第26章 読み返す(1)
アパートの狭い四畳半の部屋で過ごす時間としては、それはあまりにも遅すぎる訪問だった。日付が変わろうとする深夜の空気は冷ややかで、本来なら誰もが慌てて靴の紐を結び、それぞれの家路へと就くべき時間帯だ。しかし、茜の部屋に集まった面々の誰一人として、帰宅を急ぐような気配を見せる者はなかった。部屋の中の空気は、奇妙なほどに穏やかで、心地よい停滞の中に留まっている。
木目の折りたたみテーブルの上では、黒いノートパソコンが今も頑なにその画面を開き、青白い液晶の光で室内の薄暗がりを一定に照らし出していた。画面に表示されているのは、茜がこの数ヶ月の夜をすべて注ぎ込んで紡いできたファンタジー小説の原稿だ。そのすぐ脇には、黒いマグカップがぽつんと置かれ、底の方で完全に冷めきって干からびたわずかなコーヒーの残滓を晒している。
しおりちゃんは畳の上に直接胡坐をかき、そのすぐ隣では、結衣ちゃんがテーブルの端に緩やかに身体を預けていた。結衣ちゃんの細い両手の中には、先ほど茜が手渡した、過去のチャプターの修正原稿のプリントが数枚、大事そうに収まっていた。そして茜自身は、キーボードの真正面に背筋を伸ばして座り、この静かな空間の、目に見えない指揮者のように佇んでいた。
三人は、もう二十分もの間、全く同じ一段落に視線を固定したまま、微動だにしていなかった。静まり返った室内には、時折アパートの外を通り抜ける風の音だけがかすかに響く。やがて、その長い沈黙を破るように、しおりちゃんが最初に顔を上げた。
「シーナちゃん……結局、本当にあの部屋を出て行っちゃったんだね」
しおりちゃんの呟きは、いつになく低く、どこか割り切れない寂しさを孕んでいた。
茜は重々しく、しかし確かに首を縦に振った。
「ええ。そうするしかなかったのよ」
「でもさ、普通の感覚で考えたら、あんな風に一人で飛び出さなくても、ミナミくんと一緒にあの部屋に残り続ける方法だってあったはずじゃん」
茜は画面の上の、黒いカーソルが点滅する文字列へと視線を戻した。
「シーナの中で、ロジックが完成してしまっていたのよ。自分がこの現代世界に留まり続けることは、ただでさえ余裕のないミナミの生活を経済的に圧迫し、彼の肩を壊してしまう。その事実を、彼女のプライドが許さなかったの」
しおりちゃんは、いつの間にか右手の中に確保していた安物のスナック菓子を一口もぐもぐと咀嚼した。
「ふーん……。でも、もしそれが単なるシーナちゃんの『遠慮』とか『気まずさ』のせいなんだとしたらさ、どうして最初からミナミくんに向かって、素直に本当の気持ちを話さなかったのかな」
結衣ちゃんが、手元の原稿から視線を動かすことなく、静かに口を開いた。
「誰が素直になるって言うの?」
「だから、シーナちゃんだよ」
「もしシーナというキャラクターが、自分の胸の内にある繊細な葛藤を、見ず知らずの異性に向かって簡単に言葉にできるような人間なのだとしたら、彼女は最初のチャプターの時点で、あの部屋を出て行くような決断は下していないわよ、しおりちゃん」
結衣ちゃんの淡々とした、しかし有無を言わせない指摘に、しおりちゃんは数秒間、自らの脳内のイメージを整理するようにして黙り込んだ。やがて、諦めたように小さく項垂れる。
「あ……確かに、そうだね。シーナちゃんって、そういう不器用な子だもんね」
ショートヘアの少女は納得したように、再び手元のスナック菓子を口へと運び始めた。茜はその一連の他愛のないやり取りを、唇の端に微かな、しかし温かい苦笑を浮かべながら見つめていた。
「しおりちゃん……あなた、このお別れのシーンに対して、他に何か気づいたこととか、厳しい批判とかはないの?」
茜は自らの作家としてのエゴを少しだけ覗かせながら、探るように訊ねてみた。
「ないよ。私の評価は、もう完全にこれでオッケー」
しおりちゃんは至って平然と言い切った。
「それだけ? 本当に、それだけかしら」
「うん。だって、すごくシーナちゃんっぽかったし」
茜は深く、ゆっくりと息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜いた。不思議なことに、しおりちゃんという人間と創作について対話を交わすと、どんなに複雑に絡み合っていた思考の糸も、最終的にはこのような徹底的なシンプルさへと収束していってしまう。
自分はいつも、喉の奥からもっともらしい文学的理論や、高尚な構造の意味をひねり出そうと必死になって身悶えしているというのに、しおりちゃんの地に足の着いた無垢な感性は、小難しい理論のフィルターなど一枚も介することなく、たった数秒で物語の本質的な機能を見抜いてしまうのだ。
「私はね、茜ちゃん。シーナちゃんが去って行った後の物語が、一体どんな風に繋がっていくのか、そっちの方がどうしようもなく気になっているの」
結衣ちゃんが、膝の上に載せていた原稿の束を静かに手元へ引き寄せた。
「ミナミの、部屋に残された側の反応の描写?」
「ええ、まさにこの部分よ」
結衣ちゃんは細い人差し指を動かし、プリントの中ほどにある一行を正確に指し示した。
茜は結衣ちゃんの指先を追いかけ、自分が昨夜、深夜の静寂の中で書き上げたばかりのエピソードを再び脳裏でなぞった。それは、シーナが夜の闇へと消え去った後、アルバイトを終えたミナミが再び自分の四畳半のアパートへと帰宅する、静かな静かなシーンだった。
そこには、劇的な演出は何一つ書き込まれてはいない。大粒の涙が床にこぼれ落ちることもなければ、ミナミが狂ったように彼女の名前を叫んで夜の街へと飛び出していくような、安っぽいドラマも存在しない。
白い画面の上に広がっているのは、ただ、主を失った部屋の景色が、シーナがやってくる前の「元の状態」へと完全に巻き戻されているという、無機質な事実だけだった。少なくとも、表面上のレイアウトとしては、その通りのはずだった。
「結衣さん、そこを読み返してみて、一人の読者としてどんな風に感じた?」
茜は自らの声を極力平坦に保ちながら、静かに訊ねた。
結衣ちゃんはしばらくの間沈黙し、文字の連なりを確かめるようにして目を細めていたが、やがてぽつりと呟いた。
「なんだか……この部屋、急にすごく狭くて、寂しい場所に見えるわね」
茜の口元に、慎ましやかな、しかし確かな満足を孕んだ小さな笑みが浮かんだ。
「視覚的な効果としては、まさにそこを狙って書いたの」
「ううん、違うわ。私が言いたいのは、部屋の物理的な容積が狭いとか、音がしなくて静かだっていう、そういう表面的な意味じゃないのよ、茜ちゃん」
結衣ちゃんは首を振り、その静かな眼差しをまっすぐに茜へと向けた。
「ミナミくんが今立っているのは、間違いなく昨日までと同じアパートの、同じ四畳半の部屋なのに……その空間が持っている『意味』というか、本質的な手触りが、もう完全に別のものに変わっちゃってるのよ。それを、この文章の端々から不気味なほど感じるの」
茜は椅子の上で、思わず息を詰まらせた。言葉が喉の奥で硬く凍りつく。
それまで大人しくスナック菓子を口に放り込んでいたしおりちゃんが、不意に顔を上げ、当然のような顔をして小さく頷いた。
「そりゃあそうだよ、結衣さん。だって、そこにいたはずの人間が、突然いなくなっちゃったんだもん。部屋の空気が変わるのなんて、当たり前じゃん」
「ええ、本当にその通りね」
結衣ちゃんが同意すると、しおりちゃんはさらに得意げに言葉を重ねた。
「部屋の隅っこをいつも埋めてたパーツが、一個だけぽっかり消えちゃったんだよ。だったら、残された全体の景色だって、形は同じでも全く違う不格好なものに見えて当然だよ。人間の心なんて、そういう風にできてるんだから」
茜はしばらくの間、しおりちゃんの横顔を、言葉を失ったまま凝視し続けていた。あまりにも強い衝撃の質量が、彼女の胸の奥を激しく揺さぶる。
しおりちゃんはその痛いほどの視線に居心地悪そうに身をすくめ、咀嚼する手をピタリと止めた。
「な、何? 茜ちゃん、どうしてそんな怖い顔で私のこと睨むの?」
「……ううん、何でもないの」
茜は慌てて視線をノートパソコンの白い画面へと戻し、自らの内面の激しい動揺を必死に隠した。
しおりちゃんが口にした言葉は、文学的な修飾もなければ、専門的な創作理論の裏付けもない、ただの思いつきのような雑談に過ぎない。しかし、その無垢な言葉の核心には、茜がこれまでの執筆の中で見落としていた、大切な何かが隠されていた。




