第34章 物語が、手から手へ
あの花火の夜から数日、フランネルのシャツを着た男は、いつも通りの単調な周期に従って日常のクロックを刻んでいた。朝になればビジネス街の職場へと出勤し、昼になれば同僚たちと車座になって弁当を広げ、夕方になれば残務を片付けて家路へと就く。彼のタイムラインには、何の一片の奇跡の予兆も存在してはいなかった。
少なくとも、昼時の短い休憩時間が訪れるまでは、その通りのはずだった。
男が社内の食堂の隅の定位置に腰を下ろしていたとき、隣に座っていた同僚の男が、彼の弁当箱のすぐ脇のスペースへと鋭い一瞥をくれた。そこには、一冊の手作りの文庫本がぽつんと置かれていた。
同僚は箸の先端でそれを指し示した。
「小説かい?」
男はスマートフォンの液晶から視線を外し、短く答えた。
「ああ、そうだよ」
「新しく書店で買い込んできたのか?」
「さあね、どうかしら」
その曖昧な応答に、同僚は不満そうに細い眉をひそめた。
「どうかしらって、あんた自分の持ち物のデータも把握してないわけ?」
男は天板の上からその物質を静かに持ち上げた。
「数日前の夕方、駅前の小さな喫茶店の若いウェイトレスから、押し付けられるようにして貰ったのよ」
「店の従業員から?」
「ええ」
男は表紙の画用紙をパラパラとめくってみた。同僚がその上部に躍る文字列を睨みつける。
「ファンタジー小説?」
「まあ、構造としてはそんなところね」
「面白かったかい?」
その至ってシンプルで直球な問いかけに対し、男の指の動きが空間の真ん中で一拍だけ停止した。彼はすぐにはセリフを返さなかった。あの真夜中の静寂の中で、自分が初めてこのインクのページをめくった瞬間の手触りを、脳内の引き出しからゆっくりと手繰り寄せていたからだ。
最初のうちは、一人の大人の作法として、最初の数行に目を通したらすぐに片付ける予定だった。しかし、彼の指先は自らの知性のブレーキを無視して、日付が変わるまでその紙の塊を貪り読み続けてしまったのだ。ある段落の長さに対して「少し説明が蛇足ね」と切り捨てたくなる部分もあったし、ダイアログの処理にアマチュア特有の拙い歪みを感じるエピソードだっていくつもあった。だけど、それでも――彼の両手のひらは、最終章の最後の一箇所の句点に到達するまで、その本を閉じる決断のコマンドを実行しなかった。
「面白かったわよ」
男は短く、確かな重量感を伴って答えた。
同僚は一対の眉を驚いたように跳ね上げた。
「へえ、あんたがそこまで言い切るなんて珍しいじゃないの。完璧な出来栄えだったってわけ?」
男の唇の端に、ごく薄い微笑が浮かんだ。
「ううん、まさか。面白いけれど、作りのシステムにはまだたくさんのバグが転がっているわ」
「例えば?」
「いくつかの説明の文字列が長すぎるのよ。書き手であるあの女の子が、まだ小説という娯楽のコードを書き慣れていないのが、一発で透けて見えるくらいにね」
「じゃあ、不格好な失敗作なのかい?」
「そういう意味じゃないわ」
男は静かに首を横に振った。
「……そこが、この物質の持つ奇妙な引力の正体なのよ。お話の根底にある動機が、どうしようもなく誠実で嘘がないの。だから、この先で彼らがどんな運命を踏みしめて歩くのか、その続きのログを確かめずにはいられなくなるのよね」
同僚は低く笑い声を漏らし、自らの箸を弁当箱へと戻した。
「なるほどね。つまり、本当に良い本だってことね」
「かもね」
男は本を静かに閉じた。
「書き手は間違いなく、名も知らない見習いの素人だけれどね」
昼時の短い雑談は、本来ならここで処理を終了して次の周期へと向かうはずだった。しかし、どうしてだろう。その数分後、フランネルのシャツを着た男の唇からは、その本の内側にあるフィクションの世界観の解説が、滑らかな血流となって自然と溢れ出てしまっていた。異世界からやってきた、軍務の規律を患った不器用な少女のこと。壮絶な闘いの果てに崩壊してしまった組織の構造。そして、その少女が都会の川の土手へと唐突に生まれ落ち、ミナミという怠惰な青年によって拾い上げられるという、あの反転の方程式。
同僚はもぐもぐと咀嚼を繰り返しながら、その文字の連なりに耳を傾けていた。
「へえ、じゃあそのファンタジーの女の子が、そのまま日本の生活圏の中に格納されたわけ?」
「ええ、そうよ」
「アパートの一室にかい?」
「四畳半の狭い空間よ」
同僚は思わず吹き出した。
「狭すぎるわね、それじゃあ身動き一つできないじゃないの」
「だからこそよ」
男も唇の端を緩めた。
「彼女は現代世界の家電のシステムについて、何一つ事前のデータベースを持ち合わせていないのよ」
「それで、どうなるんだい?」
「最初のうちは完全にバグを起こして大混乱よ。だけど彼らは、そのお互いの不格好な歪みをそのまま認め合って、ゆっくりと生活の規律を組み立て直していくの」
同僚は顔を上げ、男の目を覗き込んできた。
「ポエティックな恋愛のイベントが発生するのかい?」
男はほんの数秒だけ考えた。
「さあね。まだそんな高尚な着地点には到達してはいないわ」
「じゃあ、どんな関係なんだい?」
「ただの、見知らぬ空間に放り出された二人の歪んだ人間が、偶然同じ地面を踏みしめて生きているってだけの、泥臭い日常の景色よ」
同僚は再び笑い声を弾かせ、自らの箸を置いた。
「面白いじゃないの、その構造」
男は静かに、首を縦に振った。
「ええ、本当にね」
夕方になり、ビジネス街の過密なクロックが終了すると、二人は同じ歩調で駅へと向かって歩き出した。舗道の上を進む途中、隣を歩いていた同僚が、不意に思い出したように声をかけてきた。
「ねえ。もしよかったら、その本、私にも一冊読ませてくれないかしら」
フランネルのシャツを着た男は、驚いて足を止めた。
「今日の昼間に喋っていた、あの工作の山のことかい?」
「ええ。もしあの小さな喫茶店の棚の上に、まだその実体が残されているのだとしたらね」
男は一週間前の夕方、自分がその物質を無料の手続きで受け取った、あの窓際の特等席のレイアウトを脳裏に思い浮かべた。
「……おそらく、まだそこに佇んでいるはずよ」
「じゃあ明日、仕事のシフトが終わった後に、ちょっとその店へ寄り道してみない?」
男は小さく頷いた。
「いいわよ、別に。付き合ってあげるわ」
そこに、崇高な計画や哲学的なターゲットなど何一つ存在していなかった。二人の大人はただ、明日の夕方に同じ一つの境界線をまたぐという、ささやかな約束の方程式をロックしただけだった。
翌日の夕暮れ時、喫茶店のフロントのガラスドアのベルが鳴り響き、昼時のピークを越えたフロアの静けさを短く切り裂いた。
カウンターの後ろの定位置に直立していた茜は、弾かれたようにすぐさま顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
彼女はフロアに入ってきた二人の男たちの姿を網膜に捉えた。そのうちの一人の横顔を見た瞬間、彼女の頭の神経のログが、一瞬にして一週間前の夕方の記憶を引っ張り出してきた。彼女は覚えていた。生まれて初めて、自分の書いたお話を無料の手続きで自らの手のひらの中に受け取ってくれた、あのフランネルのシャツを着た男性客だった。
茜の胸の奥を一瞬だけ激しい動揺の波が駆け抜けたが、彼女が形式的な挨拶のセリフをひねり出すよりも早く、二人の男たちはいつものマイペースな動作で窓際の四番テーブルの席へと歩み進めていた。彼らは腰を下ろすと、お盆を運んできたらしおりちゃんに向かって、朝のコーヒーの注文の手続きを実行した。
茜は再びレジカウンターの影へと自らの肉体を引き戻し、目の前の入金の手続きへと意識の焦燥を戻そうと努めた。視線のベクトルを四番テーブルに向けるのは、一人のプロとしての規律に反する。そう自らに言い聞かせながらも、どうしてだろう。彼女の一対の目は、数分おきに、あの窓際のスペースのレイアウトを盗み見ずにはいられないのだった。
フランネルのシャツを着た男が、何かを証明するようにして自らの唇を動かし、隣の男が真剣な顔でその言葉の連なりを観測している。やがて、最初の男が細い指先を伸ばし、大きなフロントの窓ガラスに面した、あのガランとした本棚の一角を真っ直ぐに指し示した。
茜はレジカウンターの影で、思わず息を詰まらせた。心臓の鼓動が、一瞬にしてレッドラインを越えそうなくらいに激しく脈動を始める。
同僚の男が、ゆっくりと椅子から腰を上げた。彼は静かな歩調で本棚の前へと歩み寄り、そこに二冊だけ取り残されていた、あの茜の魂の命を宿した文庫本の中から、一冊の肉体をガシッと掴み取った。
ダスターを動かしていた茜の両手の指先が、空間の真ん中で完全に硬直して動かなくなった。
その男は本を裏返し、カバーの画用紙の色彩をなぞり、裏表紙に書き殴られた短いあらすじの段落を睨みつけ、それからその物質を抱えたまま、自らの席のテーブルへと引き返していった。
「これかい?」
男は本を木目の天板の上へと置き、対面の男に訊ねた。
「ええ、まさに今日の昼間にあんたに喋っていた、あの未完のフィクションの肉体よ」
最初の男が頷く。同僚の男は親指を滑らせ、いくつかのインクのページをランダムにめくり直した。文字の連なりを視線の端だけで秒速でスキャンし、それからもう一度、表紙の手作りの装丁データへと視線のピントを戻した。
「……悪くないじゃないの、これ」
フランネルのシャツの男が、唇の端にごく薄い、満足のいくような微笑を浮かべた。
「だから言ったでしょう」
「だけどあんた、さっきの食堂の席では、ダイアログの処理にアマチュア特有のバグがいくつも混じってて不格好だって酷評してたじゃないの」
「ええ、バグだらけよ。だけど私は、このお話の最後のページにある一箇所の句点までを、一人の観測者として自らの目で見届けずにはいられなかったの。その事実のログは、どうしても消去できないのよね」
同僚の男は小さく、首を縦に振った。彼はもう一度最初のページを開き、数行の文字列を確かめるようにしてなぞった後、パタンと静かな音を立てて本を閉じた。そして、ゆっくりと椅子から腰を上げた。
男は茜の本の肉体を右手にしっかりと握りしめたまま、中央の通路を真っ直ぐに進み、レジカウンターの前、茜の真正面の座標へと歩み寄ってきた。
「すみません。この本、一冊いくらですか?」
茜はその直球の問いかけを鼓膜の表面に受け止めた瞬間、完全に思考のギヤを止められたまま、その場に立ち尽くしてしまった。開いた口が塞がらないまま、眼前の生きた人間の網膜をじっと見つめ返す。
「……その本、ですか?」
茜の声は喉の奥で硬く凍りつき、小さな、消え入りそうなボリュームしか持っていなかった。
男は手の中の物質を彼女の目の前へと提示してみせた。
「ええ、これです」
茜はあと一歩だけ前へ進み、カウンターの境界線のエッジに両手を添えた。
「価格は……」
彼女は自らの唇を動かし、昨日手帳の白いページの上にロックした、あの最も誠実で控えめな価格の方程式の数値を正確に口にした。
男はスラックスのポケットの奥へと右手を伸ばし、自らの古い財布を引っ張り出すと、そこから数枚の千円札を指先で手繰り寄せた。そこには、商業の市場が好むような値引きの交渉の余白など一滴も存在していなかったし、これ以上の小難しい議論のログも何一つ発生しなかった。ただ、数枚の生々しい紙幣の質量が、カウンターの天板をまたいで、茜の空っぽだった右の手のひらの上へと真っ直ぐに手渡されたのだった。
茜はそのお金の手触りを受け取り、それから自らの本を、両手を使って慇懃な所作で手渡した。
「……ありがとうございました。本当に、ありがとうございます」
そのお客様は小さく慇懃な一礼を返した。
「いいえ、こちらこそ。楽しませてもらうよ」
男は身体を反転させ、再び元の四番テーブルの席へと引き返していった。
茜はレジカウンターの後ろに直立したまま、身動き一つしなかった。彼女の目は、自らの右の手のひらの表面を、長い長い沈黙の中でただじっと睨みつけ続けていた。
自らの肉体の流した汗と夜更けのエネルギーの対価である、数枚の千円札が、確かにそこに実在して皮膚に触れていた。そのお金の感触は、どこまでもリアルで、シンプルで、社会の大きな物語からすれば、爪の先ほどの些細な変数の数値に過ぎないかもしれない。
しかし、昨日までのルーティンの中で受け取ってきた、あのカフェの業務の報酬のログとは、根本からその生命法則が異なっていた。この夕暮れ時、彼女の生み出した一冊の文庫本は、世界の外側に実在する本物の読者の手へと、最も誠実で、最も嘘のない取引のシステムをくぐり抜けて、確かに売却されたのだ。
茜は深く、ゆっくりと呼吸の余白を確かめると、その最初のお金のログを、レジの引き出しの暗闇の中へと静かに格納した。彼女の唇から劇的な勝利の咆哮が漏れることもなければ、芝居がかった満面の笑みがフロアに弾けることもない。ただ、本物の、混じり気のない温かい笑みが、彼女自身も気づかないほどの小さなシルエットとなって、口元に静かに刻まれているだけだった。
四番テーブルの陰では、あのフランネルのシャツを着た男が、何事もなかったかのように自らのコーヒーの残りを穏やかに楽しんでいた。彼は茜に向かって余計なセリフのログを飛ばすような真似はしなかったし、ただの静かな日常の観測者としてそこに座っていた。
そのテーブルの対面では、新しく物語の権利を買い取った同僚の男が、すでに最初のページの文字の連なりを真剣になぞり始めていた。
「おや、最初の書き出しからいきなりこの密度の闘いが発動するのかい?」
「そうよ、最初の一行からシステムは最大出力で回っているわ」
「ずいぶんと大真面目じゃないの」
「だから昼間に喋ったでしょう。書き手は間違いなく、素人の見習いだけれどね」
二人の大人のクスクスとした低い笑い声が、喫茶店のフロアの空気の底からかすかに響き、茜の鼓膜の表面を優しく撫でた。彼女は、彼らが液晶を離れたキャラクターたちのどの不格好な動きを笑い合っているのか、その詳細なデータのすべてを知る由はなかった。彼らがどの言葉を愛おしみ、どの段落の歪みを「アマチュアね」と切り捨てているのか、その正確な解答用紙はどこにもない。そして、この新しく物語を受け取ってくれたお客様が、本当に最終章の最後のページにある一箇所の句点まで、自らの足で歩き通してくれるかどうかの保証だって、どこにも存在していない。
しかし、彼女の胸の奥深くまで満ちていたあの不気味な行き詰まりの霧は、もう完全に洗い流されていた。
数日前まで、彼女の本は、本棚の暗闇の中で一ミリの変動ログすら記録することなく、ただ死んだ記号のように立ち尽くしていた。誰の目にも触れられず、誰の手にも取られず、四畳半の牢獄の暗闇へと後ずさるためだけの、無機質な雑音として。
しかし今、一冊の本が、確かに他人の手のひらの上へと移動していた。
その処理のログが実行されたのは、茜が世界のシステムに向かって「私の本を買いなさい」と過保護な説得を重ねたからでは決してなかったし、大手の広告の変数を投入したからでもなければ、表紙の装丁データにプロの高尚な記号を散りばめたからでもない。
ただ、世界に実在する一人の生きた人間が、その文字の連なりを最後まで読み終え、自らの胸の中に灯った誠実な好奇心の炎のログを、隣にいる別の人間へと、自らの唇の言葉を使って真っ直ぐに、泥臭く伝えてくれたからだ。そして、その人と人との繋がりの動線こそが、新しい読者の足を、この木目の小さな喫茶店の境界線へと向かわせたのだ。
茜は再びダスターを手繰り寄せ、いつも通りの丁寧な所作で、カウンターのステンレスの表面を軽やかに拭き上げ始めた。小さな喫茶店の日常は、自らの基本的なクロックを崩すことなく、いつも通りのリズムで淡々と回り続けている。エスプレッソマシンは低い蒸気のうなりを上げてカフェインのエキスを抽出し始め、ガラスドアのベルは新しいお客様の到来を告げてにぎやかに鳴り響いている。
そして、その変わらない世界のルーティンの真ん中で、窓際の四番テーブルの席では――新しく物語の権利を受け取った一人の読者が、数週間前まで茜のノートパソコンの液晶画面の冷たい檻の中に閉じ込められていた、あの未完のフィクションの第一ページを、今、確かに自らの指先を使って、静かに押し開き始めていたのだった。




