第16章 編集者からの返信
カーテンの隙間から差し込む朝の陽光は、四畳半の部屋に残っていた夜の冷気を静かに撥ね退けるには十分な強さを持っていた。窓の向こうの大通りからは、行き交う車の走行音が途切れなく聞こえ始め、電線に身を寄せた鳥たちの羽ばたきや微かな鳴き声と混ざり合っている。
折りたたみ机の上の黒いノートパソコンは、主よりも早く目覚めたかのように、白い画面を静かに発光させていた。
茜はそのモニターの前で、温かい湯気を立てるマグカップを両手で包み込んだまま、じっと座り込んでいた。紅茶の香りがゆっくりと部屋を満たしていくが、彼女の意識はそこにはなかった。視線は、画面の隅で明滅している小さなメールのアイコンに完全に釘付けになっていた。
一通の新着メール。差出人は――佐藤。
十五分近くもその画面をただ見つめ続けた後、茜はようやくマウスを動かし、静かにクリックした。
*
再改稿の原稿、確かに受け取りました。
最後のページまで、すべて目を通させてもらいましたよ。
編集部で話し合った最初の生原稿に比べれば、物語全体のテンポは随分と安定してきたように思います。それぞれのキャラクターの言葉にも、固有の響きが生まれ始めていますね。尋問を終えた後のシーナとミナミの会話はとても自然に流れていますし、シーナが現代の乗り物を自分の知識で解釈しようとする姿からは、合理的で頭の固い受付嬢という彼女の本質が、嘘のない形で伝わってきます。
構成の組み立てとしては、非常に良い進歩です。
けれど……。
ミナミがまたしても食費を使い果たし、困窮する場面で、私の目はどうしても止まってしまいました。
一人の読者として、あまりにも強い既視感を覚えるのです。
理由もなくお金がなくなり、
川へ魚を釣りに行き、
飢えを凌ぐために必死になる。
この一連の繰り返し自体は、物語の機能として決して間違いではありません。現実の世界を生きる人間もまた、毎日同じような無意識の習慣を繰り返す生き物ですから。
ですが、紙の本になる物語が、同じ場所でただ足踏みをしていてはいけない。お話は、常に前へと進み続けなければならないのです。
そのページをめくっているとき、私の頭の中に浮かんだのは「なぜミナミはまた釣りに行くのか」という技術的な疑問ではありませんでした。
そうではなく、「なぜ読者は、この同じ繰り返しの場面をもう一度読まなければならないのか」という、純粋な不満です。
もし君が、ミナミという男を、物語の最後まで一切の成長も変化もしない平坦な人間として描くつもりなら、編集者としてその選択を否定はしません。
ですが……。
この場面で本当に変わるべきなのは、ミナミではないのかもしれない。
彼のその不格好な生き方を、もう一人の同居人であるシーナが、これまでとは全く違う目で見つめ始めているのではないですか。
この点を、もう一度よく考えてみてください。
次の原稿を待っています。
佐藤
*
室内は再び、元の深い静寂へと沈んでいった。安物の掛け時計が刻むチクタクという規則正しい音だけが、その空白を埋めている。
茜は姿勢を変えることもなく、ただ画面の文字を凝視し続けていた。メールの文面には、声を荒らげるような激しい言葉はどこにもない。君の才能は絶望的だと突き放すような表現もなければ、本にするのを白紙に戻すという脅しもない。
けれど、その静かで鋭い言葉の刃だからこそ、佐藤さんからの指摘は、彼女の胸の奥へ何倍もの重みとなって深く突き刺さっていた。
「もう一人の人物が、ミナミを違う目で見つめ始めている」
その言葉が、頭の底のほうでいつまでも低く反芻され続けていた。茜は執筆用のファイルを開いた。黒いカーソルが、文字の途切れた真っ白なページの端で、急かすように明滅している。
指先を動かし、新しい一文を打ち込んでみる。……止まる。眉間に皺を寄せたまま、消去キーを叩いてそれを消し去った。別のアプローチで、もう一度書き直してみる。やはり途中で、指が完全に動かなくなった。
白く光る画面を見つめれば見つめるほど、茜は奇妙な事実に気づかされた。動かないのはキーボードの上の指先ではない。彼女の頭の中の歯車が、唐突に完全に噛み合わなくなってしまっているのだ。
「……」
茜は長い息を吐き出し、張り詰めていた肩の線を落とした。彼女はパソコンの天板を静かに引き下げ、電源を切らないまま、貝殻のように固く閉じた。
もしかしたら……今の自分には、思考の歯車をもう一度動かすための、全く違う景色の温度が必要なのかもしれない。
*
ガラス扉を押し開けると、ドアの枠の上に吊るされた真鍮のベルがチリンと短い高音を響かせ、お馴染みのぬくもりが彼女を迎えた。
「いらっしゃいませ!」
しおりちゃんの快活な声が、フロアの真ん中で弾けた。彼女は両手でトレイを持ち、淹れたてのホットコーヒーを中央のテーブルへと足早に運んでいるところだった。
しかし、新しく入ってきた客がカウンターの前に歩み寄り、ジャケットのフードを外した瞬間、しおりちゃんの両足は床板の上にぴたりと縫い付けられた。
「……あれ?」短い髪の少女が、不思議そうに瞬きをする。「茜さん?」
茜は少し気恥ずかしそうに、ささやかな笑みを返した。「おはよう、しおりちゃん」
「でも……」しおりちゃんは困惑の色の隠せない顔で、入り口のガラス扉を指さした。「今日、入ってくるドアが違くない?」
茜は眉をひそめた。「ドアが違うって?」
「だっていつもは、裏口の非常口から入ってくるじゃない」しおりちゃんは素直に言った。
茜は一瞬だけ呆然とし、それから同僚の言葉の正しさに気づかされた。この小さな木目調のカフェでアルバイトを始めてから数ヶ月の間、彼女が客と同じように正面のガラス扉を押し開けて店に入ったことなど、ただの一度もなかったのだ。
「今日はシフトが入ってないのよ、しおりちゃん」茜は静かに説明した。
「ああ、そっか」しおりちゃんは納得したように首を縦に振った。「それなら合点がいったわ」
彼女は自分の首の後ろを指先で引っ掻きながら、茜の私服の姿をしばらく観察していたが、すぐに新しい疑問を口にした。「でも、お休みなのに、どうしてわざわざお店にやってきたの?」
茜は口を閉じ、自分の本当の理由をどう日本語に直すべきか迷った。視線を少し泳がせ、朝の光が差し込む店内の、まだ半分ほどしか埋まっていない木製の客席を見渡してから、しおりちゃんの目を真っ直ぐに見つめた。
「……ちょっと、頭が詰まっちゃって」
「つまっちゃった? 何が?」
「小説を書く作業がね」
しおりちゃんはスローモーションのように、ゆっくりと瞬きをした。「……へえ」
茜の正直な告白は、しおりちゃんの頭脳の中に新しい理解を生み出す役には立たなかったようだった。それどころか、彼女の快活な顔には、さらに深い困惑の霧がはっきりと立ち込めていくのが見えた。
「つまり……」しおりちゃんは首を傾げた。「自分の狭い部屋の中に引きこもって文字を打つことができなくなったから、わざわざ自分が働いている職場にやってきたってこと?」
茜は小さく肯いた。「あの狭い四畳半の殻にずっと閉じこもっていると、頭の中の空気がどんどん薄くなって、何も考えられなくなっちゃう気がして」
しおりちゃんは数秒の間、その独特な作家の心理をどうにか咀嚼しようと沈黙していたが、やがて諦めたように肩をすくめた。「……ごめんなさい、私にはそういうクリエイティブな世界のことはさっぱり分からないけれど。でも、まあ、いらっしゃいませ」
そのとき、エスプレッソマシンのステンレス表面を熱心に拭き上げていた美咲さんが、静かに顔を上げた。
「そういう理由なら……」
店のオーナーは右手を伸ばし、通りに面した大きなガラス窓のすぐ脇にある空き卓を指し示した。
「……今日のところは、あちらの席に腰を下ろしなさい」
「今日に限っては、君をちゃんとした一人のお客様としておもてなししてあげるわ」美咲さんは、いつも通り平坦な、しかし温かみのある声で付け加えた。
茜の胸の奥に、ささやかな熱がじわりと染み渡っていった。「ありがとうございます、美咲さん」
彼女は指定された四番テーブルへと歩み、椅子を引いて腰を下ろした。間もなくして、結衣ちゃんが革のカバーで装飾されたメニュー冊子をトレイに載せて近づいてきて、きわめて恭しい、型通りの動作で茜の目の前へとそれを広げた。
「ご注文はお決まりでしょうか、お客様」結衣ちゃんは、上へとピクピク動きそうになる唇の端の笑いを必死に押し殺しながら、わざとらしいほど神妙な聲音で言った。
「ありがとう、結衣さん」茜もそのおかしな悪戯に付き合うようにして、両手でメニューを受け取ったが、そのページを開こうとはしなかった。
代わりに、彼女はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、木目のテーブルの上に静かに置いた。液晶画面には、まだ閉じられていない佐藤さんからのメールの文字列がそのまま光を放っている。茜は親指を動かし、その文章を上から下へとゆっくりスクロールさせた。
もう一度、その言葉の連なりを、一文字ずつ網膜に刻み込んでいく。しかし、今回の読書においては、彼女は「手厳しい批判を受けて傷ついたアマチュアの作家」という自尊心の殻を完全に脱ぎ捨てていた。彼女はただ、一人の純粋な読者の位置に立ち、この目の前の文章を通じて、ベテランの編集者が本当に伝えたがっている本質的な教えがどこにあるのかを、必死に探り当てようとしていた。
彼女の座る椅子の周りでは、カフェのいつもの朝の営みが、何の手加減もなく正確に回り続けていた。エスプレッソマシンが低い唸りを上げて濃厚な液体を抽出し、磁器のカップの縁と小さなスプーンが触れ合う硬質な音がリズミカルに響き、正面のガラス扉が開くたびに、新しい客がそれぞれの生活の匂いを纏って店内に滑り込んでくる。
けれど、茜のすべての聴覚と視線の焦点は、佐藤さんが残した最後の一文の周りを、終わりのない円環のように回り続けていた。
「彼のその生き方を、もう一人の同居人が、これまでとは全く違う目で見つめ始めているのではないですか」




