第23章 私は、何をしているんだろう
夜の地下鉄は、単調な機械音を響かせながらレールの上を滑るように走っていく。大きな窓ガラスの向こうでは、東京の夜景がまたたく間に後ろへと流れ、不鮮明な白と黄色の光の帯へと姿を変えていた。夕方まで無数の会社員を呑み込んでいたオフィスビルは、今や大半の明かりを落とし、コンクリートの海の中でいくつかの高層階だけが孤独に白く輝いている。
茜は窓際の青い座席に腰を下ろしていた。膝の上に置いたキャンバス地のトートバッグには、佐藤から突き返された赤ペンまみれの原稿が収まっている。彼女はそのバッグを、冷え切った両手で抱きしめるようにして胸元へ引き寄せていた。
視線はまっすぐに窓の外へと向けられていたが、その意識はガラスの向こうの景色を何一つ捉えてはいなかった。頭の芯では、昼間に浴びせられた佐藤の声が、低く不快な残響となって幾度も渦巻いている。
『理想だけでは食べていけません』
「……」
茜はきつく両目を閉じ、脳裏にこびりついたその声を強引に振り払おうと試みた。しかし、彼女の抵抗をあざ笑うかのように、編集者の冷徹なイントネーションがさらに深く追撃してくる。
『君は、自分の理想主義を死に物狂いで守り抜いて、ただの自己満足で飢え死にするタイプの作家になりたいのか。それとも、読者と妥協してでも、この業界で泥臭く生き残る作家になりたいのか、どっちだ?』
凍りつくような沈黙が、再び記憶の中で再生される。
『現実世界では、その両方を同時に手に入れられる者は滅多にいない』
茜はゆっくりと瞼を開け、どこか埃っぽい車両の空気を深く吸い込んだ。電車の速度が落ち、乗り換え用のターミナル駅へと滑り込む。プシューという気の抜けた音を立てて自動ドアが開くと、皺の寄ったスーツを着た中年男たちが、重い足取りでホームへと吐き出されていった。それと入れ替わるように、新たな人の波が狭い車内へと押し寄せてくる。
ホームのスピーカーから流れる駅員の野太いアナウンスが車内に木霊していたが、そのすべてが茜の耳を素通りしていくだけだった。思考が完全に停止している。
自分が降りるべき駅の名前が車内放送で告げられたとき、茜は弾かれたように我に返った。
「……あ」
慌てて背筋を伸ばし、ロングシートの座席から立ち上がる。閉まりかけたドアの隙間をすり抜けるようにして、ホームの冷たいコンクリートの上へと飛び出した。駅の古い柱の陰に立ち、激しく上下する呼吸を整える。
もし、今のアナウンスをあと数秒聞き逃していたら。彼女の抜け殻のような身体は、目的の駅を通り過ぎて、夜の闇の奥へと運ばれていってしまったに違いない。
アパートの薄暗い通路は、いつもより何倍も冷え切っているように感じられた。
茜はトートバッグのポケットから、震える指先で鍵を手繰り寄せた。金属の擦れ合う乾いた音を響かせながら鍵穴に差し込み、ノブを回す。
四畳半の狭い空間は、彼女がよく知るいつもの静寂で満たされていた。玄関のたたきで靴を脱ぎ、木製の折りたたみテーブルの脇にバッグを置くと、茜はその場に立ち尽くした。
いつもなら、部屋に足を踏み入れた瞬間に習慣が身体を動かす。台所の電気を点け、窮屈なシャツを脱ぎ捨てて部屋着に着替え、簡単な夕食の準備に取りかかる。それからノートパソコンの前を陣取るのが、彼女の日常のルーティンだった。
だが、この夜ばかりは違った。茜はただ部屋の中央に立ちすくみ、所在なさげに佇んでいた。
自分がどれほど長い時間、その暗闇を見つめていたのかさえ分からない。数分が経ち、部屋の空気が肌を刺すようになって初めて、彼女は、部屋にはまだ明かり一つ灯っていないことに気がついた。
「……」
パチリ、と壁のスイッチを押し下げる。
安っぽい蛍光灯の白い光が室内を容赦なく照らし出し、隅々の埃までを浮き彫りにした。しかし、昼間に受けた佐藤の言葉のせいだろうか、何百回と見てきたはずのこの四畳半の光景が、今はどうしようもなく見知らぬ他人の部屋のように思えてならなかった。
茜は台所の狭いスペースへと足を向けた。アルミの片手鍋を手に取り、食材を探そうと吊り戸棚を開けたところで、その動きがピタリと止まる。
「……」
私は今、何を作ろうとしていたんだっけ。
手にした鍋の冷たい感触をじっと見つめたまま、茜は小さく息を吐き出した。戸棚の奥のレトルト食品に手を伸ばす気力すら湧かず、彼女は鍋を静かに元の場所へと戻した。空腹感は、とっくにどこかへ蒸発してしまっていた。
結局、彼女がしたのは、電気ケトルで沸かした湯をマグカップに注ぎ、安物のインスタントコーヒーを溶かすことだけだった。分量も味も確かめないまま、木目の天板の上にそれを置く。かすかな湯気が白い線を描いて立ち上るのを、茜はただ見つめていた。
時計の針がどれほど進んでも、そのカップの縁に彼女の指先が触れることはなかった。
風呂場を出たあとも、長い黒髪にはまだ冷たい湿り気が残っていた。その冷たい雫が首筋に触れるたび、肌を刺すような寒さを覚えながら、茜は再び、仕事用の折りたたみテーブルの前に胡坐をかいた。
黒いノートパソコンは、いつもと同じ場所に鎮座していた。何も言わず、ただ主人の帰りを待つように沈黙している。茜は重い塊を吐き出すような溜息をつくと、液晶画面を静かに押し上げた。
インジケーターが点灯し、システムが起動する。暗い部屋の真ん中で、幾度となく見つめてきたフォルダの階層が画面いっぱいに広がった。
『ギルドの受付嬢』
矢印のカーソルが重苦しく動き、そのファイル名の上で静かに止まる。人差し指でカチリとクリックした。
テキストエディタが開く。そこには、ここ数ヶ月の間、彼女が夜明けまで向き合い続けてきたファンタジーの世界が広がっていた。茜は視線のピントを合わせ、冒頭から文字をなぞり始める。
一段落目。二段落目。三段落目。
しかし、最初の半ページを読み終えるよりも早く、彼女の脳内で昼間の佐藤の声が再び鮮烈に跳ね起きた。文字を読む集中力が、容赦なく切断される。
『君は、自分のファンタジーの世界を説明しすぎているんだ、茜』
茜は小さく首を振り、強引に次の段落へと視線を滑らせようとした。
『読者の読解力を少しは信じろ。彼らは義務教育を終えた大人だ、馬鹿じゃない』
タッチパッドの上の指が、微かに震えながら原稿を下へとスクロールさせる。
『この長々とした背景説明は、本当にこの物語に不可欠なものかね?』
茜の指が、完全に動きを止めた。彼女は手を引っ込め、自らの膝の上で拳を握りしめた。青白い明かりを放つモニターを見つめる彼女の瞳には、もはやシーナやミナミの冒険譚は映っていなかった。
彼女が今突きつけられているのは、小説の登場人物たちの運命ではない。作家としての自らの底の浅さ、そして独りよがりな限界という名の、底なしの穴だった。
「……」
それでも、彼女はもう一度キーボードへと手を伸ばした。いくつかのキーを叩き、第十三話の新しい書き出しを模索してみる。しかし、数文字打ったところで指が止まる。天板を睨みつけ、すぐに消去キーを何度も叩いて、白い画面を元の空白へと戻した。
別の言葉を選び、現代風の少し硬質な表現で文脈を繋ごうとしてみる。やはり止まる。そして、再び消す。
画面の片隅で、小さな黒いカーソルが規則正しく点滅を繰り返している。その冷徹なリズムだけが、誰もいない室内の静寂を刻んでいた。
物語のアイデアが間違っているわけではない。シーナの現実的な判断力にも、ミナミの地に足の着いた温かみにも、破綻はないはずだ。
今、この胸の奥を底なしの恐怖で満たしている唯一の歪み。それは、自らが「書き手」として持ち合わせているはずの能力への、致命的な疑念だった。
私は、ただ自分の肥大したエゴを満足させるために、この数ヶ月の夜を無駄にしてきたのだろうか。
狭い四畳半の部屋は、再び夜の深い墓標のような静けさの中へと沈んでいった。パソコンの排気ファンが放つ低い微風の音だけが、熱を帯びた機械の生存を告げている。壁のプラスチック製の時計は、彼女の焦燥など意に介さず、乾いた音でチクタクと時を刻み続けていた。はるか遠くの外の世界で、最終電車の重苦しい地鳴りのような鉄音が響き、そしてゆっくりと闇の彼方へ消え去っていく。
茜はついに手を伸ばし、ノートパソコンの画面を押し下げた。パタン、と静かなプラスチックの合わさる音が部屋の壁に跳ね返る。
光源が消え、室内は一瞬にして元の完全な暗闇へと塗り潰された。茜は折りたたみ椅子の背もたれに自らの体重を預け、途切れがちな、浅い呼吸を繰り返した。両手を顔の前に掲げ、その闇の中で自らの輪郭を隠すように顔を覆う。
エプロンを締めて喫茶店のフロアに立ち、夜はキーボードを叩き続けると決めて以来、初めてのことだった。
震える唇の隙間から、あまりにも他愛のない、しかし彼女のすべてを剥ぎ取るような短い呟きがこぼれ落ちた。
「……私は、一体何をしているんだろう」




