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原稿用紙 ~ ギルド受付嬢の新しい暮らし  作者:
物語は始まる

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第25章 物語が呼吸を始める(2)

 茜はキーボードの上で慌ただしく動かしていた指先を、不意に止めた。深く息を吐き出しながらタッチパッドを操作し、今しがた書き上げたばかりの、シーナの静かな旅立ちのシーンを冒頭から読み返す。

 右手が再びキーボードへと近づき、あの閉ざされたドアの描写のすぐ後ろに、新しい文字列を書き加えようとした。アマチュア作家としての悪癖が、残されたミナミの孤独や、夜の廊下を歩くシーナの胸を引き裂くような抒情的ディテールを、分厚い段落にして書き連ねろと彼女の脳を誘惑する。

 しかし、彼女の指先は空中ではたと静止した。茜は手を引っ込め、自らの膝の上へと戻して静かに首を振った。

 ――違う、これじゃない。

 脳裏に、佐藤のあの低く冷ややかな声が木霊する。すべての感情を言葉にして紙の上に並べてしまったら、読者が自らの手で痛みを分かち合うための余白がどこにも残らなくなってしまう。沈黙に、彼らとの対話を委ねなければならないのだ。

 茜は消去キーを押し、液晶画面に現れかけた蛇足の説明をきれいに消し去った。そして、もう一度だけ、最後に残された一行のテキストを見つめた。


 ――世界は再び完全に分断された。


 その最後の句点を見つめながら、茜の口元に、かすかな満足の笑みが浮かんだ。

「……これだけで、きっと十分だ」

 暗闇に向かって、彼女はそう静かに呟いた。

 小さな黒いカーソルが、再び規則正しいリズムで点滅を始める。茜は机の脇の手帳をパタンと閉じた。この引き算の描写が、商業出版の厳しい市場において完璧な正解として評価されるかどうかの保証など、今の彼女にはどこにもない。しかし、生まれて初めて、自分のキャラクターが抱える脳内をすべて世界に向かって説明してしまいたいという、あの独りよがりな焦燥感から、彼女の胸は静かに解放されていた。


 数分が経った頃、台所の片隅に置かれた電気ケトルがゴトゴトと低い駆動音を立て、その没頭を優しく遮った。茜は木製の折りたたみ椅子からゆっくりと腰を上げた。長い時間、液晶画面の明かりを睨みつけながら硬直していたせいで、背筋や肩、手足の関節がひどく強張っている。

 空のマグカップを手に取って台所へ向かい、ケトルの熱湯を注ぎ込む。インジケーターの小さな赤いランプが静かに消えた。茜は湯気が立ち上るカップを手に取ると、そのまま、アパートの裏手にある小さな中庭に面したガラス窓の前に佇んだ。

 真夏の夜の空気は、彼女の肌にとって妙に新鮮に感じられた。いつもなら、幹線道路を乱暴に走り抜ける自動車の騒音が、ビジネス街の夜を不快に埋め尽くしているはずだった。しかし、この夜ばかりは、窓の向こうに広がる世界が、どうしようもなく静かで、緩やかで、平和なものに思えてならなかった。

 左手を伸ばし、サッシの窓を数センチだけ横に滑らせる。隙間から流れ込んできた夜風が、彼女の頬を優しく撫でた。熱を帯びた頭を休めるには、ちょうどいい夜風だった。

 茜はインスタントコーヒーの入ったカップを抱え、再び作業机へと戻った。しかし、すぐに椅子に身体を落とすことはしなかった。しばらくの間、彼女はただその場に佇み、磁器の温もりを両手のひらで包み込むようにして、その柔らかな熱を確かめていた。

 昨日の夜まで、この四畳半の狭い空間は、自分の不格好な焦燥感や行き場のない不安を閉じ込めるための、息苦しい牢獄のように思えてならなかった。しかし、この穏やかな夏の夜において、彼女の心理的な質量は、確かに変わっていた。四方の壁は、もう彼女を脅かすようには迫ってこない。

 もちろん、自分の未来に横たわる難問の糸が、綺麗に解きほぐされたわけではなかった。商業出版という冷酷な産業についての佐藤の辛辣な言葉は、今も彼女の記憶に深く沈殿している。個人で本を作って売るという、未知の「選択肢」についても、その具体的な手順は何一つ理解できていない。ファンタジー小説の原稿には、まだ埋められるのを待つ数十もの空白のチャプターが並んでいるし、自分がこれから下す決断が、本当に正しいのか、それとも大切な夢を自らの手で破壊することになるのか、その確かな答えなど、どこにもない。

 だが、少なくとも今のこの瞬間、静まり返った部屋の中で、茜は胸を締め付けるような焦燥感に襲われることもなく、深く、穏やかに酸素を吸い込むことができていた。

 茜はカップを傾け、温かい黒い液体を一口だけ喉へと流し込んだ。

「……美味しい」

 その呟きに対して、彼女の頭脳はまともな答えを返さなかった。自分の舌が本当に安物のインスタントコーヒーの品質を喜んでいるのか、それとも、ただ、もう一度キーボードの前に戻るのを、数分だけ先延ばしにするための理由を身体が求めているだけなのか、それすらも曖昧だった。


 コン、コン。

 不意に、静寂を切り裂くようにして、木製のドアを叩く乾いた音が部屋の奥に響き渡った。

 茜はハッとして、背後を振り返った。眉の間に不審そうな皺が寄る。こんな夜更けに、一体どこの誰が自分の部屋のドアを叩くというのだろう。

 茜はカップを天板に置くと、たたきに向かって歩みを進めた。

「どなたですか?」

 ドアノブに手をかけ、暗闇の向こうに向けて声をかける。

「茜ちゃん! 私だよ!」

 しおりちゃんの弾んだ、屈託のない声が木製ドアの隙間から漏れ聞こえてきた。茜が鍵を回し、ドアノブを引くと、外の廊下の薄明かりの中に二人の人影が浮かび上がった。

 コンビニの大きめのポリ袋を胸の前に大事そうに抱えたしおりちゃんと、その少し後ろで、私服姿のまま静かに佇んでいる結衣ちゃんの姿があった。

 茜は驚きのあまり、何度も瞬きを繰り返した。

「結衣さん……? どうして、結衣さんまでこんなところに?」

 結衣ちゃんは軽く右手を挙げ、いつもの落ち着いたトーンで小さく微笑んだ。

「こんばんは、茜ちゃん。夜分に押しかけてごめんなさいね」

「……二人とも、どうしたの? こんな時間に突然」

 しおりちゃんは手元のポリ袋を誇らしげに高く掲げ、瞳をキラキラと輝かせた。

「茜ちゃんが、ちゃんと生きてて、まともに呼吸してるかどうかを、この目で確認しにきたんだよ!」

 その後ろで、結衣ちゃんが呆れたように小さく溜息をついた。

「しおりちゃん、言葉遣いを選びなさい。夜中に人の家の前で不吉なことを言うんじゃないの」

「ええー、でも私の目的の本質は、まさにそういうことですよ?」

「意味は分からなくもないけれど、表現が極端すぎるわよ」

 目の前で繰り広げられる、いつも通りの他愛のない掛け合いを見つめているうちに、茜の口元から、自然と張り詰めていた力が抜けていった。彼女の青白い顔に、今度は本物の、柔らかな笑みが浮かぶ。

「二人とも……本当に、相変わらずなんだから」

 しおりちゃんは許可を待つこともなく、使い慣れた足取りで狭いたたきをすり抜け、四畳半の室内へと滑り込んできた。結衣ちゃんもその後ろから、静かで丁寧な歩調で部屋へと入ってくる。

 大きなポリ袋が、木目の天板の上にカサリと軽い音を立てて置かれた。

「その袋の中身、一体何が入っているの、しおりちゃん」

 茜は二人の後についていきながら、訊ねた。

「これね、今日のカフェのショーケースで、どうしても売り切れずに残っちゃったペストリーとパンの詰め合わせなのよ」

 畳の上に静かに腰を下ろした結衣ちゃんが、至って合理的な口調で説明を補足してくれた。

「閉店後にキッチンのゴミ箱へそのまま廃棄されちゃうくらいなら、茜ちゃんのところへ持って行ってあげなさいって、美咲さんが持たせてくれたの」

 しおりちゃんも隣で力強く首を縦に振る。

「クオリティも衛生面も問題なし。まだまだ現役の美味しさだから安心して!」

 ポリ袋の隙間から覗く、バターの焼き色が美しい黄金色のパンを見つめているうちに、茜の胸の奥に、じわりと温かい質量が満ちていくのを感じた。

「……ありがとう。わざわざ、気を使わせちゃって」

「あ、感謝のエネルギーをそんなところで消費しちゃダメだよ、茜ちゃん」

 しおりちゃんは人差し指を突き出し、まだ青白く光を放っているノートパソコンの画面を鋭く指差した。

「私の第一の目的はね、茜ちゃんが今夜書いたファンタジーのプロットが、一体どこまで進んだのかを今すぐ知ることなんだから!」

 茜は画面の文字列へと視線を向けた。

「シーナが、ちょうどミナミのアパートを出て行ったところだよ」

 パンの包装を破ろうとしていたしおりちゃんの手が、空中で完全に凍りついた。その瞳が、衝撃のあまり丸くなる。

「え……? シーナちゃん、物語から退場しちゃうの?」

 畳の上で座り直していた結衣ちゃんも、驚いたように顔を巡らせた。

「茜ちゃん、本当にそんな展開にしたの?」

 茜は静かに、しかし確かな重みを持って首を縦に振った。

「ええ。彼女は自分の意志で、アパートのドアを閉めたの」

 しおりちゃんの顔が、一瞬にして一人の熱心な読者のそれへと切り替わり、心底ショックを受けたような表情を浮かべた。

「でも……どうして? シーナちゃんがそんな酷いことをミナミくんにするなんて、どんな論理的な理由があるの?」

 茜はしばらくの間沈黙し、木目の天板をじっと見つめた。しおりちゃんから突きつけられたその素朴な疑問は、数時間前まで、自分の頭の中で霧のように渦巻いていたあの難問と、全く同じ問いを孕んでいた。

「それは……」

 茜は視線を液晶画面へと戻した。

「……シーナが、ある現実に気づいてしまったから。自分がこの世界に留まり続けることが、結果としてミナミの生活を経済的に圧迫し、彼の肩を壊してしまうってことに、彼女自身が耐えられなくなっちゃったのよ」

 しおりちゃんは眉の間に深い悲しみの皺を刻み、手元を見つめた。

「シーナちゃん……なんて可哀想な人生なの……」

「それで、ヒロインが去ったあと、ミナミくんの生活はどうなるの?」

 結衣ちゃんが、袋から取り出したデニッシュを静かに口へ運びながら訊ねてくる。

「彼は、再び一人きりの静寂の中に残されるわ」

「うわあ、それじゃあ、そのミナミくんの運命も、シーナちゃんに負けないくらい可哀想なことになりそうね」

 結衣ちゃんがパンの端を噛みちぎりながら、淡々とコメントする。

 しおりちゃんは口の端に少しだけバターの痕跡を残したまま、もぐもぐと咀嚼しながら次の質問を重ねてきた。

「じゃあさ、その悲しいお別れのシーンの後に、茜ちゃんはどんな展開を書き足すつもりなの?」

 茜は二人の顔を交互に見つめた。

「その後に……理香を、部屋に突入させるの」

 しおりちゃんの咀嚼の動きが、今日二度目の停止を迎えた。

「理香ちゃん?」

「そう」

 茜は折りたたみ椅子を引き寄せ、再びパソコンの前に腰を下ろした。

「理香はいつも通りの日常のスケジュールに従って、ミナミの部屋を訪ねてくる。でも、ドアをくぐって数分もしないうちに、彼女の直感が、室内の奇妙な違和感を察知するのよ。シーナという存在が、もうそこには影も形もないってことにね」

 結衣ちゃんはゆっくりと首を縦に振り、パンを咀嚼するリズムを一定に保った。

「その展開は、私のロジックにとってもすごく自然に思えるわ」

 茜は驚いて顔を上げ、結衣ちゃんを見つめた。

「どうしてそう思うの、結衣さん」

「だって、その理香というキャラクターが、シーナちゃんがやってくるずっと前からそのアパートに頻繁に出入りしていた人間なのだとしたら……心理的に、室内のどんな微細な変化に対しても、彼女の目が一番最初に気づくはずでしょう?」

 結衣ちゃんは至って冷静に、手元のグラスの水を口に含んだ。

「いつも置いてあるはずの私物がなくなっているとか、空気の密度が変わっているとか。変化に一番敏感なのは、これまでの日常を一番よく知っている人間だもの」

 茜は椅子の上で、息を詰まらせたまま硬直した。同僚が口にしたその何気ない分析が、彼女の思考の奥へと鮮やかに入り込み、プロットの核心にある最も重要なロジックのピースをピタリと嵌め込んだ。

 ――理香。

 そのサブキャラクターは、物語の初期のプロット段階から、ずっとアウトラインの中に存在していた。物語が立ち往生したからといって、茜がその場の思いつきで生み出した便利な道具ではない。彼女は、シーナという異分子が空から降ってくるずっと前から、ミナミの生活の軌道を知り、彼の部屋のどこに何があるかを記憶している、この世界の「日常」の体現者なのだ。

 だからこそ、ある朝、シーナという存在がそこから綺麗に消失したとき、その空間にぽっかりと開いた「空白の穴」を、最も説得力のある形で発見できるのは、理香の視線以外にあり得なかった。

 茜はテーブルの上のペンのグリップを無意識に握りしめていた。手帳を開き、白いページの上に素早い筆致でインクを走らせる。


 ――理香を、シーナの役割の代用品にしてはならない。


 その文字列を数秒だけ睨みつけ、さらにその真下に、一つの決定的な命題を書き加えた。


 ――理香は「外側からの目」である。彼女は、ミナミの現実世界において、それまで当たり前だった日常が、完全に別のものへと変貌してしまった事実を『観測し、自覚させる』ための存在だ。


「茜ちゃん、何でまた突然忙しそうにメモを書き始めちゃうの?」

 しおりちゃんが、唇の端のパン屑を指先で拭いながら訊ねてくる。

「ん? どうしたの、しおりちゃん」

「だからさ、どうして理香ちゃんが、シーナちゃんが去った直後のプロットにどうしても必要なのか、私にも分かるように説明してよ」

 茜はしおりちゃんの無垢な瞳を見つめ、そのシンプルな問いの重みを胸の奥で反芻した。しかし、今回の彼女は、かつてのように小難しい構造理論や、もっともらしい創作の専門用語を並べ立てることはしなかった。

「それはね……」

 茜は自分の手元に並ぶ、黒いインクの文字へと視線を落とした。

「……シーナがもうあの部屋にいないのだとしたら、この物語には、『これまで普通だと思っていた景色が、もう完全に変わってしまったんだ』という事実に気づくための、本物の人間の目が必要だからよ」

 結衣ちゃんが、手元のコップを置きながら、ほんのわずかに笑った。

「その役割がそこまで明確なら、一人の読者として言わせてもらうけれど――理香はその重荷を背負うのにこれ以上ない適任だと思うわ、茜ちゃん」

 茜は、小さく、しかし迷いなく首を縦に振った。

「ええ、ありがとう。その方向で、エピソードを組み立ててみる」

 しおりちゃんは、特に難しいことを考える様子もなく、二個目のペストリーを嬉しそうに頬張った。

「ねえ、じゃあさ、理香ちゃんがその消失に気づいた後、二人は街に出てシーナちゃんを探し回るような展開になるの?」

「うん、その予定だよ」

「じゃあじゃあ、そのチャプターの最後のページで、二人の目はシーナちゃんの隠れ家を見つけることができる?」

 茜は唇の端に、少しだけ意地の悪い、しかし悪気のない小さな笑みを浮かべた。

「お別れした後の数チャプターの間は……二人は絶対に再会できないわよ」

「ええー、そんなのつまんない!」

 しおりちゃんは露骨に不満そうな声を上げ、肩の力を落として項垂れた。その読者としてのあまりにも真っ直ぐで嘘のないリアクションを見つめているうちに、茜の胸の奥から、今度は鈴の鳴るような軽い笑い声が弾けてこぼれた。

「そんなに落ち込まないでよ、しおりちゃん。約束するから。物語が進んだ先で、二人の道は、いちばんふさわしいタイミングで必ず交わるように書くから」

「本当? じゃあ、その約束、絶対に信じるからね!」

 しおりちゃんは一瞬で元の調子を取り戻し、声を弾ませた。


 液晶画面の向こうに横たわるキャラクターたちの運命に関する他愛のないお喋りは、それ以上の重苦しい文学的分析に発展することもなく、やがて夜の空気の中へと穏やかに霧散していった。

 佐藤との打ち合わせの席で味わったような、構造の解剖や冷酷な市場性の議論は、この四畳半の部屋には一切持ち込まれなかった。しおりちゃんは手元のペストリーの残りを平らげることに全神経を注ぎ、結衣ちゃんは、四畳半のミニマムな室内に並ぶ簡素な家具を、所在なさげに眺めていた。

 茜は再び、すっかり冷め切って湯気の消えたマグカップの表面に両手を添え、部屋の空気が緩やかに落ち着いていくのを感じていた。

 数分の間、三人の会話は誰からともなく途切れ、彼女たちはそれぞれの場所で静かに座っていた。彼女たちは今夜、厳しい市場が求めるものや、出版という産業の巨大なシステムのことなど、何一つ口にしなかった。未来への不確実な恐怖に怯えることもなく、ただ狭いアパートの一室に胡坐をかいて集まり、真夏の夜の静けさと調和していた。

 そして、自分の胸の奥で静かに稼働し始めたその不思議な安心感の正体を、茜はただ静かに受け入れていた。

「それじゃあ、そろそろ今夜の突撃訪問のスケジュールは終了ね。私たちは帰るわ、茜ちゃん」

 結衣ちゃんがスマートフォンの時計に目をやり、畳の上から静かに腰を上げた。

 しおりちゃんも慌てて背筋を伸ばし、自分の小さなバッグを掴み取った。

「忘れないでね、茜ちゃん。夜更かしして、パソコンの前で朝を迎えるような真似は絶対に禁止だからね!」

 茜は手元のカップを少しだけ持ち上げ、降伏のポーズをとってみせた。

「善処するわ。できる限り、その命令に従うように努力する」

「その『善処する』っていう曖昧な言葉は、私の鼓膜にとって何の有効な確約ログにもなってないよ!」

 しおりちゃんは腰に手を当てて、鋭く突っ込んできた。

 茜はついに吹き出し、両手を挙げた。

「分かった、分かったわよ。約束する。日付が変わる前には、ちゃんとパソコンの画面を閉じるから」

「よし、その確実なセリフが聞ければ、私の頭の中もようやく安心できるよ」

 ショートヘアの少女は満足そうに頷くと、たたきへと向かい、スニーカーの紐を手際よく結んだ。しかし、ドアノブに手をかけ、それを外側へと押し開こうとするまさにその直前、しおりちゃんはピタリと動きを止め、首を九十度巡らせて茜の顔をまっすぐに見つめた。

「茜ちゃん」

「ん? どうしたの、しおりちゃん」

「明日のシフトの時間……茜ちゃんは、ちゃんとカフェに来てくれるよね?」

 しおりちゃんの声のトーンは、先ほどまでのふざけた調子から一転して、静かで、どこか祈るような真摯な響きを帯びていた。

 茜は自分の立っている場所で一瞬だけ硬直したが、一拍の間を置いた後、自らの口元に小さく、しかし温かい本物の笑みを浮かべ、確かな動作で首を縦に振った。

「ええ。明日の朝は、ちゃんといつも通りの時間にレジの前に立っているわよ」

 しおりちゃんの瞳の奥に、パッと弾けるような鮮烈な明かりが灯った。

「よかった! それじゃあ、カウンターの後ろで待ってるからね!」

 ガチャリ、とドアが閉まり、金属製のラッチが元の位置に収まる乾いた音がたたきに響き渡った。夜の廊下を遠ざかっていく二人の規則正しい足音は、やがて建物の角を曲がり、完全な静寂の中へと消え去っていった。


 茜はしばらくの間、二人が残していった微かな体温の残響を惜しむようにその場に立ち尽くしていたが、やがて身体を反転させ、再び作業机へと歩み寄った。

 四畳半の室内は、一瞬にして元の夜の静けさへと引き戻された。しかし、その静寂が放つ質量は、昨夜、彼女を精神的に追い詰めていたあの行き詰まりとは、もう完全に違っていた。胸の奥に溜まっていた重苦しい塊は、綺麗に洗い流されていた。

 彼女は再び、ノートパソコンの前に胡坐をかいた。マグカップの中のコーヒーは、とっくに熱を失い、ただ無機質な黒い水面を晒している。青白く輝くモニターの上では、彼女が自らの手で紡ぎ出したシーナの静かな決別のシーンが、次の入力を待っていた。

 茜はキーボードの上に自らの両手を構えた。その指先には、確かな重量感が戻っていた。茜は画面の上に視線を走らせ、文章のリズムを確かめるように、シーナのシーンをもう一度だけ丁寧になぞった。リズムの狂いがないことを確かめると、カーソルを一番下の空白へ移動させ、新しい文章を書き始めた。

 残されたキャラクターたちの物語を紡ぐための、真っ白なキャンバスだ。

 ミナミ。四畳半の、ミニマムな空間。かつてそこにあったはずの、シーナという存在が綺麗に消失してしまった、無人の部屋。

 茜の人差し指が、最初のキーを力強く叩き、新しい物語の息吹を紡ぎ始めた。


 ミナミはドアノブを回し、アパートの古い木製ドアを押し開けた。

「シーナ? 中にいるのか?」

 暗闇に向かって声をかける。

 しかし、部屋の奥からは、彼の帰宅を迎える声も、あるいは規則正しい足音も、一言として返ってはこなかった。ただ冷たい静寂だけが、彼の鼓膜を味気なく叩く。 ミナミはたたきの境界線をまたいで中へと入り、仕事用の重い靴を床へと脱ぎ捨てると、ノブを回して背後のドアを静かに閉めた。

 彼はしばらくの間、薄暗い部屋の中央に立ち尽くしたまま、身動き一つしなかった。いつもなら、この場所に足を一歩踏み入れた瞬間に、台所の方から、鍋や調理器具が触れ合う微かな金属音や、自分を咎めるための四角四面な軍隊式の命令口調が、真っ直ぐに飛んでくるはずの、あの空間だった。


 だが、この夜に限っては、徹底的に冷め切った無機質な静寂だけが、彼の生活のすべてを静かに包み込んでいた。

 ミナミは重い足取りで、ベッドからわずか二歩しか離れていない台所の狭いスペースへと足を向けた。吊り戸棚の扉を開け、冷たい麦茶でも淹れようと、磁器のカップを手に取ろうとする。

 しかし、彼の腕は、空間の真ん中でピタリと止まった。

 彼の視線は、棚の奥に今も几帳面に並べられている、もう一つのカップへと向けられた。それは、かつてシーナが使っていたカップだった。今はもう、それを使う人間のいない、ただの器だった。

 ミナミの右手が、そのカップへ向かってわずかに伸びた。しかし、指先は途中で止まった。彼は静かに手を引っ込めると、戸棚の扉を、パタンと小さな音を立てて閉じた。


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