第22章 絶対的な問い(2)
「それは……」
茜は一度言葉を絞り出し、机の上で指先を小さく震わせた。目の前で突きつけられた赤ペンの海を前に、頭の中で崩れかけそうになる筋道を、必死に組み立て直す。
「……そのポイントで、昨夜までどうしても繋がらなかったプロットの歪みが、ようやく有機的に動き出したように感じられたからです。行き詰まっていた物語を、不自然さなく前に進めるための、これ以上ない突破口だと考えました」
佐藤は感情の読めない顔のまま、小さく二度、三度と深く頷いた。そこに肯定の気配は微塵もなかった。男はそれ以上反論の言葉を口にすることもないまま、右手を胸ポケットへと滑らせ、一本の太い赤ペンを抜き取った。
そして――シャッ、シャッ、シャ。
冷徹で、一切の迷いを含まない重い筆致が、茜が昨夜一晩を賭して生み出した最もお気に入りだった段落のほぼすべてを、容赦なく横線で塗り潰していった。白い紙の上には、どろりとした鮮烈な赤インクの染みだけが、不気味な川のように残される。
茜の瞳が、衝撃のあまり完璧に見開かれた。椅子の上で全身の筋肉がガチガチに硬直する。喉の奥が引き攣れ、肺の空気が一瞬で奪われた。
「……え? どうして消すんですか?」
佐藤は微かな、しかし確かな重量感を持った音を立てて赤ペンをテーブルに置いた。そして、赤でズタズタにされた原稿を卓上で器用に滑らせ、茜の胸元へと突き戻す。
「残された一行を読みなさい」
佐藤の口調は、どこまでも平坦で冷ややかだった。
茜は激しく脈打つ心臓の音を耳の奥で聞きながら、赤インクの惨劇を辛うじて逃れた、わずかな文章へと視線を落とした。一晩中脳の細胞を絞り尽くして構築した長い段落は、今や、あまりにも短く不格好な一行の事実のみを遺していた。
――カラン。作業着のポケットから、硬い何かが床へと滑り落ちた。
それだけだった。そこには機械的で、徹底的に無機質な事実しか残されていない。
茜は顔を上げ、目の前の編集者を強い不満と割り切れない感情の入り混じった目で見つめた。
「佐藤さん……なぜ、あれほど本質的で、物語を成立させるために必要な説明を、原稿から削除しなければならないんですか? これでは読者に何も伝わりません」
「私は君のアイデアを削除したわけじゃない、茜」
佐藤は静かに背もたれに体重を預け、組んだ両手の上に顎を載せるようにして冷ややかに言った。
「その開示のタイミングを、読者にとって最も効果的な位置まで、少しだけ後ろに遅らせただけだ」
「……」
「君は、アマチュア作家特有の慢性疾患を患っている」
佐藤の声のトーンが一段と低くなり、二人の間のわずかな空気を重く圧迫する。
「常に先を急ぎすぎているんだ。ページをめくらせる前に、読者に対してすべての謎の解答用紙を最初から一度に手渡そうとしてしまう。親切心のつもりかもしれないが、それは娯楽としては最悪の裏切りだ」
男は原稿を再び自分の手元へと引き戻した。
「この、物体が落ちた音の直後のプロット構造を見てみろ。君は次の段落で、それが古い金貨であることを早々に説明し、ページを浪費してその王国の起源を語り、現代の価値に換算した計算式を並べ、シーナがそれをポケットに忍ばせていたセンチメンタルな理由まで一気に書き連ねている」
佐藤は茜の瞳の奥をじっと見つめた。そのプロとしての容赦のない視線は、彼女の作家としての肥大したエゴを冷酷に剥ぎ取っていく。
「すべてのミステリと解答を、最初からこんな大口でスプーン一杯に詰め込まれてしまったら、読者が『次のページをめくる』ための本質的な理由がどこに残ると思うかね?」
「読者は答えを楽しんでいるわけじゃないんだ、茜」
佐藤は淡々と、しかし出版業界の動くことのない冷酷な現実を突きつけるように続けた。
「彼らが数百円の入った商業の文庫本を買うのは、キャラクターと共に、その答えにたどり着くまでの過程を、登場人物と一緒に楽しみたいからだ。驚きや焦燥感を共有したいからだ。君は自分の書きたい説明を満足させるためではなく、読者を満足させるために書かなければならないんだ」
その言葉を再び、より重い質量で突きつけられた瞬間、茜の胸の奥で何かが激しく弾けた。最初の打ち合わせから、そしてそれ以前から心の底に澱のように溜め込んできた不満と圧迫感が、一気に限界点に達したようだった。彼女は木製のテーブルの端を指白くなるまで強く握りしめ、佐藤の視線をまっ正面から睨み返した。
「もし、すべての執筆の決断を読者の顔色を窺うためだけ、売れるためだけに下すのだとしたら……」
茜は言葉を絞り出した。呼吸がかすかに震え、肩が小さく上下する。
「……そんなことをしていたら、最終的に本屋に並ぶ小説は、すべて同じような顔をしたものになってしまうんじゃないですか? 私の書く意味なんて、どこにもなくなってしまう」
その問いは、研ぎ澄まされた刃となって二人の間の重苦しい空間を鮮やかに切り裂いた。
佐藤は唐突に沈黙した。赤ペンの位置を直そうとしていた右手が、静寂の中でピタリと止まる。男は、これまで常に従順で、指示通りに修正を重ねてきたはずのアマチュア作家の、見たこともない頑なな、しかし確かな牙を含んだ側面を発見したかのように、じっと茜を見つめていた。
重苦しい静寂がテーブルの周りを完全に支配し、カウンターの奥から響くエスプレッソマシンの微かな駆動音さえも遠くにかすんでいく。遠巻きに店内の掃除をしながら様子を窺っていたしおりちゃんと結衣ちゃんも、ただならぬ気配に思わず息を呑み、動くのをやめていた。
佐藤はゆっくりと手を下ろした。その唇の端が、ほんのわずかに歪む。それは極めて珍しい、しかし確かな敬意と、作家としての魂を認めたような静かな笑みだった。
「いい質問だ」
佐藤は目の前の厚手のファイルを静かに閉じ、その場の張り詰めた空気を一度落ち着かせるように言った。
「もし君の目的が、他人の評価など一切気にせず、自分の書きたい物語を書きたいように書くことだけなら、個人で同人誌でも作って売る方が精神衛生上よほど健全だ。そこなら編集者の介入もなく、君が絶対的な独裁者でいられる。誰も君を傷つけない」
佐藤はわずかに身体を回し、大きなガラス窓の向こうへと視線を向けた。真夏の容赦ない日差しが照りつけるアスファルトの上を、名前も知らない無数の、そして本を読まないかもしれない歩行者たちが行き交っている。
「だが、もし君が最初から、商業出版という、見ず知らずの他人に金を払ってもらう、泥臭い商売の世界に足を踏み入れる覚悟を決めているのだとしたら……」
佐藤は再び首を巡らせ、茜の瞳の奥をまっすぐに見据えた。その眼差しはどこまでも静かだったが、先ほどよりも何倍も冷たく、そして逃れることを許さないほどに重かった。
「茜」
男は一拍、周囲の音をすべて吸い込むような間を置いた。
「君は、自分の理想主義を死に物狂いで守り抜くタイプの作家になりたいのか……」
二つ目の間が、周囲の空気を完全に凍りつかせる。
「……それとも、この業界で死なずに『生き残る』ことのできる作家になりたいのか、どっちだ?」
茜は椅子の上で完全に硬直したまま、言葉を失った。
「現実世界では、その両方を同時に手に入れられる者は滅多にいない」
佐藤はそう冷酷な結論を卓上に投げ出すと、椅子から静かに立ち上がった。少しシワの寄った白いシャツの折り目を手で払い、ズボンのポケットから革の財布を取り出す。そして、千円札を数枚、木製の天板の上に静かに置いた。
「ごちそうさま。いい空間と、美味しいコーヒーだったよ」
男は事務的な口調でそれだけ言うと、カウンターの奥で待機していた美咲さんに向けて、ゆっくりと慇懃な一礼を送った。それから身体を百八十度反転させ、出口のドアへと向かって歩き出す。
しかし、靴の先端がドアの一歩手前に達した瞬間、佐藤は不意に足を止めた。
振り返ることもなく、ただ視線の端だけで茜の様子を薄く窺う。長い沈黙が、再びカフェの空気を支配した。
「茜」
「はい、佐藤さん……」
茜の声は、喉の奥で辛うじて形を保っている状態だった。
「もし、私が君の物語にこれっぽっちの未来も感じていないのだとしたら……」
男はまっすぐにフロントのガラスドアを見つめた。
「……わざわざ時間を割いて、こんな場所まで足を運ぶような真似はしない」
アマチュア作家からの返答も、動揺の言葉も待つことなく、佐藤はガラスのドアを迷いのない手つきで押し開けた。
カラン、とドアの上のベルが再び短い音を立てる。真夏の加熱されたアスファルトの陽炎の向こうへと、ベテラン編集者の後ろ姿は瞬く間に溶けて消えていく。
店内に残されたのは、妙に据わりの悪い静寂だけだった。佐藤の残していった言葉は、傷ついた心を癒やしてくれるものではなかった。それどころか、その言葉は新たな困惑の質量を持って、濃厚なコーヒーの香りと共にカフェの店内に冷たく漂い続ける。
茜は木製の椅子に腰掛けたまま、身動き一つできなかった。目の前の天板には、佐藤が置いていった数枚の紙幣だけが寂しげに残されている。肩は力なく落ち、朝から必死にかき集めていた創作への気力は、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗に蒸発してしまっていた。頭も、心も、限界まで満たされていると同時に、完全に麻痺して何も感じなくなっていた。
しおりちゃんが、躊躇いがちな、しかし優しい足取りで角の席へと歩み寄ってきた。静寂を破らないよう、その足音は極めて静かだった。
「茜ちゃん……」
しおりちゃんは蚊の鳴くような声で呼びかけた。その瞳には、心からの純粋な心配の色が浮かんでいる。
「……大丈夫?」
茜は重い息を吐き出し、強引に顔の筋肉を動かそうと試みた。しかし、ダメだった。今回ばかりは、薄い作り笑いさえ浮かべることができない。彼女の唇は固く結ばれたまま、諦念の滲む一本の直線を形作っていた。
彼女はただ、同僚と視線を合わせることを拒むように、小さく弱々しく首を横に振るしかなかった。
「私……わからないの、しおりちゃん」
茜の呟きはあまりにも細く、カウンターの奥で唸りを上げるマシンの蒸気音にかき消されてしまいそうだった。
しおりちゃんはそれ以上、踏み込んだ質問を重ねることはしなかった。誰かをそっとしておくべきタイミングを、彼女は直感的に理解していた。ショートヘアの少女は静かに頷くと、再び自分の殻に閉じこもっていく茜を残して、音もなくその場を離れていった。
自分のノートパソコンを開き、ファンタジー小説の第一話の一行目を打ち込んで以来、茜は初めて「プロットの良し悪し」とはまったく違う次元の恐怖に直面していた。
彼女は、これまでの執筆のブロックよりも遙かに深い、底なしの暗闇へと突き落とされていた。佐藤が突きつけた商業出版の現実、市場との妥協、作家としての理想との食い違い。それらの言葉が、彼女の頭の中に、これまで考えたこともなかった疑問を残していた。
その疑問は今、彼女がこれまで想像したこともなかった、全く別の「選択肢」へと彼女の背中を静かに押し始めていた。




