの後ろに、再び背筋を伸ばして真っ直ぐに直立した。

大きなフロントの窓ガラスに近い、あの本棚の片隅のスペースは、今や完全にガランとした真っ白な空白へと塗り潰されていた。先ほどまで三冊の文庫本が確かに占有していたあの物理的な三次元の空間には、もう何の一片の物質も取り残されてはいなかった。

この一週間の間、彼女の作り手としてのプライドを冷酷に押し潰し、棚の上で一ミリの変動ログすら記録することのなかったあの重苦しい変数の数字が――今、ついに最後の処理のコマンドを終えて、究極の境界線へと滑り落ちていた。


 ――ゼロ。


 茜の胸の中に、自らの財布から吐き出した製作費の残高を失ったことに対する、作家としての卑屈な寂しさなどは一滴も湧いてこなかった。奇妙なほどに、彼女の胸の奥を占めていたのは、これまでの人生のどの夜とも違う、圧倒的に軽やかで、晴れやかで、平和な安心感の質量だった。あの三冊のフィクションの肉体は、もう自分の四畳半の狭い牢獄の暗闇の中に閉じ込められてはいない。彼らは今、世界の外側にある具体的な空間へと飛び出し、本物の読者たちの生々しい手のひらの中で、自らの命の息吹を新しく稼働させようとしているのだ。

茜はレジカウンターの天板の上で、今や完全に空っぽになった自らの両手のひらをじっと見つめ、それから唇の端に小さな、本物の笑みを浮かべた。

ガラス窓の向こう側では、東京の巨大な人波が、いつも通りの単調な日常の周期に従って舗道の上を淡々と通り過ぎていくだけだ。エスプレッソマシンは再び低い蒸気の唸りを上げてカフェインのエキスを抽出し始め、入り口のベルは新しいお客様の到来を告げてにぎやかに鳴り響いている。

世界は何一つ変わらないルーティンを繰り返している。しかし、その変わらない日常のシステムの真ん中で、茜の知性は、最も根本的なフィクションの生命法則を完璧に自覚していた。

生まれて初めて――彼女の紡ぎ出してきた物語は、作者である彼女自身の肉体を完全に離れて、世界の外側という名の、本当の現実の中へと、自らの二本の足で真っ直ぐに歩み進み始めていたのだった。


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