第14章 小さな祭り
茜が磁器のカップを乾いた布で拭き上げる手元に、ガラス窓を透かした初夏の陽光がじわりと熱を帯びて届いていた。
時計の針はまだ午前十一時を回っていなかったが、窓の向こうの商店街は、いつもの穏やかなリズムをすでに完全に失っている。歩道の街灯に沿って取り付けられた赤と白の布のぼりが、低い風に煽られて小さくはためき、擦れ合う音を立てていた。通りのいたるところで、店の店主たちが軒先の植木鉢を道路の境界線へと片付け始めており、代わりに『夏祭り』と几帳面に手書きされた木製の看板を、密集し始めた歩行者の列に向けて真っ直ぐに立てかけていた。
茜は手元の作業を機械的に繰り返しながら、何度も外の舗装路の上へと吸い寄せられる視線をどうにか戻した。
「随分と、賑やかね……」
ぽつりと漏らした呟きは、入り口のガラス扉が勢いよく開いた衝撃の音にかき消されて、すぐにフロアの空気に溶けた。
「いらっしゃいませ」
その挨拶は、彼女の肉体に染み付いた条件反射のままに、滑らかに喉の奥から滑り落ちた。
入ってきたのは、スーパーマーケットのポリ袋を下げた一人の母親と、その手を引かれた幼い男の子だった。少年は、小さな金魚の模様が染め抜かれた紺色の綿の甚平を纏っている。男の子の右手には一本の紙うちわが握られており、それはまるで、自らの意思とは無関係に動き続けるぜんまいの機械のように、中空を忙しなく行ったり来たりと揺れ動いていた。
「お母さん、これ食べ終わったら、すぐに次のお祭りの屋台に行くんだよね?」
「ええ、お昼ご飯をちゃんと全部食べ終えてからね」
二人の間で交わされた短い会話は、テーブルの間をすり抜けるようにして通り過ぎていった。茜は彼らを大きな窓際に残されていた、最後の一箇所の空きテーブルへと静かに案内した。
大通りの真向かいでは、太陽がいつの間にか高い位置まで昇っていた。
大通りを走り去る車の鈍い轟音の隙間に、商店街の広場の方から風に乗って運ばれてきた、お囃子の規則正しい和太鼓のリズムが混ざり合い始めていた。その旋律はひどくかすかで、途切れ途切れではあったが、カフェのガラス扉が大きく開いて、外のねっとりとした熱い大気が客の足取りと一緒に店内に忍び込んでくるたびに、バーエリアの静寂を穏やかに満たしていった。
「今日の混雑の波は、いつもより随分と前倒しでやってきそうね」美咲さんは、コーヒー棚の上の帳簿に視線を落としたまま、淡々と告げた。
「年に一度の、この街のお祭りの影響ですね」茜は応じ、最後の一つのカップをサワラ材の棚へと整列させた。
その一文が完全に終わるか終わらないかの、まさにその瞬間だった。背後のキッチンエリアから、別の若い声が、二人の会話を鋭く切断した。
「美咲さん! もし今日に限って、うちの店の前に臨時の屋台を出してかき氷を売り出したら、私、三時間以内にすべての原価を回収してみせる自信があります!」
しおりちゃんが、胸元に空のトレイをきつく抱き抱えたまま、遮光カーテンの隙間から弾かれたように姿を現した。彼女はガラス窓の向こうを行き交う人々を真っ直ぐに見つめていた。その頭脳は、歩道の上を通り過ぎていく他人の頭数を、そのまま売上の数字へと自動的に換算しているかのようだった。
「あるいは、入り口のすぐ脇でたこ焼きを焼くとか」
「それか、インスタントの焼きそばのメニューに切り替えるとか」
「……いっそのこと、その三つを同時に全部売り出してしまうのはどうでしょう?」
美咲さんは、レジスターの脇に積み上げられた古いレシートの山から、ただの一度もその頭を上げようとはしなかった。「ここはカフェよ、しおり」
「あ、まあ、それはそうなんですけど……」しおりちゃんは、首の後ろを指先で落ち着きなく引っ掻き、その肩の線を落とした。しかしその数秒後、彼女は自らの口元で、さらに小さな声音でぶつぶつと呟き続けた。「……でも、やっぱり、このチャンスをただ指をくわえて見ているだけなんて、勿体ないじゃないですか」
茜は、上へとピクピクと動きそうになる唇の端の動きを、必死に抑え込んでいた。笑うのを堪えるだけで、全身の筋肉がこわばるようだった。
チリン、と。
ドアの真鍮ベルが、彼女の思考の糸を撥ね退けるようにしてけたたましく鳴り響いた。次の瞬間には二度目の高音が重なり、堰を切ったように三度目の残響が店内に木霊した。
壁の掛け時計の針が、正午の目盛りに正確に重なるよりも随分と前の時間だったというのに、店内のすべての木製の椅子は一つ残らず主の重みによって占拠され、そこには、一席分の空きも残されてはいなかった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この作品を書き始めてから、何度も「本当にこの物語でいいのだろうか」と迷うことがありました。
それでも、書き終えた物語は、誰かに読んでもらわなければ始まりません。
もしこの先も茜たちの物語を読んでみたいと思っていただけたなら、
評価、ブックマーク、そして誰かへのシェアという形で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからいただいた反応のひとつひとつが、
この物語を書き続けるための力になります。
これからも、自分が最後まで読みたいと思える物語を、丁寧に書いていきます。
それでは、次の章でお会いしましょう。




