第15章 常連客
入り口のドアの枠に吊るされた小さな真鍮のベルが、再びチリンと短い高音を響かせた。今朝、正面のガラス扉を開いてから、この金属の音を耳にするのは一体何回目になるだろうか。
茜は反射的に顔を向け、ここ数ヶ月の間にすっかり自分の表情筋に馴染んだ、いつもの丁寧な微笑を浮かべた。
「いらっしゃいませ」
その条件反射のような挨拶は、仕立てのいい一足の靴の音とともに店内に滑り込んできた、一人の男性客を迎え入れた。紺色の長袖のシャツを着た中年の男だった。年齢は、美咲さんとそれほど離れてはいないように見える。短く切りそろえられた黒髪は、外の通りを吹き抜ける夏の風に煽られたせいで、頭頂部のあたりがわずかに不格好に乱れていた。
男はカウンターの上に掲げられた大きなメニューボードに視線を走らせることもなければ、フロアの中央に並ぶ空き椅子の状況を確認しようともしなかった。まるで、自分の両足のなかに正確な目的地が最初から決まっているかのように、迷いのない足取りでカウンターの端にある背の高いスツール席へと向かい、腰を下ろした。
茜はレジスターの脇に直立したまま、その男のくたびれた横顔を数秒間だけじっと見つめ続けた。胸の奥に、何か引っかかるものがあった。どこかで見覚えのある輪郭だった。……確かに、以前どこかの同じような光景の中で、この顔と出会った記憶がある。しかし、彼女の脳内の引き出しはまだ薄暗く淀んでおり、それがいつの日付のことだったのかを正確に特定することはできなかった。
しおりちゃんが誰よりも素早く動き、弾かれたような足取りでカウンターの前へと滑り込んでいった。「いらっしゃいませ! ご注文はお決まりですか?」
男は少し上体を傾け、静かで落ち着いた声で短く告げた。
「コーヒー牛乳を、一つ」
「……」
しおりちゃんの身体が、その場に凍りついたようにぴたりと静止した。彼女のまつ毛が、スローモーションのようにゆっくりと一回だけ瞬きをする。
「ええと……コーヒー、牛乳ですか?」
「あ、ああ。そうだが」
「つまり……コーヒーに、牛乳を混ぜたもののことでしょうか?」しおりちゃんは、自分の耳の機能がおかしなエラーを起こしていないか確認するように、一文字ずつ噛み締めるようにして問い直した。
シャツを着た男は、その平坦な顔のまま肯いてみせた。「そうだよ」
しおりちゃんは劇的な動作で回れ右をし、カウンターの背後の壁に掛けられた、あの白い文字列の整然と並ぶメニューボードを凝視した。
・アメリカーノ
・エスプレッソ
・カプチーノ
・カフェラテ
・フラットホワイト
・カフェモカ
その磨き上げられた木の板の上のどこを探しても、彼女たちの母国語で『コーヒー牛乳』などという素朴な単語は一行も記されてはいなかった。しおりちゃんは再び男の方へと身体を反転させた。彼女の両眉が、中央で深く狭まっていく。
「あの、すみません、お客様……そのコーヒー牛乳というのは、具体的にはこちらのメニューのどれのことになるんでしょうか?」
男は動きを止め、眉間にわずかな皺を刻んだ。まるで、小学校の算数の足し算のような、あまりにも当たり前の質問を突きつけられたかのように困惑している様子だった。「ん? いや、だから、コーヒーに牛乳を混ぜた飲み物のことだよ」
しおりちゃんはもう一度後ろのボードを見上げ、それからまた男の顔へと視線を戻した。彼女の眉間の皺はさらに深くなっていく。「でも……うちのメニューにあるのは、カフェラテなんですけど、お客様……」
カウンターの奥で、棚に磁器のカップを並べていた茜は、その噛み合わない押し問答を耳にして、自分の両手の動きを静かに停止させた。フロアの端で繰り広げられるそのおかしな対話は、遮るもののない店内の大気を伝って、彼女の耳へと驚くほど鮮明に届いていたのだ。彼女は手の中の最後のカップを音を立てないよう慎重に棚へと収めると、バーエリアを割るようにして、ゆっくりと二人の間へと歩み寄った。
「もし宜しければ……」茜は、低く安定した聲音で言葉を挟んだ。
しおりちゃんが弾かれたように顔を向けた。その瞳は、まるで戦場のただ中で強固な援軍を見つけたかのように安堵の光を宿していた。紺色のシャツを着た男もまた、視線の角度を変え、新しく現れた茜の目を真っ直ぐに見据えた。
茜は右手を伸ばし、壁のメニューボードの一行を指し示した。
「コーヒー牛乳という言葉は、実は私たちの間でも、少し広い意味を持った表現なんです。そこに書かれている『カフェラテ』というのは、高い圧力をかけて濃縮したエスプレッソに、一定の温度まで温めたスチームミルクを注ぎ込んだものです」
茜の指先が一つの目盛りを滑るように下へと移動し、別の文字列を指した。
「他方で、こちらの『カフェオレ』というのは、普段私たちが家庭で飲むような、普通のドリップコーヒーをベースにして、そこに同じように温めた牛乳をそのまま混ぜ合わせたもののことです」
彼女はそこで一呼吸置き、自分の頭の中で文章の構造を最も簡素な形へと削ぎ落とした。教科書の退屈な講義のような、大袈裟な解説に聞こえないようにするために。
「お湯の通し方も違いますし、ベースとなる豆の性質も全く別物です。けれど……」茜は客の目を真っ直ぐに見つめ、静かに肯いてみせた。「……使われている材料の構成という点だけで見れば、どちらも本質的には、コーヒーに牛乳を混ぜ合わせた『コーヒー牛乳』であることに違いはありません」
カウンターの周辺に、妙に静かな時間が降り積もっていった。
しおりちゃんは口を微かに開けたまま、茜の横顔を見つめ、それからメニューボードを見上げ、最終的にその中年の男の顔へと視線を往復させた。彼女の頭脳は、これまでの自らの知識の枠組み(ロジック)を越えて、新しい事実に辿り着こうと必死にもがいているようだった。
エスプレッソマシンの微かな風切り音の他に、フロアには何の音も響かなかった。
「……え?」しおりちゃんは、ようやく短い声を漏らした。彼女の人差し指が、メニューボードを不格好に指し示している。「それって……それって本当、茜さん?!」
茜は小さく、しかし確実な動作で首を縦に振った。「うん。エスプレッソもコーヒーだし、ドリップした液体もコーヒー。キッチンで使っている牛乳のパックも、すべて同じ冷蔵庫から出しているものだから。理屈の上では、その二つのカタカナの名前は、どちらもコーヒー牛乳で合ってるよ」
しおりちゃんはまだ、その場に一本の杭のように直立したまま動けずにいた。彼女のいつもの快活な笑顔は鳴りを潜め、自分の生きてきた日常の裏側に隠されていた、あまりにも素朴な世界の真理を突きつけられたかのように、呆然とした表情を浮かべていた。
「ええ……」しおりちゃんは、蚊の鳴くような声音で呟いた。「ええ?! だったら、中身が同じものなのに、どうして大人の人たちは、わざわざそんな難しくて格好いい名前をたくさん作ったりするんですか?!」
カウンターの裏側にいる誰も、そのしおりちゃんの純粋な疑問に対して、すぐに言葉を返そうとはしなかった。ぶ厚いエスプレッソマシンの奥で、美咲さんはダスターを動かす手を一瞬だけ止め、フロアの隅に直立している結衣ちゃんの方へと、静かな視線を投げかけた。
*
結衣ちゃんは、オーナーのその視線に対して、全く同じ平坦な顔のまま静かに目を合わせた。二人の少女は、示し合わせたかのように同時に肺の底から重い溜息を吐き出すと、これ以上ないほど緩慢な動作で、揃って小さく首を横に振った。しおりちゃんの頭脳の構造に対する、諦念の交わし合いだった。
しおりちゃんは未だに頭を上へと向けたまま、納得のいかない様子でカタカナの羅列を睨み続けていた。
「……『コーヒー牛乳』って一枚の紙に書いて貼っておけば、それだけで全部解決する話じゃないですか……」
ぽつりと漏らした愚痴が、静まり返ったカウンターの空気に溶けていく。
結衣ちゃんがようやく口を開き、その迷走し始めた同僚の意識を、地面の上へと引き戻した。「もしその通りにしたらね、しおりちゃん。明日からの日本のすべてのカフェが、自分たちの看板を全部叩き壊してメニューを書き直さなきゃいけなくなるわよ」
しおりちゃんは動きを止め、その巨大な変化の映像を頭の中で想像してみたようだった。「……あ」
数秒の後、彼女の両目が再び大きく開いた。「あ、確かにそうかも!」
茜自身は、自分の今の説明が、他人の耳にそれほど奇妙な響きを持って届いているとは全く自覚していなかった。ただ、毎夜アパートの机の上で、自分の書いた文章の言葉を削ぎ落とし、その本質を探るという作業を繰り返しているうちに、物事の定義を最もシンプルで、嘘のない形へと還元する癖がついていただけだった。客と店員の間で、無駄なすれ違い(エラー)が起きないように。
カウンターの前に座る中年の男は、そんな彼女たちの不格好なやり取りを、特に不快に思っている様子もなかった。彼の口元が微かに綻び、楽しげな薄い笑みの形を作っていた。
「もし君の言う通りなのだとしたら……」男は茜の顔を真っ直ぐに見据えた。「……私には、その『カフェオレ』というやつを一つ、淹れてもらえるかい?」
「はい、かしこまりました。少々お待ちください」茜は手元の伝票に、迷いのない手つきでその注文の記号を書き留めた。
その隣で、しおりちゃんはまるで古代の呪文でも唱えるかのように、低い声でぶつぶつと呟きながら、後ろ足でバックヤードへと下がり始めていた。
「ラテはコーヒー牛乳……オレもコーヒー牛乳……ということは……」彼女の足が、唐突に停止した。身体を九十度回転させ、エスプレッソマシンの前で作業を続けている美咲さんの背中を凝視する。「店長!」
美咲さんは、手元のステンレスの天板を磨く手を止めることもなく、短い声を返した。「何かしら」
「明日からうちのメニュー、全部消しちゃって、『コーヒー牛乳・甲』と『コーヒー牛乳・乙』に変えちゃうのはどうですか?」
しおりちゃんの声は、冗談の気配など一滴も含まれていない、恐ろしいほどの真剣さを孕んでいた。
美咲さんの唇の端が、ほんの少しだけピクリと上へと動いた。このカフェのオーナーとしては、きわめて稀な感情の露出だった。
「そんな余計な真似はしないでね、しおり」
「ええ? どうしてですか、店長? その方がずっと正直だし、分かりやすいじゃないですか!」
「もしそんな風に書き換えてしまったらね」美咲さんはいつも通り平坦な声音のまま、空になった磁器のカップをトレイへと載せて言った。「……明日お店にやってくるうちの常連さんたちが、全員レジの前でフリーズして、大きなパニックを起こしてしまうわよ」
しおりちゃんは言葉を失い、それから落とした肩の線をさらに不格好に下落させながら、力なく肯いた。「……まあ、確かにそうですね」
ガラスの収納棚に清潔な皿を整列させていた結衣ちゃんが、もう一度だけ長い溜息を吐き出し、強張っていた背中の筋肉を大きく伸ばした。「よかったわね。どうやら、しおりちゃんの脳の機能が、ようやく元の日常(通常運転)に戻ってくれたみたいで」
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この作品を書き始めてから、何度も「本当にこの物語でいいのだろうか」と迷うことがありました。
それでも、書き終えた物語は、誰かに読んでもらわなければ始まりません。
もしこの先も茜たちの物語を読んでみたいと思っていただけたなら、評価、ブックマーク、そして誰かへのシェアという形で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからいただいた反応のひとつひとつが、この物語を書き続けるための力になります。
これからも、自分が最後まで読みたいと思える物語を、丁寧に書いていきます。
それでは、次の章でお会いしましょう。




