第27章 第二の家 (2)
あなたのその徹底的に平坦なリアクション、今の私の胸には、なんだか少し物足りなく響くわよ、しおりちゃん
喫茶店の入り口のガラスドアに内鍵がかけられ、営業時間を告げる木製の看板が裏返されて準備中の顔に切り替わった後も、茜はすぐに駅へと向かおうとはしなかった。彼女はエプロンをつけたままフロアに残り、いつものように後半の片付け作業を手伝い続けていた。
しおりちゃんは相変わらず野生的な身軽さで、木製の椅子を次々とテーブルの上へとリズミカルな音を立てて持ち上げていく。結衣ちゃんは少し湿らせたダスターでステンレス製のカウンターの表面を忙しなく拭き上げ、美咲さんはレジの陰に腰を下ろしたまま、今日の売上金の紙幣を淡々と数え上げていた。茜は静かな歩調で、今日最後となる汚れた磁器のカップの山を、バックヤードのシンクへと運んでいく。
「茜」
カウンターの奥から響いた美咲さんの低い声が、彼女の物理的な動きをピタリと止めた。
茜は足を止め、首を巡らせた。
「はい、美咲さん」
美咲さんの細い指先が、バーの隅にある小さなテーブルを真っ直ぐに指し示した。
「その角の席に置き去りにされてるやつ、忘れないうちに片付けちゃいなさい」
木製の天板の上には、今朝の営業前に原材料の在庫をメモするために使われた、何枚かの古い裏紙が放置されていた。茜はそこへ歩み寄り、両手でその紙の束を静かに拾い上げた。それは、どこにでもあるただの白いコピー用紙だった。薄く、清潔で、指先には何の凹凸も感じられない無機質な素材だ。
彼女はその何も書かれていない白い表面を、重苦しい静寂の中でしばらくの間じっと見つめていた。すると、彼女の想像力の網をすり抜けるようにして、全く新しいフィクションの幻影が脳裏に跳ね起きた。
――もし、いつか遠い未来の日――自分が紡いできたこのファンタジーの原稿が、本当に印刷機のドラムをくぐって一冊の形になるのだとしたら。
茜は手の中の紙を、機械的な動作で裏返してみた。その時、私の手のひらは、一体どんな重みを感じるのだろう。
それは、文学的な修飾でもなければ、おこがましい比喩でもなかった。この数ヶ月の間、キーボードの前でどれほど脳の細胞を絞り尽くそうとも、シーナとミナミの冒険譚は、ノートパソコンの液晶画面が放つ青白い光の配列としてしか存在していなかったのだ。マウスのカーソルによって動かされる、背景の白の上に並んだ黒い文字の羅列。フォルダの階層の中に格納され、指先一つの操作で開くことも、閉じることも、あるいは綺麗さっぱり消去することもできる、実体のない電気の波に過ぎない。
しかし、本というものは違う。本は、世界に実在する具体的な物質だ。容積があり、重量があり、三次元の空間を占拠する物理的な肉体だ。人はその端を指で掴むことができ、バッグの中に忍ばせて家に持ち帰ることができ、夜のテーブルの上に置いて、電気の供給がなくても何度でも同じページをめくり返すことができる。
茜は手の中の薄い紙をじっと凝視し続けた。生まれて初めて、自分の小説が「物質」としてこの世界に着地するイメージが、恐ろしいほどの現実味を持って彼女の指先に宿り始めていた。
「茜ちゃん?」
不意に横から声をかけられ、茜はハッとして我に返った。首を九十度巡らせると、すぐ目の前に、竹ぼうきの柄を握りしめたしおりちゃんが真っ直ぐに直立していた。
「ん? どうしたの、しおりちゃん」
「マフラー巻いてアパートに帰る準備、まだしないの?」
「うん、もうちょっとだけ。この紙を片付けたらね」
しおりちゃんは茜の手にある真っ白な裏紙を、不思議そうに眉をひそめて覗き込んできた。
「何それ。茜ちゃんの頭の中で、また新しいお話の文章を書き殴りたくなっちゃったの?」
茜は小さく、弱々しく首を横に振った。
「ううん、書くわけじゃないのよ」
「じゃあ、どうしてそんなに長い間、その空っぽの紙をじーっと見つめてるの?」
茜は手を下ろし、残された白い紙を見つめ直した。その瞳には、かつてない静かな光が宿っていた。
「私……本の形について、考えていたの。物理的な、本そのものの姿について」
しおりちゃんは特に難しいことを考える風でもなく、当然のような顔をして小さく頷いた。
「ふーん、そうなんだ……」
ショートヘアの少女はそう短く応答すると、それ以上の言葉を重ねることもなく、再び身体を反転させて木製の椅子を並べるいつものルーティンへと戻っていった。茜はその後ろ姿を、唇の端に苦笑を浮かべながら見つめていた。
「あなたのその徹底的に平坦なリアクション、今の私の胸には、なんだか少し物足りなく響くわよ、しおりちゃん」
茜が探るように小さく囁くと、しおりちゃんは掃除の手を一時停止させ、左の肩越しに視線の端だけを向けてきた。
「え? だって、そんなの普通じゃん。茜ちゃんの胸の中にさ、『このお話を本にしたい』っていう頑固な目的がロックされてんでしたら、あとは自分の手でその形になるように作っちゃえばいいだけでしょ? それ以外に何か複雑なやり方でもあるの?」
彼女は至って日常的な、飾り気のないトーンでそう言い放つと、再び何事もなかったかのように床にほうきを走らせ始めた。茜はその場に立ち尽くしたまま、言葉を失っていた。
その通りだ。しおりちゃんの口から出た言い分には、文学的な深みもなければ、高度な出版理論の背景もない。しかし、どうしてだろう。その極論の核心は、今の茜のロジックにとっては、どうしても間違いだと退けることのできない絶対的な真理を含んでいた。
夜になり、自分の足がようやく静まり返ったアパートの床を踏みしめた後も、茜は台所で大したエネルギーを消費することなく、簡単なレトルトの夕食を済ませた。今夜の彼女は、自らの物語のメインファイルを開きたいという焦燥感に振り回されてはいなかった。黒いノートパソコンは折りたたみテーブルの上ですでに立ち上がっており、第十三話の最終行の後ろで、黒い小さなカーソルが規則正しく点滅を繰り返している。シーナという名前はそこに沈黙したまま、作者の手によって次の運命が執行されるのを静かに待っていた。
だが、今夜の茜のベクトルの矛先は、全く別の領域へと固定されていた。彼女は画面の隅に、新しく何も書かれていない検索ウインドウを開き、自らの指先で、一つの具体的なキーワードを打ち込んだ。
――個人での本作り、具体的な方法。
エンターキーを押し下げた次の瞬間、何百行もの検索結果が一気に画面の上へと溢れ返った。
茜は視線のピントを合わせ、その説明の文字列を、夜の時間が一分、また一分と進んでいく中で、ゆっくりと丁寧になぞり始めた。そこには、複雑な面付けの図表や、見開きページの余白の設定サンプル、表紙のシミュレーションデザイン、端的に言って素人の頭脳には到底一瞬で解決することの叶わない、おびただしい数の専門的な手順が並んでいた。
「本の寸法……」
スクロールする指の動きは、どこまでも慎重だった。
「こんなに細かく、頑丈なルールに縛られているのね」
画面を下へと引き下げる。
「総ページ数の計算……」
さらに引き下げる。
「無線綴じ、糊の強度……」
茜の指が、完全に動きを止めた。彼女は引き出しの奥から使い古した小さな革手帳を取り出すと、金属製のペンの先端を強く握りしめ、白いページの上に自らの手作業の手順書を書き殴り始めた。
一、本文の印刷。
二、丁合い(手作業でのページ順序の整理)。
三、無線綴じによる背表紙の固め。
四、表紙の巻き付け。
茜は手帳の上に並んだ、その四行のリストをじっと見つめていた。その時、彼女の胸の奥を、不思議なほどに透き通った安心感が満たしていくのを感じた。それまでの数日間の夜を支配していたあの不気味なパニックの霧が、手帳の上に落とし込まれた明確なステップによって、頭の中でほんの少しだけ現実的な仕事の形へと変わったからだ。印刷して、揃えて、固めて、包む。その道筋は、驚くほどに直線的で、具体的だった。
「基本の手順としては、このルートをなぞればいいのね……」
茜は小さく確信を含んだ頷きを返した。しかし、彼女の視線が次のページにある専門のガイドラインをなぞった瞬間、その青白い顔は一瞬にして硬直した。
「え……? どうして、急にこんな面倒な話になるのよ」
画面の上には、素人の理解を拒むような、紙の重さを表す「斤量」の数値や、本文の厚みを劇的に変化させる紙質の種類が、恐ろしい密度で並んでいた。茜は手帳のリストの端っこに、小さなインクの文字で新しい疑惑の種を書き足した。
――紙の種類による特性の違いとは?
さらにその次の瞬間、彼女の目は、個人で本を作るために要求される、具体的な印刷費用のシミュレーション数値の羅列に叩きつけられた。茜は液晶を見つめたまま、一文字ずつの数字を自らの脳内でなぞり直し、それから手元の計算機を動かして、一人のパート従業員としての現実的な生活費とそれを擦り合わせてみた。画面に跳ね起きた最終的な結果の数字を目にした瞬間――。
茜は無言でクリアキーを叩き、液晶の明かりを消し去った。その顔からは完全に血の気が引いていた。
「冗談じゃないわ……こんな金額、今の私の生活を根底から破壊しかねない……」
彼女は条件を操作し、製作する部数を極限の最低ラインまで引き下げて計算し直してみた。しかし、弾き出された数値は、やはり彼女の貧しい財布が受け止めるには、あまりにも重く、容赦のない現実の壁だった。茜は胸の奥から重苦しい溜息を深く吐き出すと、折りたたみ椅子の背もたれに自らの体重を預け、力なく項垂れた。
誰も保証してくれない自費出版という荒野の道は、資本のない素人に対して、優しい抜け道など何一つ用意してはくれなかったのだ。
静まり返った室内の空気の中で、彼女の記憶は、昨日あの席で佐藤が放った冷酷な言葉の断片を、自動的に再生し始めていた。大手の出版社が支配する泥臭い産業のリアル、市場の好みに自らを適合させる妥協の必要性、そしてシステムの外側にある、孤独で絶対的な自由。
これまでの夜なら、その声の残響が鼓膜に触れるたびに、茜は作家としての自尊心をズタズタに引き裂かれ、暗闇の中で身悶えしていたに違いない。
しかし、今夜の彼女の肌が感じている手触りは、昨日までとは全く違っていた。彼女はもはや、佐藤の言葉を自分を脅かすおぞましい化物のようには見ていなかった。彼女の目は、その冷酷な宣告を、ただ自分の手で一つずつ解体し、片付けていかなければならない「具体的な仕事の山」として冷徹に観測していたのだ。それは決して快適な道ではないし、肉体的な安らぎを与えてくれるオルタナティブでもない。だけど、この自由のルートは――少なくとも、この現実世界において、自分の手で物質化できる可能性が、何パーセントかは確かに存在しているのだ。
茜は再び、ノートパソコンの前に背筋を伸ばして座り直した。今度はより頑なな意志を指先に込めて、新しい検索窓に、さらに具体的なキーワードを叩き込んだ。
――小説、一冊単位での製本。
画面の上には、世界の外側で同じようにあがいている、名も知らないアマチュア作家たちの体験談の断片が次々と跳ね起きてきた。そこには、自分の作品をただの個人的なコレクションとして数冊だけ形にする者もいれば、小さなコミュニティでの配布のために数十冊を刷る者、固定された既存のシステムなど一切介さずに、個人の展示即売会のブースに自らの本を並べ、見ず知らずの他人の手へ直接手渡して売っている、泥臭い個人作家たちの記録が並んでいた。
茜はそれらの文字列を、胸の奥の微かな鼓動を感じながらじっと読み進めた。その胸のときめきは、決して安易な期待のせいではなかった。それは、どれほど険しく不可能に見えるルートであっても、自らのこの一対の足でその未開の地面を踏み荒らしてみたいという、純粋で暴力的な好奇心の炎が、ようやく自らの行くべき核心を見つけたという、魂の確信の響きだった。
彼女は再びペンを握り、手帳の新しいページを開くと、太い文字で新しいタイトルを書き殴った。
――『ギルドの受付嬢』、物質化への構造。
その真下に、彼女は自らの意志の表明として、先ほどの四行のリストをさらに固く書き写した。
・本文の印刷。
・ページの面付け。
・背表紙の糊付け。
・カバーの装丁。
彼女はその四行の言葉の連なりを数秒間だけ睨みつけ、それから、その真下にさらに三行の、最も本質的で冷酷な問いかけを付け加えた。
・私の生活費において、最も論理的な製作部数は何冊か。
・読者にとって、最も手を取りやすい誠実な価格設定はいくらか。
・完成した本を、私は一体どこの空間に並べて売ればいいのか。
茜は、自らの手で生み出したその最後の三行をじっと見つめ続けた。これらの言葉は、もはや液晶画面の向こう側にあるシーナやミナミの運命をどうコントロールするかという、フィクションの内側のパズルではなかった。物語が最後のページで一箇所の句点に到達したその瞬間に、この現実世界において、自分の肉体が次に実行しなければならない、具体的な仕事の方程式そのものだった。
彼女は画面の隅に格納されていた、小説の本編のファイルをもう一度だけ開き直した。シーナの輪郭は、今もアパートの古い木製ドアの前で静かに立ち尽くしたまま、自らの運命の続きを待っている。お話はまだ終わってはいない。そして、この静まり返った真夏の夜において、茜はこれ以上キーボードを叩いて新しいプロットを書き進めるような真似はしなかった。
彼女はただ、そのファイル名を愛おしむように見つめ、それから再び、夜が明けてフロアのベルが鳴り響く時間まで、印刷のデータベースをひたすらに貪り読み続けた。彼女の生活の中に、新しい不器用な習慣のギヤが、完全に噛み合って回り始めた夜だった。
数日が変わる日常のルーティンが過ぎていった。茜の毎日の生活の中に、新しい厳格な周期が形作られていく。カフェのシフトを終えてアパートに戻り、狭い台所で簡単な食事を済ませると、すぐにノートパソコンを立ち上げて真夜中の静寂に向き合う。
しかし、彼女の指先が最初に開くのは、もう小説の本編ファイルではなかった。茜は毎夜、自らの脳内が一度に処理できる限界を越えないように、印刷や製本のシステムに関する情報を少しずつ、丁寧に解剖して自らの中に浸透させていった。
ある夜は個人向けの印刷所の仕組みを調べ、次の夜は文庫本の標準的なサイズの規格を確かめ、また次の夜は背表紙を固めるための糊の温度変化についてだけを貪り読む。
当然ながら、その未開の独学のルートが、いつも滑らかに進むわけではなかった。大半の夜は、専門用語の迷宮に足を取られて、頭が痛くなるほどの焦燥感に打ちのめされるのが常だった。ある夜など、あまりにも複雑に絡み合った製本の面付けの手順を読まされた挙句、茜はたまらずパソコンの画面を押し下げ、手帳の文字を眺めたまま完全に思考が空っぽになって立ち尽くしてしまったほどだった。
「……つまり、これを実践に移そうとしたところで」
茜は歪んだ手帳の文字を見つめ、低く吐き出すように呟いた。
「……私の頭の神経は、この糊付けの手順について、まだ何一つ本質を理解できていないってことね」
彼女は自分の額を、木目の天板の上へとコン、と小さな音を立てて落とし、身動き一つしないまま数分間のフラストレーションの残響を味わっていた。しかし、彼女の首の筋肉が、再び背筋を伸ばして立ち上がるまでに、そう時間はかからなかった。彼女は液晶画面を押し上げ、同じデータをもう一度開き直すと、その冷酷な文字列を、より頑なな目でもう一度最初から読み返し始めた。
少しずつ、本当に一歩ずつ、言葉の本質が彼女のロジックの網に引っかかり始める。手帳の余白に、自分だけの具体的な手順の文字を書き加えるだけの隙間が、ようやく生まれつつあった。
そして、ある空気の冷え切った夜、彼女の胸の奥の衝動は、ついに室内のテーブルの上で、ある物理的な実験のステップを踏み出させるに至った。それは本物の本を作るためのプロセスではなかった。ただの、紙を使った不格好で粗末な試作品の製作だった。
彼女は自らの古い家庭用プリンターを動かし、第十二話のいくつかの原稿のページを白い裏紙に印刷して、テーブルの上にその束を並べた。指先を慎重に動かし、ページの面付けの順序が狂わないように、一枚ずつの端を綺麗に揃えて重ねていく。
茜は右手の親指を滑らせ、その印刷された試作の第一ページをめくってみた。第二ページ。第三ページ。文字の連なりが、自らの指先の手触りを通じて、規則正しいリズムでめくられていく。その確かな質感を肌で感じているうちに、彼女の胸の奥に、じわりと温かい手応えが満ちていくのを感じた。
「紙のレイアウトとしては……おそらく、これで間違っていないはずよ」
茜は満足のいく小さな呟きを漏らした。彼女はそのバラバラの白い紙の束を、両手のひらで挟み込むようにして、一つの引き締まった塊へと整えた。続いて、彼女は手元にあった厚手の色画用紙を一枚切り取り、その紙の束の背表紙の周りに、仮のカバーを巻き付けるようにして宛がってみた。両手のひらに力を込め、その不格好な塊をギュッと凝縮するようにして押しつぶす。
薄暗い室内の明かりの下で、彼女の手に握られたその紙の塊は、ほんの数秒間だけ、本物の文庫本が持つ美しいシルエットの影を、確かに机の上に投げ出してみせた。茜の唇の端に、抑えきれない幸福な笑みがこぼれ落ちる。
「……第一段階は、成功ね」
彼女はもう一度親指を動かし、本文のページが滑らかにめくれるかどうかをテストしようとした。しかし、彼女の運動神経のコントロールの及ばない領域で、中ほどの一枚の紙が、糊の塗りの不均等さのせいで内側の隅っこで無惨にひきつれて固まってしまった。茜の指の動きが、はたと停止する。
茜は眉をひそめ、そのひきつれたページの端を、少しだけ力を込めて強引に押し開こうと試みた。だが、不器用なその圧迫は、かえって最悪の視覚的崩壊を招いた。背表紙の仮止めがズルリと剥がれ、両手のひらの中で、それまで綺麗に揃っていたはずの白い紙の束が、一瞬にしてバラバラのトランプのようにはみ出し、あらゆる方向へと不格好に突き出してしまったのだ。茜は、自分の手の中で完全に自壊してしまったその不細工な紙の残骸を、しばらくの間、静寂の中でじっと見つめ続けた。
「……」
彼女はもう一度、その歪んだ紙の順序を揃え直し、今度は手元にあった細い麻紐を手繰り寄せると、背表紙の代わりにその中心を一番シンプルな結び目で縛り上げてみた。しかし、完成したその実体は、先ほどよりも何倍も無惨で不格好な、ただのゴミの塊にしか見えなかった。ページの端はガタガタで、ある一枚は上部へ大きくはみ出し、別のページは下へと斜めに傾いて、まるで崩れかけた階段のようなひどい段差を作っている。
茜は、自分が一晩中エネルギーを注ぎ込んで作り上げたその妙な紙の怪物を机の上に置き、それから――堪えきれずに、鈴の鳴るような軽い笑い声を室内の静寂に響かせた。
「……ひどいわね。これじゃあ、ただの不格好な紙のゴミじゃないの」
茜は可笑しそうに首を振りながら、自らの無骨な手際の悪さに笑うしかなかった。
不思議なことに、その夜の彼女の胸の中には、作家としてのプライドを傷つけられたような怒りは一滴も湧いてこなかったし、自分の無力さを呪うような、あの嫌なフラストレーションの泥に引きずり戻されることもなかった。彼女の胸を満たしていたのは、自らの手を動かして失敗したことへの、これ以上なく健全で、心地よい手応えの感覚だった。
なぜなら、目の前にあるその不細工な紙の塊の欠陥こそが、茜の意識に対して、最も具体的な現実を教えてくれていたからだ。本物の文庫本というものは、単に文字が印刷された紙の束を、適当な糊で四角く固めただけの記号ではない。それは、職人の精緻な技術の蓄積によって成り立つ美しい工芸品であり、自分はその製本のシステムを、自らの手のひらと流れる汗を使って、完全にゼロの地点から学び直さなければならないという、その動くことのない産業のリアルを。
茜は麻紐の結び目を丁寧に解き、歪んだ紙のページをもう一度一枚ずつバラバラにして、机の上に平らに並べ直した。その一連の地味な動作の一つ一つを、自らの学びの痕跡として愛おしむようにして、ゆっくりと片付けていった。
翌朝、喫茶店のフロントのドアが開け放たれた開店の直後、茜は夕べ自分が作り上げたあの不格好な試作の紙の残骸を数枚、バックヤードの従業員用のカウンターの上にそっと並べておいた。
しおりちゃんが、その野生のアンテナを一番最初に稼働させ、テーブルの上の異分子を発見した。
「茜ちゃん、このカウンターの上に置いてある、この妙に不格好な工作の山は一体何なの?」
「これ、私の書いている小説の、最初の物質化のサンプルだよ」
茜は至って冷静に答えた。
しおりちゃんは許可を待つための手続きなど一切無視して、その紙の束をガシッと掴み上げ、不器用な指先でガサガサとページをめくり始めた。少女の真っ直ぐな目が、紙の端からはみ出している文字列を追い、右の斜め下へと不格好に傾いているレイアウトを凝視する。
「ねえ、茜ちゃん。どうしてこのページの中の文字って、まるで自転車のハンドルが曲がっちゃったみたいに、こんなにカクンって斜めにズレてるの?」
「それはね、夕べの私のカッターの切り方と、手作業の糊付けの手順が、まだ完全に見習いレベルの技術しかなかったからだよ。手際が悪かったの」
茜は隠すこともなく正直に答えた。
しおりちゃんはその外側の色画用紙の感触を確かめるようにして、何度も手のひらでその重量感を確かめていたが、やがて、唇の端にパッと弾けるような満面の笑みを浮かべた。
「でもさあ! 私の感覚からすれば、この工作、めちゃくちゃ格好よくて凄いと思うよ!」
茜は驚いて、同僚の顔を見つめ返した。
「しおりちゃん、一体この散々な出来栄えのどこを見て格好いいなんて言うのよ」
「だってさ、こうして全体の形を遠くから眺めてみたら、もう本屋さんに並んでる本物の文庫本みたいに強そうなシルエットに見えるもん!」
しおりちゃんは屈託のない、嘘のない目でそう言い切った。茜はしばらくの間、彼女の笑顔を見つめたまま、静かな空気の中で立ち尽くしていた。
ラックのガラス棚に清潔な磁器を並べていた結衣ちゃんが、音もなくその会話の輪へと歩み寄ってきた。彼女はテーブルの上の不格好な試作品に、プロとしての厳しい、しかし知的な視線を走らせる。
「確かに、マージンの取り方も裁断のラインも、商業の基準からすればまだ使い物にならないレベルね、茜ちゃん」
結衣ちゃんは、糊の固まった背表紙の端を細い指先でそっと撫でながら、冷静に付け加えた。
「だけど、もしあんたがこれから時間をかけて、カッターの角度や紙を切り落とす手順を一つずつ評価し直して、技術を修復していくのだとしたら……私は、この本がいつか本物の、完璧に美しい立体に変貌を遂げる可能性に、喜んで賭けてもいいわよ」
茜はゆっくりと首を縦に振り、胸の奥をじわりと温かい熱が満たしていくのを感じた。
「ええ、ありがとう、結衣さん。修正の手順は、まさにその方向で組み立ててみるわ」
その時、カウンターの影の調理スペースから、美咲さんが静かな足取りでフロアへと姿を現した。オーナーは三人の集まるテーブルの前で足を止めると、茜が夕べ命を削って作り上げたあの不格好な紙の塊を、何も言わずに右手でそっと持ち上げた。
大人の、すべてを見透かすような静かな手が、数ページの歪んだ紙をゆっくりとめくっていく。張り詰めた沈黙が数秒間だけフロアを支配した。
「なるほど。つまり、この不細工に歪んだ紙の山こそが、あんたの昨夜の睡眠時間と引き換えにこの世に生まれ落ちた、新しい仕事の成果ってわけね、茜」
美咲さんの声は平坦だった。そこに、怒りや咎め立てのトーンは一切含まれていなかった。
「はい、美咲さん。夕べ、インターネットの手順書を見ながら、初めて自分の手で組んでみたんです」
茜は小さく、慇懃に頭を下げた。
「そのルートを歩く覚悟は、完全にロックされたのね?」
茜は迷いのない、真っ直ぐな目で頷いてみせた。
「はい。まだ技術の手前で立ち往生している状態ですけれど、最初の一歩は踏み出せたつもりです」
美咲さんは手の中の紙の束を、天板の上にカサリと静かな音を立てて戻した。そして、自分の従業員の瞳をじっと見つめ、その眼差しを微かに和らげた。
「もし、あんたの決意が本物なら……私の最も重要なアドバイスは一つよ。絶対に、先を急いで作業のクロックを上げるような真似はしないこと」
茜はわずかに眉をひそめ、驚いて顔を見上げた。
「作業のスピードを上げてはならない……どうしてですか、美咲さん」
「だってそうでしょう。もしあんたがこれから先、自分の流した汗と手のひらの感覚だけで作り上げた物質を、商品として世界の外側へ送り出し、見ず知らずの他人に売ろうとしているのだとしたら……」
美咲さんは言葉を区切り、経営者としての確かな威厳を響かせた。
「……作り手であるあんた自身が、その本の中に、一体どれほど誠実で嘘のない『本質的な価値』を埋め込んでいるのか、それを完全に自覚していなければならないもの。突貫工事で歪んだものを並べるのは、ただの押し売りよ」
茜は自分の立っている場所で、完全に言葉を失った。脳の神経が、その大人の重い警告の質量を吸収しようとして、激しく稼働を始める。
美咲さんはそれ以上、小難しい出版の理論や、余計な説明の言葉を重ねることはしなかった。彼女は身体を百八十度反転させると、再びいつもの淡々とした足取りで、ステンレスのマシンの前へと引き返していった。
これ以上ないほどに短い、飾りのない忠告だった。しかし、どうしてだろう。オーナーの口から放たれたその数行の残響は、喫茶店のフロアに夕方の引き潮が訪れ、窓の外の陽射しがアスファルトの陰へと落ちていくその瞬間まで、茜の頭の芯で、ずっと心地よい警鐘となって鳴り響き続けていた。
夜になり、街の喧騒が闇の中に塗り潰される頃、茜は再び、アパートの折りたたみテーブルの前に胡坐をかいていた。彼女の目線は、机の上に置かれた、小さな手帳の白いページへと真っ直ぐに注がれていた。
数日前のものに比べれば、今のそのページは、おびただしい数の新しい用語や計算の痕跡で、何倍も不格好に、そしてびっしりと埋め尽くされている。
インクで手荒にバツ印が打たれたいくつかの印刷所の名前。巨大なクエスチョンマークが添えられた予算の方程式。何度も書き直され、その都度数字が変動している製作部数のメモ。中には、今の自分の目で読み返してみても、一体どんな実用的な意味があって書き残したのか、脳の記憶の引き出しからログを引っ張り出せないような、奇妙な暗号の連なりさえ混じっていた。
しかし、そのノートの表面に広がるテキストの混沌を見つめながら、茜の胸の奥は、不思議なほどに晴れやかだった。なぜなら、この紙の上の汚れのすべては、他人の評価やシステムの顔色など一切関係のない、自らの肉体と手のひらを使って現実世界に刻みつけた、最も誠実な闘いの爪痕だったからだ。
彼女はマウスを滑らせ、液晶画面の中に格納されていた小説の本編ファイルをもう一度だけ開き直した。一連の段落の響きを確かめるためだけに、数分間の時間を費やして文字の連なりを丁寧になぞる。リズムの乱れがないことを確認すると、彼女はそれ以上新しい文字列を書き足そうとはせず、液晶の画面を静かに押し下げて閉じた。パタン、と静かなプラスチックの音が、暗い部屋の壁に跳ね返る。
茜は両手の手のひらで自らの顎を支え、薄暗い電気の下で沈黙している手帳の表紙をじっと見つめ続けた。
脳内の記憶の引き出しが、勝手に過去のタイムラインを再生し始める。ほんの数ヶ月前の夜まで、彼女の頭の中を支配していたのは、小説を書くということに対する、ただ一つの矮小な問いかけだけだった。
――どうすれば、このファンタジーのプロットを完璧に終わらせることができるのか。
しかし、あの穏やかな夏の夜を経て、彼女の脳内に発生している問いかけの数は、フィクションの境界線を遙かに越えて、現実の産業のリアルへとその領域を拡張していた。
――この画面の向こう側にある文字列を、一冊の具体的な本という物質に変形させるために、私の肉体は、次にどんな手順を踏まなければならないのか。
そして、その新しい方程式が手帳の上にロックされた今、彼女は理解していた。明日の朝、フロアのベルが鳴り響いたその先には、今夜のものよりも遙かに残酷で、首を絞められるような難しい問いかけが、波のように押し寄せてくるであろうということを。
完成した物質としての本を、どうすれば世界の外側にいる本物の読者の目の前まで届けることができるのか。その流通のルートはどうなっているのか。どうすれば、見ず知らずの他人が、自らの財布から金を吐き出してまで自分の本を買ってくれるのか、その誠実な引力の正体は一体どこにあるのか。
茜は、今の時点では、それらの巨大な問いかけに対する具体的な解決策のデータを、自らの中に何一つ持ち合わせてはいなかった。ただの一行の正解も、そこにはない。
どこの印刷所に発注すべきかも決まっていないし、部数の変数も確定していない。一冊あたりの価格のシステムも空欄のままだし、未来のいつの日か、この世界に自分の本を最低一冊でも買ってくれる生きた人間が実在するのか、それとも、誰の手にも触れられないまま四畳半の隅っこで埃をかぶって自壊していくのか、その結果を保証してくれる法的なシステムなど、どこにも存在していない。
理想の終わりは、まだ見えない。
だが、どうしてだろう。その圧倒的な暗闇と、逃げ場のない不確実性の壁を前にしても――今の茜の肌は、それが自分を閉じ込める冷酷な牢獄のようには、決して感じていなかった。
鎖は、すでに引きちぎられていた。すべての不確実な産業のリアルは、もはや彼女の精神を麻痺させる絶望の化物ではない。それはただ、自分のこの一対の手のひらと、頑なな二本の足を使って、明日から一つずつ解体し、片付けていかなければならない、終わりのない、しかし最高に自由な「宿題の山」そのものだった。
茜は再び右手を伸ばし、ペンの先端を手帳の最下段へと滑らせた。そして、自らの魂の決意を刻みつけるようにして、太いインクの文字で、最後の一行を真っ直ぐに書き殴った。
――その答えを、骨の髄まで、暴き立てること。
パタン、と手帳が閉じられ、引き出しの暗闇へと格納される。液晶の青白い光源が消えた四畳半の室内は、一瞬にして真夏の完全な静寂へと塗り潰された。
画面の向こう側では、シーナとミナミが、まだ閉ざされた古いドアの前で動かずに佇んでいる。お話はまだ、終わってはいない。
だけど、茜の唇の端には、これ以上ないほどに穏やかで、満ち足りた本物の笑みが浮かんでいた。
なぜなら、彼女は知っていたからだ。自分がこの数日間の夜をすべて注ぎ込んで、手のひらをインクで汚しながらあがき続けてきたそのプロセスのすべてが――液晶画面の冷たい檻の中に閉じ込められていたシーナたちの魂を救い出し、本物の「命」を与えて、この生々しい人間の住む現実世界へと連れ出すための、最も誠実で、最も自由な闘いの始まりであるということを。物語は今、彼女の指先を離れて、新しい世界の空気を、確かに呼吸し始めていた。




