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ギルド受付嬢の新しい暮らし  作者:
物語は始まる

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第22章 絶対的な問い(1)

 カラン、と入り口のガラスドアに据えられた真鍮製の小さなベルが、短く乾いた音を立てた。その音だけが、昼時のピークを迎えつつある店内の喧騒を一瞬だけ断ち切った。

 店内には、磁器のスプーンが皿に触れる微かな音や、客たちの低い話し声が絶え間なく響いていた。外の道路を支配する真夏の暴力的な熱気が、ドアの隙間から一瞬だけ滑り込んできて、冷房で冷え切ったフロアの空気をわずかに揺らす。

「いらっしゃいませ」

 夜明け前の開店準備から、もう何十回と繰り返してきた挨拶が、茜の唇から滑らかにこぼれ落ちる。もう身体が覚えてしまった、生活のための習慣だった。視線はまだ、レジカウンターの液晶画面に表示された売上データの数字に固定されたままだった。

「こんにちは」

 返ってきた声のイントネーションは、あまりにも平坦で、起伏がなかった。それでいて、その声は茜の記憶の奥深くに、あまりにも馴染んでいた。

 茜はハッとしたように弾かれた顔を上げ、液晶画面の明かりから強引に視線を外した。

「……」

 言葉の続きが、喉の奥で硬く凍りつく。全身の筋肉が条件反射的にこわばり、背中の中心を走る細い神経が、冷ややかな警戒信号を一斉に発信し始めていた。

「佐藤さん……」

 そこに立っていたのは、見紛うはずもない彼女の担当編集者だった。白いプレーンな長袖シャツの袖口を、肘の下あたりまで寸分の狂いもなく几帳面に捲り上げた男が、入り口のマットのすぐ近くに直立している。夏の強い日差しのせいで、その輪郭は一瞬だけ逆光の中に霞んで見えたが、その佇まいが放つ独特の威圧感は健在だった。男の左脇には、使い古されて四隅が少し茶ばんだプラスチック製の厚手のファイルが厳重に挟まれている。

「ブラックを一杯頼むよ」

 佐藤は短く、それだけを告げた。その表情には、長距離の移動による疲労の影も、あるいは久しぶりに作家の顔を見たという親愛の情も、一切浮かんでいなかった。ただ業務的な淡々とした眼差しが、茜の瞳をまっすぐに捉えている。

 茜は、その場で二秒ほど硬直した。指先がどこにあるのかさえ分からなくなるほど、意識が目の前の現実から遠のいていた。

「……あ、はい。少々お待ちください。四番テーブルへどうぞ」

 ぎこちない手つきでタッチパネルを操作し、注文を入力する。カウンターの奥でその操作を受け取った結衣ちゃんが、レジから印字されて出てきた小さな伝票の品名に目を留め、不思議そうに細い眉をひそめて小さく囁いてきた。

「茜ちゃん、普通のブラックコーヒー? トッピングもミルクも何もなし?」

 茜は、ただ小さく頷くことしかできなかった。

「ええ、そうです。そのままで」

 バックヤードの奥で、重厚なエスプレッソマシンが低い駆動音を立て、濃厚な黒い液体を抽出し始めるまでに、そう時間はかからなかった。薄い湯気をかすかに立ち上らせる磁器のカップが、結衣ちゃんの手によってトレイに載せられ、大きな窓に面した四番テーブル――いつもの角の特等席へと運ばれていく。

 佐藤は運ばれてきたカップの前に座り、トレイを引こうとする茜と一瞬だけ視線を合わせたまま、短く顎を引いた。

「ありがとう」

 それだけだった。しかし、男は外の猛暑から持ち込んできたその茶色のプラスチックファイルを、すぐに開こうとはしなかった。目の前に置かれたばかりの、まだ新鮮な熱を帯びたカップの温もりに触れようと、その指先を伸ばすことさえしない。ただ木製の椅子に深く背もたれを預け、ガラス窓の向こう側、容赦ない陽射しに晒されたアスファルトの歩道を、目的もなく所在なさげに見つめていた。何分もの時間が、二人の間にまともな言葉の応酬もないまま、静かに流れていく。

 小さな喫茶店は、その四番テーブルだけに漂う奇妙な停滞をよそに、いつものリズムで動き続けていた。新しい客がどこからか忙しなさの欠片を店内に持ち込み、役目を終えた古い客が静寂だけをテーブルに残して去っていく。

 しおりちゃんは大きめの木製トレイを胸の前に抱え、客たちの間を縫うようにして通路を往復している。結衣ちゃんは常にスチームの白い唸りを上げるマシンと格闘し、ピッチャーの中でミルクを泡立てる音を響かせている。そして美咲さんは、カウンターの奥の定位置から、時折フロア全体の動向に鋭い視線を走らせていた。

 美咲には、茜がただならぬ緊張を抱えていることだけは分かっていた。ただ、その原因が店の仕事とはまったく関係のない「小説の原稿」にあることまでは、まだ知る由もなかった。

 やがて、店内の壁に掛けられたクラシカルなアナログ時計の長針が真上を指し、パート従業員のシフト交代と、休憩時間の始まりを告げる位置まで正確に進んだ。

 佐藤がようやく腰を上げ、隅の席から静かな、しかし確かな足取りで歩み寄ってきた。

「茜」

「はい、佐藤さん」

「休憩時間に入ったなら……」

 佐藤は一度言葉を切り、手首に巻かれた銀色の腕時計に冷ややかな目を落とした。

「少し時間をくれないか。ここで、話がある」

「……はい、わかりました」

 近くにいた美咲はすぐに頷いた。

「茜、今すぐ休憩に入りなさい。こっちのレジは私が代わるから。終わるまで戻ってこなくていいわよ」

「ありがとうございます、美咲さん」

 茜は腰の後ろで黒いエプロンの紐を解き、鉄のフックに掛けた。しかし、いつもの静まり返った従業員用のバックヤードへは向かわず、佐藤の背中を追うようにして、店の最も奥に位置する、まだ誰の体温も残っていない空席へと向かった。そこは、フロアに並ぶ他の客たちの耳から完全に隔離された、死角の席だった。

 佐藤は対面の椅子に深く腰を下ろすと、茶色いプラスチックファイルのファスナーを掴み、ジリジリと鋭い不協和音を店内の空気に響かせながら開けた。中から引っ張り出されたのは、昨夜遅くに茜がメールで送ったばかりの、第十三話の修正原稿の束だった。A4の白いコピー用紙に印刷された原稿が、テーブルの木目の上に広げられる。

 テーブルの上に晒されたその紙の山を目にした瞬間、茜は思わず生唾を飲み込んだ。

 ページの余白には、太い赤ペンの線や容赦なく打たれた巨大なバツ印、行間まで埋め尽くす細かな修正指示がびっしりと書き込まれていた。白い紙の上に散った鮮烈な赤は、何度も切りつけられた傷口のように見えた。

 佐藤は表情一つ変えないまま、ゆっくりとした手つきで数ページの紙をめくっていき、中ほどのあるページでピタリと手を止めた。男の指先が、下段にある長めの段落をコン、と静かに叩く。

「このシーンだが」

 佐藤の声は硬かった。

 茜は机の上に身を乗り出すようにして、自分が昨夜、夢中になって書き上げた文章を視線でなぞった。主人公のシーナが、洗濯をしようとして自らの鎧のインナーポケットに手を突っ込んだ際、偶然にも「王国の秘密任務の指令書」を見つけ出すシーンだ。

「この発見のくだりは、今回君が書き直してきたエピソードの中で、君自身が最も気に入っている部分かね?」

 佐藤の視線が、まっすぐに茜の瞳を捉えた。まるで彼女の心の中にある、ささやかなプライドの残骸を見透かそうとするかのように。

 茜は口の中が干からびていくような渇きを覚えながらも、小さく頷いた。

「……はい、そうです」

「なるほど。では、そう判断した論理的な理由を一つ、私に聞かせてもらえるかな」


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