第24章 別の道
カウンターの奥の壁に掛けられたプラスチック製のアナログ時計が、いつもの始業時間から四十分ほど過ぎた頃、美咲さんは手元の在庫ノートをパタンと静かな音を立てて閉じた。
「結衣」
「はい?」
冷蔵庫の中で牛乳のパックを数えていた結衣ちゃんが、手を止めて振り返る。
「茜はまだ来てないの?」
「ええ、まだです」
「連絡は?」
結衣ちゃんは小さく首を横に振った。
「ないです。いつもなら、数分遅れるだけでも必ずメッセージを入れてくる子なんですけど」
ラックに洗い立ての清潔なグラスを並べていたしおりちゃんも、手を止めてこちらに顔を向けた。
「茜ちゃん、私のメッセージにもまだ返事をくれてないんです」
美咲さんはもう一度、壁の時計に鋭い視線を走らせた。誰もそれ以上、言葉を重ねようとはしなかった。
茜は理由もなく遅刻をするような人間ではない。どれほど疲労が溜まっている朝であっても、彼女はいつも開店の数分前には店に現れ、定位置の鉄製フックにバッグを掛け、エプロンを締め、レジの前に凛と立っていた。彼女の不在がこれほどはっきりとフロアに感じられるのは、これまでの日々において、彼女が一度として周囲にそんな隙を見せたことがなかったからだ。
結衣ちゃんが冷蔵庫の重いドアを静かに閉めた。
「もしかしたら、体調でも崩したのかもしれませんね」
「それならそれで、一言連絡を入れるべきよ。あの真面目な子がそれをしないなんて」
しおりちゃんがエプロンのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を覗き込んだ。やはり新しい通知はない。彼女はしばらくの間、自分の薄い下唇を小さく噛み締めていたが、意を決したように顔を上げた。
「美咲さん」
「ん?」
「私、ちょっと茜ちゃんの様子を見てきてもいいですか?」
美咲さんはしおりちゃんの真っ直ぐな瞳をしばらく見つめていたが、やがて小さく吐息をもらした。
「あんたの負担にならないなら、構わないわよ」
「すぐ戻ります」
しおりちゃんはエプロンを脱ぎ捨てるより早く、隅に置いてあった小さなバッグを掴んだ。
「あんまり長く店を空けないでね」
「はい!」
結衣ちゃんが何かを言い添えるよりも早く、しおりちゃんは裏口のドアへと足を向けていた。
「しおりちゃん、待って」
結衣ちゃんが声をかけ、フロアの隅にある棚を指差した。
「もしあの子、まだ何も食べてないんだとしたら……」
しおりちゃんはその指の先を見やり、それからハッとしたように目を丸くした。
「あ、そっか」
数分後、店の裏口から再び姿を現したしおりちゃんの手には、近くのコンビニの小さなポリ袋が握られていた。それを見た結衣ちゃんが、困ったような、しかし温かい微笑みを浮かべる。
「やっぱり、そういうことね」
「体調が悪い時って、大抵何も食べる気にならないですから。少しでもお腹に入れた方がいいと思って、簡単なものを買ってきました」
しおりちゃんが袋を軽く持ち上げてみせる。
美咲さんは再び手元の在庫ノートを開き、ペンを走らせ始めた。
「それじゃあ、茜のことを頼んだわよ」
しおりちゃんは力強く頷いた。
「任せてください」
コン、コン。
「茜ちゃん?」
返ってくる気配はなかった。しおりちゃんはコンビニの袋を両手で大事そうに抱えたまま、アパートの薄暗い木製ドアの前に立ち尽くしていた。もう一度、少し強めにノックを繰り返す。
「茜ちゃん、いるんでしょ?」
やはり沈黙が返ってくるだけだった。しおりちゃんは微かに眉をひそめた。本当に動けないほど深刻な病気なのだろうか。ポケットからスマートフォンを取り出そうとしたその瞬間、ドアの内側から、ガチャリと金属が擦れ合う乾いた音が響いた。
鍵が回り、ドアが数センチだけ細く開く。
その隙間から、茜の青白い顔が覗いていた。いつもは几帳面に整えられている黒髪が少し乱れており、肌の血色は最悪だった。そして何よりも奇妙だったのは、もう昼前だというのに、彼女がまだ昨日と同じ不格好な部屋着のままでいることだった。
「茜ちゃん……」
しおりちゃんは彼女の姿を頭の先から爪先までじっと見つめた。
「……病気?」
茜は弱々しく首を横に振った。
「ううん、違うの」
「熱は?」
「ないよ」
「お腹が痛いとか?」
「ううん、どこも悪くない」
「じゃあ、どうして店を休んだの?」
茜は言葉を詰まらせた。そのあまりにもシンプルで直球な質問は、昨夜から彼女の頭を支配しているどんな葛藤よりも、遙かに答えるのが難しいものだった。
「……私、自分でもよく分からないの。どうして体が動かなかったのか」
しおりちゃんは首をわずかに傾げた。
「え?」
茜は同僚の視線から逃れるように、静かに視線を足元へと落とした。
「ごめんなさい」
しおりちゃんはそれ以上、追及するようなことはしなかった。彼女はただ、手に持っていたポリ袋を茜の目の前に差し出した。
「これ、買ってきたから。ご飯」
茜は袋の隙間から覗く無機質なプラスチックの容器を見つめた。
「カップラーメン?」
「それと、おにぎり」
「どうして?」
「だって、お腹が空いてると、人間って余計に変なことばかり考えちゃうでしょ。頭が痛くなるだけだよ」
「……食欲がないの」
「だったら、一口だけでいいから食べなよ」
「……」
しおりちゃんは茜の返事を待つことなく、当然のような顔をして狭い玄関のたたきへと一歩を踏み込んだ。茜は断る気力すら湧かず、ただ小さく溜息をついて、彼女の背中を追うように静かにドアを閉めるしかできなかった。
四畳半の部屋の中は、昨夜の暗闇から何一つ変わっていないようだった。小さな折りたたみテーブル、その上に置かれたノートパソコン、そして底の方で完全に冷めきって干からびたマグカップのコーヒー。すべてが昨日の地続きのままそこに転がっている。しかし茜にとって、その見慣れたはずの空間は、昨夜の嵐を経て全く違う不気味な質量を帯びているように感じられた。部屋全体が、以前よりも狭く、自分を押し潰そうと迫ってきているような錯覚すら覚える。
しおりちゃんはテーブルの脇の畳の上に直接腰を下ろし、ポリ袋からカップラーメンを取り出した。
「お湯、ある?」
茜は力なく台所の狭いスペースを指差した。
「あそこにあるよ」
しおりちゃんは立ち上がり、手際よく電気ケトルのスイッチを入れた。しばらくすると、ゴトゴトと水が沸騰する静かな音が狭い室内に響き渡る。カップの紙蓋が剥がされ、熱湯が注がれると、しおりちゃんは手近にあったプラスチックの箸で蓋を器用に押さえた。
「これ、何分?」
「三分だよ」
「じゃあ、三分待とう」
彼女は再び畳の上に腰を下ろした。茜はテーブルを挟んだ対面から、その一連の迷いのない動作をぼんやりと眺めていた。
しおりちゃんは多くを訊ねようとはしなかった。昨日、あの席で佐藤から何を言われたのかも、どうして突然店を無断で休むことになったのかも、茜に無理やり告白させようとはしない。ただ、ラーメンが茹であがるのをじっと待っている。その徹底的な無関心―というより、立ち入りすぎない距離感が、今の茜の傷ついた心にはどうしようもなく救いのように感じられた。
「しおりちゃん」
「ん?」
「わざわざ来てもらっちゃって、ごめんね。迷惑かけて」
しおりちゃんはまっすぐに茜の顔を見た。
「何で謝るの?」
「だって、仕事中なのに私のせいで……」
「私が来たくて来ただけだよ。来なかったら、私がずっと気になって今日の仕事に集中できなくなるところだったし。だから、自分のため」
彼女はまるで、それが世界の絶対的な真理であるかのように淡々と言い切った。
茜はそれ以上言葉を返すことができず、ただ視線を落とした。
静寂の中で三分が経過した。しおりちゃんはカップの蓋を勢いよく剥ぎ取った。途端に、温かい白い湯気が一気に室内に広がり、濃厚な醤油スープの香りが四畳半のどんよりとした空気を満たしていく。
続いて、彼女はポリ袋から鮭のおにぎりを取り出し、プラスチックの包装を器用に剥いた。茜は彼女がそれをそのまま口に運ぶものだと思って見ていたが、次の瞬間、しおりちゃんの手はそのおにぎりをカップラーメンの器の中へと躊躇なく放り込んだ。
ボチャン、とスープが小さく跳ねる。
「……」
茜は絶句したまま、その光景を凝視していた。
しおりちゃんは割り箸を割り、スープを吸って崩れ始めた米粒と縮れ麺を、器用に、しかし雑にかき混ぜ始めた。
「……しおりちゃん」
「ん?」
「どうしておにぎりをラーメンの中に入れちゃうの?」
しおりちゃんは不思議そうに手元の器を見つめ、それから至って平然とした顔で答えた。
「だって、この方が早いじゃん」
「早い……?」
彼女は当然のように頷く。
「別々に食べたらさ、最初におにぎりをもぐもぐして、その後にラーメンをすすらなきゃいけないでしょ。こうして混ぜちゃえば、一回口に入れるだけで両方の味が同時にするし、すぐお腹いっぱいになるよ」
茜は言葉を失った。あまりにも乱暴で、しかし徹底的に合理的なその言い分は、おかしな説得力を持っていた。
しおりちゃんは箸で麺と米粒を一緒に手繰り寄せると、実に美味そうにそれを口へと運び始めた。茜はただ、その姿をじっと見つめ続けていた。頭の芯で、何かが小さく引っかかる感覚があった。それはラーメンの食べ方に対する疑問ではなく、しおりちゃんという人間が下す「決断のあり方」そのものに対する衝撃だった。
目の前にいる少女は、自分がしているその奇妙な食べ方が、世間一般の常識に照らし合わせて正しいか間違っているかなど、これっぽっちも考えていないようだった。他人がこれを見て「はしたない」と思うか、あるいは「変な作法だ」と眉をひそめるか、そんな周囲の基準には一瞥もくれていない。彼女にとって重要なのは、ただ「早く、効率的にお腹をいっぱいにすること」であり、それを満たすために自分にとって最も都合の良い方法を、自分の意志だけで選択しているに過ぎなかった。
茜はたまらず、もう一つの疑問を口にした。
「でも……どうしてそんなに炭水化物ばかり一度に食べるの?」
しおりちゃんは麺をすする手を止め、数秒間だけ茜を見つめた。そして、炭水化物ばかりを重ねる栄養学的な偏りなど、爪の先ほども気にしていないような、あまりにも無垢な顔でこう言った。
「その方が、いっぱい元気になるじゃん」
「……」
茜は完全に沈黙した。結局、理由はそれだけだったのだ。しおりちゃんはそれ以上の小難しい理論を並べることもなく、再び勢いよく麺をすすり始めた。彼女の中には、複雑な背景も、他人に説明するためのもっともらしい言い訳もない。ただ腹が減っていて、満たされたい。それだけだ。
茜はその姿を静かに見つめながら、心の奥深くを冷たい風が吹き抜けていくのを感じた。しおりちゃんは、世界が自分の行動をどう評価するかという軸を最初から持ち合わせていない。自分が何を必要としているかを知り、誰の承認も得ることなく、ただ自らの手でその手段を選び取っている。
その瞬間、茜の脳裏に、一つの言葉が鮮烈に浮かび上がった。
――独裁者。
それは聞き覚えのある言葉だった。昨日の午後、あの張り詰めた空気の中で、佐藤が放った冷酷な結論の一部が、霧の立ち込める彼女の思考の網をすり抜けて、再び静かに甦ってきた。
『もし君の目的が、他人の評価など一切気にせず、自分の書きたい物語を書きたいように書くことだけなら、個人で同人誌でも作って売る方が精神衛生上よほど健全だ。そこなら編集者の介入もなく、君が絶対的な独裁者でいられる』
これまで、茜にとって「小説家になる」ということは、一本の厳格に定められたレールを間違いなく歩むことと同義だった。必死に原稿を書き上げ、商業の大きな出版社に送り、老獪な編集者の厳しい洗礼を受け、何度もズタズタに修正され、ようやく印刷されて本屋の棚に並ぶ。その決められたプロセスこそが唯一の正解であり、それ以外の方法など考えたこともなかった。世界がそう決めているからだ。
しかし、目の前にいるしおりちゃんは、ラーメンとおにぎりを別々に食べるべきだという世界のルールなど一瞥もくれていない。彼女の目的は「満腹になること」であり、その目的を果たすために、彼女は自分だけの臨機応変なルートをその場で作り上げていた。
茜は、テーブルの上で固く閉じられたままのノートパソコンへと視線を移した。昨日の夕方からずっと胸の奥を締め付けていたあの息苦しい質量が、ほんのわずかに、しかし確実に形を変え始めていた。痛みが消えたわけでも、あるいは目の前に鮮やかな希望が広がったわけでもない。
だが、彼女の行く手を完全に塞いでいたはずの巨大な壁の表面に、目に見えないほど小さな亀裂が走り、そこから外の空気がほんの少しだけ流れ込んできたような気がした。
茜にはまだ、その亀裂の向こう側にどんな世界が広がっているのかは分からなかった。どうやってその場所に足を運べばいいのかも、見当すらつかない。しかし、佐藤が喫茶店のドアを押し開けて去っていって以来初めて、彼女の思考は「ここで筆を折るべきか否か」という絶望の二択から、静かに解放されていた。
彼女の意識のベクトルは、今、全く別の方向へと動き始めていた。もし世界の外側に、まだ見ぬ別の道が存在するのだとしたら――私は、その光景をこの目で見てみたい。




