第27章 第二の家 (1)
翌朝、喫茶店はいつも通りの日常に戻っていた。少なくとも、大きな窓ガラス越しに外から眺める分には、昨日までと何一つ変わらない光景だった。
開店の数分前、ガラスのメインドアが内側から押し開けられる。天井から吊るされたペンダントライトが一つ、また一つと温かい光を灯し、壁際に整然と並んでいた木製の椅子がテーブルの隙間から元の位置へと引き出されていく。つい先ほどまで静まり返っていた店内に、ボイラーのタンクを温め始めたコーヒーマシンから、低い駆動音がじわじわと満ちていった。
茜はレジカウンターの前に真っ直ぐに立ち、黒い綿のエプロンの紐を腰の後ろで結んでいた。彼女の両手は、夜明け前の静寂の中で身体が完全に覚えてしまった一連の作業を、流れるように手際よくこなしていく。磁器のカップを並べ、冷蔵庫の牛乳の在庫を確かめ、トレイの表面を拭き、最初の注文のために小さなスプーンをトレイにセットする。その一連の動作は、これまで積み重ねてきた日々のルーティンと全く同じだった。
だが、いつの間に切り替わったのだろうか。フロアに散らばっている他愛のない日常の断片が、今の茜の網膜には全く違う手触りを持って映り始めていた。
美咲さんはカウンターの奥の定位置に立ち、吊り戸棚の中の在庫を確かめながら、手に持ったノートのページを淡々とめくっていた。結衣ちゃんはその少し斜め後ろで、食器棚に残された清潔なグラスの数を静かに数え上げている。そしてしおりちゃんはといえば、焼き立てのパンが並ぶ木製のラックの前に文字通り釘付けになり、今朝届いたばかりのデニッシュの山をじっと凝視していた。
「美咲さん、この右側のチョコがかかってるやつって、今日も私たちがタダで食べていい試食の枠に入ってますか?」
しおりちゃんの素朴な声がフロアに響く。
ダスターでトレイを拭いていた結衣ちゃんが、表情一つ変えずに低く窘めた。
「しおりちゃん」
「ん? 何ですか、結衣さん」
「その編みかごの中にあるパンは、すべてお客様のメニューのために用意された商品よ。あんたの胃袋を満たすためのものではないわ」
「あ、そっか……」
しおりちゃんは首を傾げ、一度はそのパンを元の位置へと戻した。しかし、それから三秒も経たないうちに、彼女の指先は無意識の反射のように動き、今度は隣にあった別のペストリーを器用につまみ食いしていた。
結衣ちゃんは諦めたような、重苦しい溜息を胸の奥から吐き出した。
「さっき、それはお客様のためのものだって同意したばかりでしょう?」
「盗み食いしようとしてるわけじゃないですよ、結衣さん。私はただ、今日のキッチンの焼き加減に極端な変化がないかどうかを、一人のプロとして厳しく確かめているだけです」
しおりちゃんはパンの端を齧りながら、至って無垢な、罪の意識などまるでない顔で言い放った。
「あんた、昨日の夜も私の部屋で、売れ残りのパンをあれだけ大量に貪り食っていたじゃないの」
「それは昨日の夜のことですよ。もし今日に限って、シェフが砂糖の分量を間違えてたらどうするんですか?」
結衣ちゃんは完全に絶句し、その頑なな屁理屈に返すための言葉を失ってしまった。
レジカウンターの影からその一連のシュールなやり取りを見つめていた茜の口元に、自然と張り詰めていた力が抜け、小さな本物の笑みが浮かんだ。もしこれが一ヶ月前の朝だったとしたら、彼女の目は周囲のそんな光景を一瞥もくれていなかったに違いない。彼女の魂は、目の前のレジの操作や、複雑な注文の順序を暗記することへの焦燥感に押し潰され、あるいは頭の中で立ち往生しているファンタジーのプロットの壁を前に、一人で勝手にパニックを起こしていたはずだからだ。
しかし、今朝の光景は違った。彼女の目には、しおりちゃんが自らの奇妙な言い訳を本気で正しいと信じ込んでいるその無垢な心理や、結衣ちゃんが自分の神経細胞を総動員してその野生の行動を受け流している日常のあり方、美咲さんが一瞥しただけで在庫の数値を正確に把握しているその大人の観察眼が、ありありと見えていた。
それらの断片は、どれもこれも徹底的に些細で、取るに足らない、社会の大きな物語とは何の関係もない不格好なディテールだ。もちろん、彼女の書いている小説の進行にとっても、一文字の役にも立たない雑音。
だが、茜の胸の奥には、全く新しい啓発の質量が満ち始めていた。現実を生きる人間の日常というのは、いつだって、崇高な目的や哲学的な目標など何一つ持たない、無意味な作業の積み重ねでできている。しかし、まさにその不合理で些細な営みの蓄積があるからこそ、一人の人間は記号ではない、生々しい「自分自身の命」を宿して生きることができるのだ。
茜の右手が、ピッチャーに冷たい牛乳を注ぎ込む途中で、一瞬だけピタリと止まった。
彼女の思考のベクトルが、アパートの液晶画面の向こう側で佇んでいる、あのシーナの輪郭へと真っ直ぐに跳ね返る。
――シーナも、これと同じでいいんだ。
茜は胸の中で、自らに言い聞かせるように強く念じた。
主人公であるはずの彼女に、プロットを強引に回すための英雄的な決断や、世界を救うための重要なセリフを毎ページ喋らせる必要なんて、どこにもないのだ。時に彼女は、台所の整理整頓という家庭的な雑事に全神経を注いで眉をひそめればいい。ミナミの洗濯物の出し方に対して、ただの居候の分際で長々と小言を垂れ流していればいい。不安の裏返しとして、どうでもいい世界の理屈を喋りすぎてもいいし……あるいは、何をするでもなく、ただ窓の外の雨をじっと見つめたまま、一言も喋らずにそこに座っていてもいいのだ。
キャラクターを、作者の都合の良いルートへ運ぶためのロボットのように動かしてはならない。彼らがその足で歩くためには、生活という名の、不格好な呼吸の余白が必要なのだ。
茜はスチームのバルブを回し、白い蒸気の唸りを止めた。温かいカフェオレが、磁器のカップの中に完璧なグラデーションを描いて完成する。彼女はそれをトレイに載せると、バーの境界線をまたいでフロアへと歩み出た。
「お待たせいたしました。カフェオレでございます」
茜は静かな、丁寧な所作でカップを木目の天板へと下ろした。
席にいた中年男が顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。
「ああ、ありがとう、お嬢さん」
茜は小さく慇懃な一礼を送ると、再び同じ歩調でカウンターの奥へと引き返した。何百回と繰り返してきた、単調なルーティンの地続きだ。しかし、彼女の頭の芯では、昨夜まで彼女の行く手を塞いでいたあの不気味な行き詰まりの霧が、確かな音を立てて動き始めたギアによって、静かに切り裂かれ始めていた。
時計の針は容赦なく進み、店内の空気は一気に昼時のピークへと突入していった。木目の温もりに満ちていた空間は、押し寄せるビジネス街の住人たちの足音と、注文を告げる声の波によって、あっという間に喧騒の渦へと塗り替えられていく。
「四番テーブルに、温かいカフェオレ一丁!」
「テイクアウトのアイスアメリカーノ二杯、急ぎめでお願いします!」
「結衣さん、三番テーブルのデニッシュ、もう焼き上がってますか?」
注文の伝票が途切れることなくレジから印字され、フロアの従業員たちには、一瞬の呼吸の隙すら与えられない。
「ええ、今トレイに載せたわよ!」
「しおりちゃん、このお盆を今すぐ四番テーブルへ運んで!」
「了解です、任せてください!」
しおりちゃんはその野生の身軽さを発揮して、白い磁器のカップを左右の手に一つずつ掴み上げ、そのまま通路へと飛び出していった。
レジの前で全体の様子を観測していた茜が、思わずその背中に声をかける。
「しおりちゃん、足元気をつけて。床のタイルで滑らないでね」
「大丈夫です! 私の体幹のバランスは、完全に陸上のアスリート並みですから!」
しおりちゃんは自信満々に言い放った。しかし、中央の通路を四歩ほど進んだまさにその瞬間、彼女の身体の動きが、まるで舞台の幕が下りたかのようにドラマチックに完全停止した。
ショートヘアの少女は、自らの両手に握られた二つのカップを交互に見つめ、それからフロアの隅にある目的の席を凝視し、再び手元の液体へと視線を落として激しく眉をひそめた。
「茜ちゃん……」
しおりちゃんの声が、急に蚊の鳴くようなボリュームに縮小する。
「ん? どうしたの、しおりちゃん」
「私の頭の中の脳細胞に、ちょっとだけ指示を上書きしてほしいんだけど……さっき美咲さんが淹れてくれたカフェオレって、私のどっちの手の方のやつだっけ?」
茜は小さく、諦めの混じった吐息をもらした。
「あなたの左手の方に握られてるカップだよ、しおりちゃん」
「あ、そっか! 了解!」
しおりちゃんは何事もなかったかのように、再び軽快なステップで席へと向かっていった。
茜はカウンターの影で、最悪の悲劇を覚悟しながら数秒間息を潜めていた。しかし、彼女の焦燥は杞憂に終わった。二つの磁器のカップは、一滴の液体もこぼれることなく、無事にお客様のテーブルへと着地した。茜は胸の奥から、張り詰めていた重い空気を深く吐き出した。
トレイを拭いていた結衣ちゃんが、その横顔を覗き込み、笑いを堪え切りながら小さく囁いてきた。
「茜ちゃん、あんた今、まるで人生の重大な試練の境界線を越えたみたいな、すごい顔をしていたわよ」
「ううん……何でもないの」
茜は苦笑を浮かべ、静かに首を横に振った。
その後の時間も、喫茶店の日常はいつものリズムに従って淡々と回り続けていった。しかし、夕方近くになり、フロアを埋めていた人の波が引き潮のように去っていくと、茜の意識の核心は、自らの意志とは関係なく、ある一つの具体的な「物体」のイメージへと何度も何度も引き戻されていた。
――本。
今日の彼女の思考をロックしているのは、もはやファンタジーのプロットをどう組み立てるかという、テキストの技術論ではなかった。シーナがどこへ逃げるべきか、物語の結末をどう執行するか、そんな不確実な空論ではない。彼女の脳裏に生々しい質量を持って転がっているのは、紙とインクで物質化された、一冊の「本」そのものの形だった。
しおりちゃんと結衣ちゃんが私の部屋を去った昨夜遅く、液晶画面の明かりの前で、自分が最初に入力したあのあまりにもシンプルで直球な検索ワードを、彼女の記憶は鮮明に覚えていた。
――本を自分で作るには、どうすればいいのか。
エンターキーを叩いた次の瞬間、画面の上には何百行もの検索データの波が溢れ返り、素人の頭脳には到底処理しきれないほどの大量の情報が、一気に彼女の網膜へと叩きつけられた。
プロットを書く前の彼女は、個人で本を作るというプロセスを、学校の課題のプリントを複合機で印刷してホチキスで留めるような、それくらいの手軽な作業と大差ないものだとナイーブな勘違いをしていたのだ。
しかし、産業のリアルが記された画面の文字は、彼女のそんな甘い思い込みを容赦なく叩き潰した。物質としての本の世界には、素人の立ち入りを拒むような、冷酷で頑丈なルールの壁がいくつも並んでいたのだ。
本のサイズ(判型)の規格。ページの厚みを決定する紙の繊維の種類(紙質)。折り畳んだときに順序が狂わないための面付けの計算。高温の糊で背表紙を固める無線綴じの技術。表紙のデザイン(カバー装丁)のレイアウトデータ。そして何よりも、それらのプロセスを執行するために要求される、決して少なくない最低部数と資金という名の、絶対的な現実の壁。
リンクを一つクリックするたびに、彼女の理解の範囲には存在しない、不気味な印刷用語や専門の記号が次々と跳ね起きてくる。
その説明の羅列はあまりにも長く、重く、アマチュア作家のエゴを冷酷に押し潰そうと迫ってきた。茜は昨夜、途中でたまらずパソコンの画面を押し下げ、自らの胸の奥の息苦しい脈動を落ち着かせるためだけに、数分間、暗闇の中で身動き一つできずに立ち尽くしていたほどだった。
だが、どうしてだろう。その痛みが一度収まると、彼女の手は磁石に引き寄せられるようにして、再びノートパソコンの画面を開いてしまっていた。なぜ自分がそこまで頑なにそのルートを探そうとしているのか、作者である彼女自身にもまともな論理的説明はつかなかった。
ただ、おそらく、彼女の遺伝子の端っこには、どうしようもなく不器用な「頑固さ」が組み込まれているのだろう。その自費出版の道というルートが、険しく、不可能であればあるほど――彼女の胸の奥では、自分自身の足で、その誰も保証してくれない未知の荒野を踏みしめてみたいという、純粋で暴力的な好奇心の炎が、静かに、しかし熱く燃え上がってしまうのだった。




