第25章 物語が呼吸を始める(1)
夜の帳が静かに下り、街は大した物音を立てることもなく、ゆるやかな闇の中へと沈み込んでいく。四畳半の狭いアパートの窓の隙間からは、大通りを這うようにして遅々として進まない自動車の赤いテールランプが、微かな光の帯となって見えた。時折、遠くの幹線道路から通勤車の低い排気音が不鮮明に響いてくるが、それも密集するコンクリートビルの壁に遮られ、すぐに夜の静寂へと吸い込まれて消えていく。
木目の折りたたみテーブルの上に置かれたノートパソコンは、もう一時間も前から起動したまま、薄暗い室内を青白い光で照らしていた。画面の片隅では、小さな黒いカーソルが規則正しく、まるで生き物の心音のように点滅を繰り返している。彼女が最後に打ち込んだ文字列のすぐ後ろが、その定位置だった。
茜はその空白を、ずいぶんと長い間じっと見つめ続けていた。膝の上に置いた両手は、キーボードに触れようともせず、ただ固く握りしめられている。白い画面には、一つの名前だけがぽつんと残されていた。
――シーナ。
茜は小さく、力のない溜息をついて肩を落とした。昨日の午後、あの張り詰めた空気の中で佐藤が言い放った冷酷な言葉が、今も鼓膜の奥で嫌に生々しく蘇る。君は先を急ぎすぎている、すべての謎の解答用紙を最初から一度に手渡そうとするのは、娯楽としては最悪の裏切りだ。読者は答えを楽しんでいるわけじゃない。キャラクターと共に、その答えへと至るプロセスを楽しみたいんだ。
最初のうちは、その容赦のない拒絶が強烈な傷となって、二度とキーボードを叩けなくなるのではないかという恐怖に怯えていた。
だが、その予想は少しだけ外れていた。今、彼女の胸の奥を重く占めているのは、恐怖や傷といった生ぬるい感情ではない。夜明け前からずっと、彼女の思考を支配しているのは、もっと本質的で――逃れることの許されない絶対的な疑念だった。
私は一体、シーナという一人のキャラクターの人生を、どこへ導こうとしているのだろう。
茜は畳の上で胡坐をかいたまま、わずかに身体の重心をずらした。タッチパッドの上に指を滑らせ、これまでに書き上げてきた過去のチャプターのファイルをいくつか開き直した。
シーナが慣れない現代の台所で、軍隊仕込みの厳格な規律を無理やり適用して調理器具の配置を整えるシーン。ファンタジーの世界からやってきた少女が、ノートの切れ端に四角四面な一日のスケジュールを書き込んでいくシーン。そんな彼女の頑なな行動に気圧され、まるで受付の窓口で延々と業務指示を受け続けている新米冒険者のような圧迫感を抱き始めるミナミの描写。そしてシーナが、ある冷徹な現実に気づく場面――部屋の中は以前よりも劇的に美しく整えられていくのに、ミナミという人間の地に足の着いた、どこか大雑把な本質だけは一ミリも動かすことができないという、あの諦念の瞬間。
茜はそれらの文字列を、一文字も書き直すことなく、ただ視線だけで静かになぞっていった。スクロールする指の動きは、ある一つの決定的な局面でピタリと止まる。
――シーナが、部屋を去るシーン。
茜はキーボードから完全に手を離し、自らの膝の上にぽつんと落とした。
「どうして……」
短い呟きが、誰もいない室内の静寂を破ってこぼれ落ちた。それは世界に対する問いかけではなく、モニターの向こうで不格好に佇むシーナの幻影に対する、作者としての純粋な困惑だった。
「どうしてあなたは、あの部屋を出て行くことを選んだの、シーナ」
当然ながら、液晶画面は無機質な光を放つだけで、それ以上の言葉を返してはくれない。茜は折りたたみ椅子の背もたれに深く体重を預け、シーナの感情の輪郭を探るように、思考を深く沈めていった。
もしシーナが、ミナミとの間に起きた他愛のない口喧嘩や、ありふれた感情のすれ違いだけを理由に部屋を出て行くのだとしたら、その物語の質量はあまりにも軽すぎる。商業の単行本として、読者のお金を奪うにはあまりにも安易で、安っぽい泥仕合に成り下がってしまう。それに、ミナミの少しズボラな性格に対してシーナが個人的な嫌悪感を抱くというのも、彼女の本来の気質とはどうしようもなく矛盾していた。街を流れる濁流から自分の命を救い出してくれた恩人に対して、彼女はそんな矮小な憎しみを抱くはずがないのだ。
現実世界における彼女の心境は、むしろその真逆でなければならない。そして、そこに確かな感情の結びつきがあるからこそ、その決別の瞬間は、読者にとっても何倍も痛切なものとして響くはずだった。
茜はパソコンの脇に置いてあった、小さな手帳を手に取った。昨日の夕方、黒いボールペンで何度も書き殴ったページには、乱暴な文字がいくつも並んでいる。
――シーナは、自分の存在そのものが、彼の生活の重荷になっていると感じ始めている。
そのすぐ下には、彼女が以前に書き出していた、徹底的に現実的で冷酷な数値のリストが並んでいた。
一日の食費の計算。アパートの電気代の推移。財布の中に残されたわずかな硬貨。膨らんでいく目に見えない負債。そして、見かねて介入してくる友人・理香の存在。
茜は金属製のペンの先端で、天板をコン、コン、と規則正しく叩いた。
「そうか……そういうことだったんだね」
暗闇に向かって、茜は小さく呟いた。
「あなたは、ミナミのことを冷酷な人間だと思ったから出て行くわけじゃない」
彼女は再び、青白く輝くモニターの原稿へと視線を戻した。
「……むしろ逆。彼のこれからの生活のことを、あまりにも大切に考えすぎてしまったからこそ、あなたは出て行くしかなかったんだ」
その直感が、彼女の指先の神経を一気に叩き起こした。茜は畳の上で姿勢を正し、キーボードの上に両手を構えた。一晩中彼女を縛り付けていた霧が、今、確かなロジックの刃によって鮮やかに切り裂かれていく。
指先が、滑らかに、しかし確かな重量感を持って動き始めた。
シーナは、アパートの狭い玄関のたたきに、背筋を伸ばして立っていた。右手の手袋をはめた指先は、布製の小さなバッグの紐をきつく握りしめている。その中身は、夜明け前の静寂の中で、彼女自身の規則正しい手つきによって完璧に整理され、収められていた。
ミナミは、数歩後ろの木目フローリングの上に立ち尽くしたまま、身動き一つしなかった。その距離を縮めようとする意志すら、彼の爪先には感じられなかった。二人の間に、対話のための言葉は一言も存在しなかった。四畳半のミニマムな空間は、いつも以上に狭く、息苦しいほどの圧迫感が、二人の胸の奥を押し潰していた。
「行くわ」
シーナは言った。その声は、あまりにも平坦で、起伏がなかった。普段の軍務の報告と変わらない、徹底的に抑制された静けさだった。
ミナミは眉の間に深い皺を刻み、その顔に隠しようのない焦燥を浮かべた。
「どこへ行くつもりだよ。この見知らぬ街のどこに、あんたの行く場所があるっていうんだ?」
シーナはすぐには言葉を返さなかった。目の前の古い木製ドアの表面を、ただじっと見つめている。やがて、彼女は低く、しかし決して揺らぐことのない声で呟いた。
「それは、私にも分からない」
ミナミの唇が微かに動き、彼女を引き留めるための言葉が喉の奥まで競り上がってきたようだった。だが、そのときにはもう、彼女の身体は先に動いていた。彼女の右手は、すでにドアノブを外側へと力強く押し開けていた。
真夏の夜の、生ぬるい風が一気に開いた隙間から滑り込んできて、二人の髪を乱暴に揺らす。シーナは躊躇うことなく一歩を踏み出し、薄暗い廊下へと足を進めた。アパートの部屋が持っていたわずかな体温が、彼女の背中から遠ざかっていく。
パタン、と静かな音を立ててドアが閉まり、金属製のラッチが元の位置へと収まって、世界は再び完全に分断された。




