第17章 頭は大丈夫ですか?
ぐううううう……。
腹の底から搾り出されたような長い振動が、室内の大気を真っ二つに切り裂いた。先ほどまでアパートの部屋を包み込んでいた静寂は、その一音によって跡形もなく粉砕される。
シーナの身体が、その場に釘付けになったように凝固した。彼女の目がゆっくりと大きく見開かれ、脳からの命令を介さずとも、両の手のひらが自動的に自分の腹の上へと移動してそれを強く覆い隠した。真っ赤な血色がまたたく間に首元から這い上がり、顔面のすべてを熱く焼き尽くしていく。
ミナミは二、三回ほど瞬きをし、今しがた自分の鼓膜が捉えた音の響きをどうにか咀嚼しようとした。ふたりの人間の視線が、中空の一点で真っ直ぐに交錯する。
「……」
「……」
お互いの唇から、一文字の言葉も滑り落ちないまま数秒の時間が流れた。
ミナミはようやく自らの口元にささやかな薄い笑みを浮かべ、凍りついた空気を破った。彼は人差し指を小さく動かし、シーナの腹のあたりをそっと指し示した。「どうやら……君の胃袋のほうは、夜明けから続いている俺の退屈な世界の講義に、すっかり飽きてしまったみたいだね」
シーナは弾かれたように顔を九十度回転させ、何もない白い壁の端へと視線を逸らした。「それは……」少女は自らの下唇をきつく噛み締め、不意に崩壊したギルド上級受付嬢としてのなけなしの威厳をどうにかかき集めようともがいた。「……今の音は、完全に無視してください」
*
茜は、自分がノートパソコンの液晶画面を見つめたまま、いつの間にか唇の端を上へと引き上げて笑みの形を作っていたことに気づかなかった。
「どうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」
温かいカフェオレの注がれた磁器のカップが、木目の天板の上へと静かな動作で置かれた。
茜はモニターの白い光から顔を上げ、いったん原稿から意識を離した。「あ、ありがとうございます、結衣さん」
結衣ちゃんは短く肯くと、そのままの足取りでカウンターの裏側へと戻っていった。初夏の朝の店内は、お祭りの翌日ということもあって、まだ客の姿もまばらで静まり返っていた。薄暗い隅の席で熱心にキーボードを叩いている学生風の男が一人と、言葉も交わさずに静かにトーストを口に運んでいる老夫婦が二席向こうにいるだけで、正面のガラス扉を押し開けて入ってくる新しい客の気配はまだなかった。
しおりちゃんが入り口の様子を一瞥し、誰も並んでいないことを確認すると、茜の真向かいにある空いた木製の椅子を静かに引き寄せた。
「ねえ、茜ちゃん。ここにちょっとだけ座ってもいい?」
「うん、どうぞ」
しおりちゃんはすぐに腰を下ろすと、両の手のひらで自分の顎を支えて首を傾げた。その瞳が茜の顔を真っ直ぐに見つめる。「また、自分の書いた原稿を読み直していたの?」
「ええ、そうね」
「今日はお休みなのに、わざわざお店にやってきて続きを書き進めるのが目的じゃなかったっけ?」
「そのつもりで家を出たんだけどね」茜は言葉を一度区切り、手元のカップを引き寄せて、キャラメルのような甘い香りのする温かい液体をひと口だけ啜った。「でも、指先を新しいページへ動かす前に、どうしても前の章のいくつかの会話の場面を、もう一度だけ確かめておきたくなっちゃって」
「どうしてわざわざ読み直す必要があるの?」
「言葉の響きが、ちゃんと地についているか確認したくてね」
しおりちゃんは納得したように首を縦に振った。彼女の頭脳が、文章の響きという創作のロジックを本当の意味で理解しているわけではなかったが、これ以上余計な質問を重ねて、同僚の集中を削ぐような真似はしたくないようだった。
茜は再び、目の前で白く発光する画面へと視線を引き戻した。左手の親指が静かに動き、原稿の段落をゆっくりと下方へスクロールさせていく。
*
『鉄の装甲に覆われたその巨大な肉体は、彼らの目の前の路面を、凄まじい速度で滑るようにして走り去っていった。その前方に、それを引っ張る家畜の姿はない。
首を締め付けるような一本の手綱もなく、御者台の上で手綱を握る人間の姿も見当たらなかった。それどころか、その進行方向を導くための、いかなる獣の気配すらそこには存在しない。ただ、巨大な黒いゴムの輪だけが、舗装された地面の上を一定の周期で回転し続けているだけだった。
ゴオオオオッ――。
その巨大な金属の影は、二人が直立しているすぐ目の前を疾走していった。その進行に伴う風がシーナの衣服の裾を乱暴に叩き、布地を宙へと激しく舞い上がらせる。
シーナは本能的な警戒から、即座に一歩、後ろへと身を引いた。自意識の命令を介さずとも、彼女の右手の指先は、隣にいたミナミのシャツの袖をきつく掴み取っていた。
「ミ、ミナミ……!」彼女の声は、張り詰めた緊張のせいで微かに震えていた。
ミナミは、いつもの気の抜けた顔で視線を向けた。「ん? 今度は何だよ」
シーナは男の袖を強く握りしめたまま、人差し指を伸ばして、すでに遥か彼方へと走り去りつつある巨大な影の方向を真っ直ぐに指し示した。「あの、物体は……!」
彼女の美しい両目は未だに大きく見開かれ、目の前の不条理な光景を網膜に焼き付けていた。「一体何という鉄の怪物なのですか? どうしてあのような生命を持たない物質が、外からのきっかけもないまま自律して走り続けることができるのですか? 馬も、家畜もいないというのに、あの速度は明らかに異常です」
彼女の声音はまたたく間に険しさを増し、戦いの中で培われた警戒の色のすべてがその表情に浮き彫りになった。「もしかして、この周囲には強力な魔物が潜んでいるのですか? あの金属の塊は、高度な技術で制御された新種の鉄ゴーレムなのですか?」
ミナミは彼女の指先を追い、すでにシルエットだけになって遠ざかっていく車両を見つめた。「ああ。あれのこと?」男の返答はあまりにも平坦で、まるで目の前の大層な異変など、ただの退屈な日常の一部でしかないと言いたげだった。「あれはトラックっていうんだよ」
「……とらっく?」シーナは、その未知の響きに眉をひそめた。
「そう。この世界では、ありふれた乗り物の一つだよ」』
*
茜の唇の隙間から、堪え切れなくなった短い笑い声が不意に漏れ出た。
彼女は慌てて右の手のひらを動かし、自らの口元を覆ってその音を圧殺しようとした。しかし、肉体の条件反射はあまりにも早く、彼女の両肩は胸の奥から湧き上がってくるおかしみのせいで、すでに激しく振動し始めていた。
「ふふ、あはは……」
彼女は小さく首を横に振りながら、ノートパソコンの液晶画面に並んだ、その場違いなカタカナの文字列を見つめ続けた。「……トラック」
書き手としての自尊心は完全に瓦解し、彼女の笑い声は静まり返ったフロアの隅々へと静かに広がっていった。
「トラックくんの野郎……」
茜は笑いの波に身を委ねながら、低い声でぶつぶつと呟いた。
「鉄のゴーレムだなんて大層な比喩を使って、自分の原稿の中からあの退屈な記号を完全に追い落としたつもりでいたのに。結局、会話の台詞のなかに、あいつは当たり前のような顔をして滑り込んできていたのね」
彼女は椅子の背もたれにより深く体重を預け、身体の力を心地よく弛緩させた。手のひらが自らの額の上に載せられる。少し火照った皮膚の温度が、手のひらを通じて伝わってきた。「本当に、おかしいわ……」
正面に座っていたしおりちゃんは、茜の顔の輪郭がまたたく間に変化していく様子を、言葉を失った呆然とした眼差しで見つめ続けていた。彼女の眉間の皺は、先ほどよりもさらに深くなっている。
「……茜ちゃん」
「ん? 何かしら、しおりちゃん」茜は額から手を下ろし、視線を向けた。
しおりちゃんは数秒の間、言葉を喉の奥で止めていた。その瞳には、目の前の同僚に対する、心からの真剣な心配の色が宿っていた。これから自分の口から放たれる日本語が、果たして同じ職場で働く仲間に対して失礼に当たらないかどうか、彼女なりに天秤にかけて測っているようだった。
「……あの、頭、大丈夫?」
しおりちゃんの発したその問いには、冗談の響きなど一滴も含まれてはいなかった。あまりにも素朴で、あまりにも真っ直ぐな、ただの現実的な疑問。
茜は自分の座席の上で、一瞬だけ完全にフリーズした。二人の人間の間に、寸分の狂いもない無音の時間が流れる。
「……」
「……あははは!」
茜の笑い声は、今度こそ完全に限界を越えて、室内の大気を激しく震わせた。怒るどころか、彼女の胸の奥にあった澱のような重苦しさは、その一言によって完全に吹き飛ばされてしまったのだ。
「あはははは!」
フロアの中央で静かに珈琲を愉しんでいたいくつかの横顔が、示し合わせたかのように同時にこちらを振り返り、窓際の四番テーブルへと怪訝そうな視線を投げかけた。茜は自分が唐突に他人の注目の座標になってしまったことに気づき、慌てて頭を低く下げて、液晶画面の影へと自分の顔を隠し込んだ。
「すみません……大きな声を立ててしまって、本当にごめんなさい」茜はパソコンの裏側で上体を折り曲げながら、消え入りそうな声で周囲に謝罪した。しかし、彼女の脳内の引き出しが、先ほどさっきのしおりちゃんの言葉を頭の中でもう一度思い返した瞬間、彼女の両肩は再び、堪え切れないおかしみのせいで激しく小刻みに揺れ動き始めた。
「痛い……お腹が痛いわ……」彼女は片手で自分の腹のあたりを抑えた。「でも、確かにその通りね」
しおりちゃんは、困惑の霧をさらに深くその顔に立ち込めていった。「何がその通りなの?」
茜は人差し指の先を動かし、目元に浮き出ていた小さな涙の滴をそっと拭った。笑いすぎたせいで、視界がわずかに潤んでいた。「自分の今の行動を、客観的に見つめ直してみたのよ、しおりちゃん。私、ここに座って、一人でずっと笑っていたでしょう」
「うん、ものすごい正確さで笑ってたわね」
「……その上、画面に向かってぶつぶつ独り言を喋ってた」
「ええ。私の耳にも、はっきりとその怪しい声が届いていたわ」
「それで最終的に、周囲の人たちに変な目で見られて、心配されてる」
しおりちゃんは、自分の良心に一点の曇りもないという風に、力強く首を縦に振った。「だからね、そのおかしな症状が順番に全部現れるのを見ていたから、私は一人の人間として、真っ直ぐに質問したのよ。茜ちゃんのその頭の中は、今まともな状態ですかって」
「あはははは!」
ここ数分の間に、茜の笑い声が、再びカフェの落ち着いた木目調の空間全体へと心地よく響き渡った。その喧騒は、ついにカウンターの奥で作業を続けていた美咲さんと結衣ちゃんの手元をも停止させ、二人の顔をこちらへと向けさせることに成功した。
美咲さんは、自らの唇の端を、本当に僅かだけ緩めて静かな笑みの形を作った。その瞳には、温かい熱が宿っていた。「茜ちゃんがここに入ってから、あんな風に声を立てて、心から笑っている姿を見るのは、本当に初めてかもしれないね」
結衣ちゃんもまた、四番テーブルの方を横目で一瞥してから、洗い終えたばかりのカップを棚へと整列させる作業に戻った。「いい笑い声の響きね。あれなら、今日という休日を、彼女の魂が一番正しい形で消費できているっていう確かな証拠よ」
窓際の小さな席では、しおりちゃんが未だに納得のいかない、困惑に満ちた平坦な顔のまま、茜が目元の涙を拭う様子をじっと見つめ続けていた。
「……うわあ。小説を組み立てる作家さんたちの頭の中っていうのは、私には一生かかっても理解できそうにないわ」しおりちゃんは諦めたように、自らの両肩をすくめてみせた。




