第21章 いつも通りの日
カラン、とドアの上部に据えられた真鍮製の小さなベルが鳴った。その短い余韻が店内の空気に溶けきるより早く、聞き慣れた四つの声がほとんど同時に重なった。
「いらっしゃいませ」
フランネルのシャツを羽織った中年男が、軽く右手を挙げて応える。男は慣れた足取りで、大きな窓に面した隅の席へ向かった。四番テーブル。いつもの特等席だ。
「今日も、いつものカフェオレでよろしいですか?」
茜は小さな伝票を手に、その席へと歩み寄った。
「ああ、温かいのを一杯頼むよ」
男は穏やかな、しかしどこか形通りの薄い笑みを浮かべた。
「かしこまりました。少々お待ちください」
茜は丁寧に一礼すると、業務用メニューの冊子を開くこともなくカウンターへと引き返した。カップのサイズを確かめる必要もなければ、ミルクの加減を訊ねる必要もない。その注文内容は、すでに彼女の頭の中にすっかり染みついていた。
「カフェオレ、私が作るわね」
結衣ちゃんが手際よく茜から伝票を受け取る。
「ありがとうございます、結衣さん」
ゴトゴトと重い音を立てて、エスプレッソマシンが再び駆動音を響かせ始めた。抽出されたばかりの濃厚なコーヒーの香りがゆっくりと広がり、冷房で冷え切った店内の空気を塗り替えていく。フロアの反対側では、しおりちゃんが朝の客が去ったばかりの木製テーブルを忙しなく拭き上げていた。
「しおり」
カウンターの奥から、美咲さんの短い声が飛ぶ。
ショートヘアの少女は、ダスターを動かす手をぴたりと止めた。
「はい、何ですか美咲さん?」
「あんたの右手側の角の席、まだ人がいるわよ」
「……え?」
しおりちゃんの身体がその場で凍りついた。首だけがゆっくりと真横に四十五度回転する。カジュアルな私服姿の男性客が、心底きょとんとした顔でこちらを見上げていた。男の前に置かれたアイスコーヒーは、まだ半分も減っていない。
「……」
「わぁっ! すみませんっ!」
しおりちゃんは勢いよく頭を下げた。ヘアピンが震えるほどの直角のお辞儀だ。
「ご、ごめんなさい! 完全に私の不注意です!」
客の男性は一瞬呆気にとられていたが、やがて可笑しそうに吹き出した。
「ああ、いいよいいよ。どっちみち、もうほとんど飲み終わるところだったから」
しおりちゃんは気まずそうに何度もペコペコと頭を下げながら、恥ずかしさで顔を真っ赤にしてカウンターへと後ずさった。
その様子を一部始終見ていた結衣ちゃんが、胸の奥から重苦しい溜息を吐き出す。
「しおりちゃん……」
「はい、結衣さん……」
しおりちゃんは力なく項垂れた。
「さっきあんたが突撃しかけたのは、生きてるお客様。片付けを待つ無人のテーブルじゃないわ」
「わかってます……。手がグラスに伸びかけた瞬間に、ようやく間違いに気がつきました……」
しおりちゃんは泣きそうな声で愚痴をこぼした。
美咲さんは、夜明け前から目を通していた原材料の在庫管理ノートをパタンと軽い音を立てて閉じた。
「まあ、今回の粗相に関しては、お客様のグラスをテーブルから持ち上げる前に踏みとどまっただけマシとすべきかしらね」
「……」
しおりちゃんは数秒間沈黙し、哀れっぽい手つきで瞬きを繰り返した。
「……実は」
彼女はバツの悪そうな笑みを浮かべ、こめかみを掻いた。
「……指先、もうグラスの持ち手に触る寸前でした、ボス」
カウンターの内側に、妙にシュールな静寂が広がった。
レジの手元で売上金を数えていた茜が、突如として顔を伏せる。笑いを堪えきれずに両肩が激しく震えていた。その隣で結衣ちゃんは急に痛み出した頭を宥めるようにこめかみを揉み、美咲さんは再び、短くも深い溜息をついた。
「……明日、開店前のミーティングで、空席と使用中の席を見分けるっていう初歩中の初歩から復習しましょうか」
美咲さんの声は平坦だったが、それゆえに拒絶を許さない絶対的な響きがあった。
「はい、ボス……」
しおりちゃんの返事は、幽霊の囁きのように蚊細かった。
木目の温もりに満ちた小さな喫茶店の日常は、何事もなかったかのように再び静かに回り始める。ドアのベルはその後も絶え間なく鳴り響き、街の喧騒を切り取った人々を迎え入れては送り出していった。新しい客が忙しなさの欠片を持ち込み、古い客が静寂を残して去っていく。
磁器のスプーンが触れ合う微かな音、コーヒーマシンの蒸気音、そして中央の席から漏れ聞こえる他愛のない話し声。それらの雑音が不思議な調和を保ちながら、単調で、しかしこれ以上なく心地よいリズムとなって茜の耳の奥へと染み込んでいった。
壁のアナログ時計の針が正午に近づくにつれ、客席を埋めていた人の波も引き潮のように穏やかになっていく。
美咲さんは壁の時計に目をやり、それからカウンターの隅に立つ茜を見つめた。
「茜」
「はい、美咲さん」
「そろそろ休憩に入って」
「ありがとうございます。いただきます」
茜は腰の後ろで結ばれていた黒いエプロンの紐を解き、裏口のドア横にある鉄製のフックに掛けた。キャンバス地のトートバッグから薄型のノートパソコンを取り出すと、そのまま従業員用の休憩室へと足を向ける。
内側は、極めて簡素な空間だった。小さな折りたたみテーブルに、スチール製のパイプ椅子が数脚。あとはウォーターサーバーと、パート従業員用のロッカーが並んでいるだけだ。ドアを一枚隔てただけの室内は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
パイプ椅子に腰を下ろし、木目の天板にパソコンを置く。液晶画面を開くと、執筆中だったファンタジー小説の原稿が、白い光を放って暗い室内を照らし出した。
エプロンのポケットから手帳を取り出す。そこには、彼女自身の言葉でこう記されていた。
『同じ一日でも、物語は変えられる』
心の中でその言葉をなぞり、手帳をパタンと閉じた。
視線を画面に戻すと、第十三話のタイトルの下で、黒いカーソルが規則正しく点滅している。今回は、脳を苛むような長い空白は訪れなかった。真っ白なデジタル画面を前に、指先がすくむようなあの嫌な感覚もない。頭の中には、すでに一つの確かな答えがあった。
キーボードの上で、指先が滑らかに踊り始める。
澱みのない文章が、堰を切ったように溢れ出ていく。時折、一連の段落の響きを確認するために数秒だけ手が止まるものの、すぐに確かな打鍵音が室内に響き渡った。
どれくらい時間が経っただろうか。不意にドアを叩く音が、その集中を遮った。
コン、コン。
「茜ちゃん」
木製のドアの隙間から、しおりちゃんの声が漏れてくる。
「そろそろ休憩時間終わりだよ。レジに戻る時間」
「あ……うん、すぐ行く!」
茜は画面の右下に目をやった。
いつの間にか、執筆への没頭が休憩時間をすべて食いつぶしていた。深く息を吐き出しながらカーソルを動かし、今しがた書き上げた『ギルドの受付嬢』の新エピソードを読み返す。
冒頭の一行から、最後の句点に至るまで。
少なくとも、今の自分には、もう引っかかるところはなかった。主人公のシーナが、洗濯しようとした制服の内ポケットから「王国の秘密任務の指令書」を見つけるというディテール。それなら、ミナミのキャラクター性を崩すことなく、物語を先へ進められる。
「よし……これでいこう」
タッチパッドを操作し、編集部のメールアドレスが入力された送信ボタンへと矢印を合わせる。
カチリ、とクリックした。
画面中央に、小さなダイアログボックスが表示される。
『送信中……』
静寂が数秒間だけ流れ、やがて画面の文字が切り替わった。
『送信が完了しました』
茜はそのシステムメッセージを静かに見つめ、パソコンを閉じた。胸の奥に溜まっていた重苦しいものが、少しだけ軽くなったような気がした。
パイプ椅子から立ち上がり、壁のフックから黒いエプロンを手に取る。慣れた手つきで腰の後ろに硬い結び目を作った。
かすかに顎を引き、茜は休憩室のドアを押し開けて再びフロアへと足を踏み出した。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この作品を書き始めてから、何度も「本当にこの物語でいいのだろうか」と迷うことがありました。
それでも、書き終えた物語は、誰かに読んでもらわなければ始まりません。
もしこの先も茜たちの物語を読んでみたいと思っていただけたなら、
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皆さんからいただいた反応のひとつひとつが、
この物語を書き続けるための力になります。
これからも、自分が最後まで読みたいと思える物語を、丁寧に書いていきます。
それでは、次の章でお会いしましょう。




