↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
原稿用紙 ~ ギルド受付嬢の新しい暮らし  作者:
物語は始まる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/50

第26章 読み返す(2)

削ぎ落とされた新しい原稿データが、静かに保存される。

 茜は液晶画面の向こう側に広がる文字列を、重苦しい静寂の中でじっと見つめ直していた。タッチパッドの上に置いた指先をかすかに動かし、物語の時間軸をさらに数チャプター前へと巻き戻していく。

 シーナがこの現代世界の奇妙な規律を覚え、台所の配置を軍隊仕込みの正確さで整えていくシーン。ノートの切れ端に四角四面なスケジュールを書き込み、ミナミのズボラな生活態度に眉をひそめる描写。

 茜の目は、ある一ページの上でピタリと止まった。シーナが、自分がこの部屋でしている行為の限界に気づく場面だ。彼女は単に居候としての義理を果たしていたわけではなかった。少女はいつの間にか、ミナミの退屈な日常に深く介入し、彼という人間の生活に対して、作者自身も気づかないほどの重い責任を自らの意志で背負い込もうとしていたのだ。

 茜は息を潜め、その一連の流れを頭の中で組み立て直した。

「もし、二人の間の感情の動きが、本当にこのルートに沿って進んでいるのだとしたら……」

 茜の呟きは、パソコンの排気ファンの低い唸りにかき消されそうなくらいに小さかった。

 結衣ちゃんが怪訝そうに顔を覗き込んでくる。

「どこか、描写に不自然なところでもあるの、茜ちゃん?」

「……うん。この段落。もしシーナが、自分がミナミの領域に踏み込みすぎていることを自覚しているのだとしたら、彼女のキャラクター性からして、こんな風に何の前触れもなく姿を消すのは、心理的な整合性がつかない気がするのよ」

「どうしてそう思うの?」

「だって、普通の人間関係なら、部屋を出て行く前に、まずはテーブルを挟んでお互いの不満を正直に話し合うっていうプロセスが、何パーセントかは存在するはずでしょう? それを無視して飛び出すのは、少し展開を急ぎすぎている気がするの」

 茜の至って冷静な分析に、結衣ちゃんはゆっくりと顎を引いた。

「確かに、一理あるわね。その方が、現実の人間らしい葛藤が見えるかもしれない」

 するとその時、畳の端で完全に議論の圏外にいたはずのしおりちゃんが、不意に右手を高く掲げた。

「はい! 質問です!」

 茜は首を巡らせた。

「な、何、しおりちゃん」

「もしさ、シーナちゃんが『本当のことを言葉にして話したくない』っていう、めちゃくちゃ頑なな精神状態になってるんだとしたら、どうなるの?」

 しおりちゃんは至って無邪気な顔で、手元のスナック菓子の最後の破片を口に放り込んだ。

「現実の人間だってさ、話し合うのが正しいって頭では分かってても、プライドが邪魔して絶対に口を開きたくない時ってあるじゃん。ミナミくんがどれだけ椅子を引いて『座れよ』って言ったって、絶対に拒絶するような頑固な時がさ。シーナちゃんって、そういう頑固な女の子なんじゃないの?」

「……あ」

 茜は、直撃を受けたように言葉を失った。開いた口が塞がらないまま、しおりちゃんの顔を見つめる。

 結衣ちゃんが隣で、感心したような、しかしどこか呆れたような薄い笑みを浮かべた。

「認めざるを得ないわね、茜ちゃん。しおりちゃんのその恐ろしく不作法な直感は、時にどんな文学理論よりも、君のキャラクターの歪んだ心理の核心を正確に突いているわ」

 茜は再び液晶画面の青白い明かりに向き直った。

「どうして……どうして二人とも、そんな鋭い指摘を、そんなに他愛のない雑談みたいに簡単に放り出してこられるのよ……」

 しおりちゃんは首を傾げ、眉をひそめてみせた。

「え? 鋭いことなんて言った? 私はただ、自分が本当にお腹が減った時に考えるようなことを言っただけだよ?」

 茜はこれ以上、その無垢な野生の感性にエネルギーを浪費するのをやめた。視線を原稿のブロックへと戻す。

 今夜、彼女が自らの手帳を閉じる前に気づかされた最大の過ちは、自分がこれまで、キャラクターたちの動向をあまりにも神の視点から傲慢にコントロールしすぎていたという事実だった。作者である彼女は、次のページで何が起きるかを知っている。物語の結末の輪郭もすべて把握している。

 そして、まさにそのすべてを知っているという全能感の裏側で、彼女は常に、読者が自分の意図を誤解するのではないかという矮小な恐怖に怯え続けていたのだ。だからこそ、キャラクターがひとたび行動を起こすたびに、ページを浪費して長々とした感情の説明や、ポエティックな形容詞をこれでもかと肉付けして、読者を熱心に説得しようとしてしまう。

 だが、それこそが、佐藤から読者に対する最悪の裏切りだと叩き切られた、アマチュアの慢性疾患の正体だった。

 茜はカーソルを動かし、数日前に自分が頭を絞り尽くして書き上げた、一際分厚い文章のブロックを選択した。ミナミが去りゆくシーナの後ろ姿を思い、部屋の暗闇の中でどれほど深い喪失感と絶望に打ちのめされているかを、美辞麗句を並べて書き連ねた、彼女の一番のお気に入りだったパートだ。

 茜はそれを一文字ずつ心の中でなぞり、それから――躊躇うことなく、消去キーを押し下げた。

 カチリ、と静かなプラスチックの音が響き、彼女の自尊心そのものだった長い文字列が、液晶画面の上から一瞬にして跡形もなく消失した。

 結衣ちゃんが思わず目を剥き、驚愕の声を上げる。

「茜ちゃん!? あんた、今書き上げたばかりの、あんなに綺麗に書けてた説明の段落を、全部消しちゃったの!?」

「ええ、全部捨てたわ。一文字も残さずに」

 茜の声には、昨夜までの迷いや怯えはどこにもなかった。そのトーンには、不思議なほどに透き通った、新しい確信の質量が満ちている。

「だって、必要ないもの。シーナが去った後の静まり返った部屋に入ってきて、誰もいない暗闇に向かって彼女の名前を呟いて、その返事がどこからも返ってこないという事実を、私の文章はすでに具体的に描いているわ。読者の目は、そのミナミの行動をすでに追っている。それなのに、作者である私が後からしゃしゃり出てきて、『彼は今、世界で一番孤独です』なんて言葉で耳元でくどくど説明を重ねるなんて、これ以上ない蛇足でしょう?」

 結衣ちゃんは言葉を失い、開いた口を閉じることができなかった。彼女の知的な頭脳は、そのシンプルな引き算の奥にある、小説という娯楽の恐るべき機能美を完全に理解していた。

 しおりちゃんがポリ袋の端を弄りながら、素朴な疑問を投げかけてくる。

「でもさ、茜ちゃん。そんな風に言葉をケチっちゃったら、本屋さんでこの本を買ってくれた人が、『ミナミくんがどれくらい悲しんでるか』分からなくなって、迷子になっちゃったりしない?」

 茜は首を巡らせ、同僚の真っ直ぐな目を見つめ返した。

「ええ。その恐怖が、ずっと私の指先を縛り付けていたのよ、しおりちゃん。読者に置いていかれるのが、怖くてたまらなかった。だけど――」

「だけどさあ」

 しおりちゃんは、最後の一口のスナック菓子を口の中に放り込み、至って平然と言い放った。

「お家に帰ってきて、いなくなった友達の名前を呼んで、返事なくて、台所の棚の奥にある空っぽのマグカップをじっと見つめたまま、手を伸ばしかけて、やっぱりやめてパタンって戸棚を閉める……その一連の動きを見ただけで、この男の子の胸がどれくらいズタズタに寂しくなってるかなんて、誰が見たって一発で分かるじゃん。それ以上の説明なんて、お腹いっぱいで入らないよ」

 ドン、と。

 そのあまりにも無垢で、しかし完璧な読者としての解答が、四畳半の部屋の空気を確かな衝撃を伴って踏み荒らした。茜の脳内に残っていた最後の躊躇いの網が、その一言によって完全に引きちぎられる。

 茜はしばらくの間、呆然としおりちゃんの顔を見つめていたが、次の瞬間、隣にいた結衣ちゃんが堪えきれずに、クスクスと美しい笑い声を弾かせた。結衣ちゃんは手の甲で口元を覆いながら、楽しそうに首を振る。

「しおりちゃん……本当に、あんたのそのシンプルな脳組織のロジックには、誰も敵わないわね。完全に一本取られたわ」

「ええー? 何が可笑しいんですか、結衣さん! 私はただ、原稿を見て、自分の目に映った通りの景色を言っただけですよ!」

 しおりちゃんが不満そうに肩を怒らせるのを見つめながら、茜の口元にも、今度は本物の、混じり気のない温かい笑みが浮かんでいた。

「ええ、あなたの言う通りよ、しおりちゃん。それだけで、もう十分に伝わっているのね」

 茜の指先が、キーボードの上で迷いなく動き、上書き保存のコマンドを叩いた。削ぎ落とされた新しい原稿データが、静かに保存される。

 トントン、トン。

 不意に、外の薄暗い廊下から、規則正しい確かなノックの音が響き、三人の集中を強引に切断した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。