第28章 決断
その夜、茜はすぐには布団に入らなかった。
四畳半の狭いアパートの折りたたみテーブルの上では、ノートパソコンが頑なにその画面を開き、青白い液晶の光で室内を一定に照らし出している。画面に表示されているのは、ここ数日何度も見つめてきた個人向けの少部数印刷所の発注フォームだった。だが今夜の彼女は、そこに並ぶ文字の連なりを深刻な顔で睨みつけてはいなかった。もう何度も、狂ったようにこの規律の羅列に目を通してしまったからだ。
判型の規格、紙質の種類、本文の印刷、丁合いの手順、無線綴じの強度、カバー装丁のレイアウト。そして、最低部数と製作資金の方程式。中には、まだ完全にその実用的な意味を脳の引き出しに格納できていない印刷用語もいくつか混じっていた。
パソコンのすぐ脇には、夕べ古い家庭用プリンターで刷り上げた不格好な紙の残骸が散乱している。カッターの裁断ラインは斜めに歪み、ページの面付けの順序は狂い、背表紙を固めるための仮のカバーは糊の不均等さのせいで無惨にひきつれていた。
茜はその不細工な紙の怪物を右手で持ち上げ、パラパラとめくってみた。どう贔屓目に見ても、本屋の棚に並ぶ美しい文庫本のクオリティには遠く及ばない。ただの粗末な工作の山だ。だけど、それでも――この物体は確かに、今自分の手のひらの上に実在し、確かな重量感を伝えてきている。数日前まで、この部屋の暗闇の中で想像することさえ叶わなかった、小説の具体的な「肉体」がここにある。
茜は試作品を静かに天板へと戻し、視線を液晶画面のフォームへと戻した。
矢印のカーソルが重苦しく動き、製作部数を指定する入力欄の上で止まる。茜はキーボードを叩き、一つの数字を入力した。
――一。
マウスを握る右手の動きが、空間の真ん中でピタリと停止した。たったの一冊。十冊でも、百冊でもない、究極の最低ライン。
もし完成した物質の出来栄えが最悪だったとしても、それは不器用な自分自身の勉強代として割り切ればいい。どこか面付けの手順に狂いがあるなら、次のデータでいくらでも修復すればいいだけだ。茜はスマートフォンの計算機を開き、一人のパート従業員としての現実的な生活費と残高の方程式を静かに弾き出すと、ゆっくりと呼吸を整えた。
「……大丈夫、まだ耐えられる」
静まり返った室内の空気に向かって、彼女は低く呟いた。
続いて、本のサイズを選択する項目をクリックする。茜は部屋の棚に並んでいる使い古した文庫本たちの寸法を思い浮かべながら、標準的な規格のボタンを選択した。確固たる自信があったわけではない。ただ、自分のこの足で未知のルートへと踏み出すだけの、頑なな蛮勇だけがそこにあった。
次は、本文の紙質の種類だ。理解の範囲を越えた不気味な選択肢の羅列を前に、彼女は眉の間に深い皺を刻んだ。一度はボタンを押したものの、二秒後には別の種類に変更し、さらにその数秒後には元の選択肢へと戻す。もし、すべての印刷工学のシステムを完璧に咀嚼できるまで決断を先延ばしにするのだとしたら、彼女の肉体は一生かかってもこの四畳半の部屋から動くことはできないだろう。
最後の項目は、表紙の装丁データのアップロードだった。プロのデザイナーが手がけるような、完璧に洗練されたレイアウトデータなど持ち合わせているはずもない。しかし、彼女の手帳の真裏には、この数ヶ月の間夜明けまで悩み抜いて描き殴ってきた、不器用なスケッチのフォルダが存在していた。茜は送信コマンドを選択し、その画像ファイルをシステムの階層へと格納すると、一番下の確定ラインへとカーソルを滑らせた。
製作部数、一冊。
茜は発注ボタンの真上に矢印をロックした。人差し指が、プラスチックのスイッチに触れたまま再び静止する。今度の沈黙は、先ほどよりも遙かに長く、重かった。
脳裏に、あの冷酷な佐藤の横顔が鮮烈に跳ね起きる。張り詰めた編集部の一室で突きつけられた、自尊心を切り裂くようなあの詰問の残響。商業出版という泥臭い産業のリアル、市場の好みに自らを適合させる妥協の必要性、そして既存のシステムの外側に横たわる、孤独な絶対的自由。
その直後、今度はしおりちゃんのあの至って無垢な、罪の意識ゼロの顔が目の前に割り込んできた。世界のルールやはしたない作法の基準など一瞥もくれることなく、ただ早く満腹になりたいという自らの内面的な動機だけで、おにぎりをカップラーメンの器の中へと躊躇なく放り込んでいた、あの乱暴で合理的な決断のあり方。
茜の唇の端に、小さな本物の笑みが浮かんだ。
目指している終着点が「物語を最後のページまで執行すること」で一致しているのだとしたら、どうして世界の用意した一本のレールにこれほど頑なに縛られる必要があるのだろう。別の道を作って歩き出したって、誰にも文句を言われる筋合いはないはずだ。
彼女の人差し指が、力強くスイッチを押し下げた。
カチリ、と静かな音が室内に響く。
茜はそのまま、数秒間のあいだ微動だにせず硬直していた。終わった。すべての処理のログが確定した。
室内に劇的なオーケストラの音楽が鳴り響くこともなければ、窓の向こうから祝福の奇跡の光が差し込んでくることもない。ただ、パソコンの排気ファンが放つ低い微風の音と、はるか遠くの大通りを走り抜ける自動車の不鮮明な排気音だけが、変わらない夜の静寂を刻んでいた。茜は今、一冊の本を発注したのだ。まだ物語の最後のページに、一箇所の句点すら書き終えていない、未完のフィクションの肉体を。
彼女は液晶画面のシステムメッセージを見つめ、それからおもむろに手元の手帳を開き直した。書き殴られた黒いインクの文字と、モニターの画面を交互に何度もなぞり直す。
「これ……」
茜は乾いた喉の奥で、小さく生唾を飲み込んだ。
「……本当に、自分の手でやっちゃったんだ」
すべてを執行し終えた後になって、そんな子供じみた素朴な問いかけが唇の間からこぼれ落ちる。自らの理解の及ばない領域に対して、生活費を削って金を吐き出してしまったのだ。茜は折りたたみ椅子の背もたれに自らの体重を預けると、自らのあまりにも無鉄砲な愚かさに対して、クスクスと軽い笑い声を漏らした。
「いいわ。どこか面付けを間違えていたら、またバラバラにして作り直せばいいだけよ」
呟いたセリフは、どこまでもシンプルで飾りがなかった。しかし、この数ヶ月の夜において初めて、茜の胸の中には、自分の進むべき道に対して「誰かの許可証」を求めようとする、あの卑屈な疾患は一滴も存在していなかった。
翌朝、茜はいつも通りの時間に喫茶店へと出勤した。しかし、彼女の行動のディテールには、一つだけ昨日までとは違う変化が刻まれていた。彼女はエプロンを締める前に、あの黒いインクの文字で埋め尽くされた小さな手帳を、カウンターの裏のスタッフ専用スペースへと堂々と持ち込んでいたのだ。そこには、新しく解剖された物語のアウトラインがぎっしりと書き連ねられている。
ラックのガラス棚に清潔なグラスを並べていた結衣ちゃんが、その様子を横目でじっと窺っていた。
「茜ちゃん」
「ん? 何ですか、結衣さん」
「あんた、今朝は随分と忙しそうなギヤで動いているわね」
茜は手元の歪んだ文字を見つめた。
「ええ。ちょっと、これからの作業の手順を整理していただけです」
「まだ、あのファンタジー小説のプロットの解剖を続けているの?」
「はい、その通りです」
レジカウンターの椅子の上で完全に議論の圏外にいたはずのしおりちゃんが、パッと弾かれたように顔を上げた。
「わあ! 茜ちゃん、もしかして、あのお話の文庫本がもう完成しちゃったの!?」
「まさか、まだ終わってないわよ」
茜は苦笑を浮かべながら首を横に振った。
「夕べ、ようやく試作の一冊を発注した段階よ」
しおりちゃんの身体の動きが、その場でピタリと完全停止した。結衣ちゃんもダスターを動かす手を止め、驚いたように細い眉をひそめた。
「発注……たったの一冊を?」
茜は確かな重みを持って首を縦に振った。
「ええ。製本のクオリティやマージンのバランスを、自分の手で確かめるためのテストよ」
結衣ちゃんは茜の真っ直ぐな瞳を数秒間の沈黙の中でじっと凝視し、それから小さく吐息をもらした。
「あんた……本当に、既存のシステムの外側にあるあの荒野の道を、たった一人で歩き始める覚悟を決めたのね、茜」
「夕べ、もう決済のログを通しちゃったから」
しおりちゃんはたまらず椅子から飛び起き、テーブルを挟んで身を乗り出してきた。
「その本、いつアパートに届くの? 私、世界で最初の読者として絶対に一番に中身を見たい!」
「まだ印刷所の出荷のスケジュールも分かってないのよ。それにしおりちゃん、あなたは昨日の昼に原稿の半分をもう読んでいるでしょう?」
「そんなの昨日のログじゃん!」
しおりちゃんは至って当然のような顔で言い放った。
「物質の形になったチャプターをめくるのは、私の脳組織にとっては全く別の新しい娯楽なんだから!」
茜は思わず言葉を失った。しおりちゃんの無作法な言い分は、しかし本質的な真理を突いていた。
結衣ちゃんがカウンターの端へと歩み寄ってきた。
「もし、その出来上がってきた物質の出来栄えが、商業の基準からして見るに堪えないものだったらどうするの?」
茜は両肩を軽くすくめてみせた。
「その時は、またデータをバラバラに解体して、カッターの手順からやり直すだけよ」
「もし、その製作にかかる総費用が、あんたの生活の限界を超えてしまったら?」
茜は一拍の間を置き、自らのロジックを確かめるようにして言った。
「その時は……また別の臨機応変なルートを、自分の意志で探すわ」
結衣ちゃんの唇の端に、知的な、しかし温かい本物の笑みが浮かんだ。
茜の口から出たその方程式は、あまりにも不器用でシンプルすぎたが、一ヶ月前の彼女の精神状態とは、完全にその手触りが異なっていた。かつての彼女なら、佐藤の放った一言の疑念や、プロの厳しい洗礼を前にしただけで、自らの存在意義そのものを全否定されたように怯え、立ちすくんでいたはずなのだ。しかし今の彼女にとって、目の前に立ち塞がる難問の壁は、ただ自分の手のひらを使って一つずつ片付けていかなければならない「宿題の山」に過ぎなかった。
夜明け前の準備からずっと、三人の会話を背中で聞いていた美咲さんが、エスプレッソマシンの蒸気の唸りを止め、ゆっくりと振り返った。
「なるほどね。つまりあんたは、大手のシステムという防波堤のないあの泥臭い産業のパイを、自らの手のひらだけで食う覚悟を完全に決めたってわけね、茜」
オーナーは真っ直ぐに茜の瞳を見つめた。
「はい。私はそのルートを進みたいと思っています、美咲さん」
「たった一人で?」
茜は一瞬だけ沈黙し、それから、隣で目を輝かせているしおりちゃんの顔を見やり、静かに微笑んでいる結衣ちゃんの横顔をなぞり、最後に美咲さんのすべてを見透かすような鋭い瞳を見つめ返した。
「……いいえ。決して、完全な一人ではないと思っています」
誰もそのセリフに対して、大真面目な言葉を返す者はいなかった。しおりちゃんは満足そうに何度も首を縦に振り、結衣ちゃんは穏やかな笑みを崩さず、美咲さんは再び、何事もなかったかのように手元の在庫管理ノートへと視線を落とした。
フロアに拍手の音が鳴り響くこともなければ、芝居がかった祝福の言葉が飛び交うこともない。小さな木目の喫茶店の日常は、その基本的なクロックを崩すことなく、いつも通りのリズムで淡々と回り続けていた。フロントのガラスドアのベルが鳴り響き、街の喧騒を切り取った新しいお客様が、朝のコーヒーを求めて次々と滑り込んでくる。茜はすぐにレジカウンターの定位置へと引き返し、いつも通りの丁寧な所作で入金の手続きを実行し始めた。しかし、そのエプロンの内側にある彼女の魂の質量は、昨日までとは比べ物にならないほどに、軽やかに、そしてシンプルに変貌を遂げていた。
私は今、正しいレールを歩いているのだろうか――そんな過保護な問いかけに、脳の細胞を浪費する必要は、もうどこにもない。
彼女はすでに自らの足で一歩を踏み出し、生活のための金を吐き出し、世界で最初の一冊を発注したのだ。あとは、未来のいつの日にかアパートのドアを叩くであろう、その物質の形をこの目で確かめるだけだ。
夜になり、再び夜の帳が下りた四畳半の部屋へと戻った後、茜はノートパソコンの液晶画面を開いた。
そこには、昨夜から一文字も動いていない、未完のファンタジーの世界が広がっている。シーナの運命は未だにアパートの閉ざされたドアの前で静止したままであり、ミナミの日常も最後のページへと到達してはいない。
茜はそのファイル名をしばらくの間じっと見つめ、それから、テーブルの脇の手帳を開き直した。
そこには数日前、自らの手のひらをインクで汚しながら書き殴ったあの絶対的な問いかけが、今も鮮烈に残されている。本を自分で作るには、どうすればいいのか。そして、その真下には、昨日までは存在していなかった、太い黒いインクの文字が真っ直ぐに刻まれていた。
――私は、このお話を、自らの意志で出版する。
茜は自らが刻みつけたその最後の一行を静かに読み返し、胸の奥を満たす穏やかな呼吸の余白を確かめた。そこに、おこがましい勝利の全能感もなければ、すべての問題が綺麗に解きほぐされたという安易な錯覚もない。むしろその真逆だった。本当の闘いという名の、未開の宿題の山は、まさにこの瞬間の句点から始まるのだということを、彼女の知性は冷静に理解していた。
彼女はまだ、製本の正確な理論を知らない。明日になれば、また新しい専門用語の迷宮に足を取られて、頭を抱えて身悶えするかもしれない。届いた最初の一冊の出来栄えに、自らの技術の拙さを突きつけられてショックを受ける可能性だってあるし、製作の費用が膨らんで生活の方程式が狂うことだってあり得る。そして何よりも最悪な結末は、完成した本をどこの空間に並べたところで、見ず知らずの他人の手がただの一度も自らの作品に触れてくれないという、あの冷酷な現実の穴かもしれないのだ。
茜は、そのすべてのリスクの変数を、薄暗い室内の静けさの中で数分間じっと見つめ続け、それから、液晶画面に表示されたタイトルへと視線を戻した。
――『ギルド受付嬢の新しい暮らし』。
物語の最終章は、まだ終わってはいない。
しかし、生まれて初めて、茜はその原稿のことを、どこか出版社の偉い編集者の顔色を窺うための、承認を乞うための道具のようには決して感じていなかった。売れるための公式や、産業のパイを食うための記号として、自らの作品を位置づける傲慢なエゴは、そこにはもうなかった。
このお話は、世界でただ一人、自分自身の命と調和した、絶対的な私の物語なのだ。
そして、もしこの現実世界の外側に、自らの足跡を受け入れてくれる一本のドアがどこにも存在していないのだとしたら――。
その時は、自分自身の手で、その新しい境界線のドアをゼロの地点から叩き直して、押し開けばいいだけだ。
茜は金属製のペンの先端を木目の天板の上へとコン、と静かな音を立てて置き、再びキーボードの上に自らの両手を構えた。今度は、指先が冷たくすくむようなあの長い空白の恐怖は訪れなかった。
決断の方程式は、すでに彼女の胸の中で完全にロックされている。
あとはただ、自らの宿した命の息吹が最後の一箇所の句点に到達するその瞬間まで、目の前の白い画面に向かって、自らの物語を真っ直ぐに紡ぎ終えるだけだ。




