第12章 腹の虫と馬のいない世界
折りたたみ机の上に置かれた卓上ランプの、ぬくもりのある淡い光だけが、茜の部屋の暗闇を静かに撥ね退けていた。夜の深い静寂がゆっくりと満ちていき、狭い四畳半を包み込んでいく。茜は少し上体を前へと傾け、昨夜の眠気の中で辛うじて書き進めた原稿の最後の段落に、もう一度静かに目を通した。
『彼女はゆっくりと、両の手のひらをきつく握りしめた。
部屋を支配する沈黙は、冷たく張り詰めていた。
自分が今、かつて生きてきた世界のいかなる痕跡も残されていない、完全に隔絶された見知らぬ土地に立たされているのだという事実を、彼女はついに受け入れざるを得なかった』
液晶画面の端で、小さな黒いカーソルがその文章のすぐ下で規則正しく明滅を繰り返している。茜がフォルダを開いてから、すでに五分近くの時間が流れていた。しかし、汚れのない白い画面の上には、未だに新しい一文字も付け足されてはいない。
茜は左手で顎を支え、画面の空白をじっと見つめた。
「……さて、ここからどう動かそう」
ぽつりと、誰に届けるでもなく呟く。
もしここで物語の歩みを止めてしまえば、シーナというキャラクターは、ただ失われた世界を嘆いて立ち尽くすだけの存在になってしまう。それではいけない。書き手として、物語をここから先へと動かさなければならなかった。彼女は深く息を吸い込んで背筋を伸ばし、キーボードの定位置へと指先を戻した。
*
第十一章 腹の虫と馬のいない世界
狭いアパートの室内は、再び静かな平穏に包まれていた。ミナミが語ったこの世界の現実についての説明はすべて終わりを迎えたが、その見慣れない言葉の響きは、未だにシーナの頭の中で低く反芻され続けていた。
魔法の技術などどこにも存在しない世界。
怪物の襲撃に怯える必要のない世界。
冒険者ギルドという名前すら誰も知らない世界。
*
茜は不意にタイピングの手を止めた。画面に現れた三行の説明を、困惑に眉をひそめながら読み返す。
「ううん、違うね」
彼女は小さく首を横に振ると、躊躇うことなく消去キーを何度も叩いた。トントントン、と硬質な音が響き、三行の文字列はあっという間に画面から消え去った。
「これじゃ、ただの説明だわ」茜は声に出して自分を戒めた。現代の世界の事実をただ段落に詰め込んで並べただけでは、それは語り手によるただの講義になってしまう。作者の都合のいい声が、読者に向かって喋っているだけだ。それは、シーナ自身の本当の声ではない。
彼女は指先を再びホームポジションへと戻し、今度は全く違うアプローチで、静かに文字を打ち込み始めた。
*
アパートの室内は、再び静かな平穏に包まれていた。シーナは頑ななまでにうつむいたまま、折りたたみテーブルの上に置かれた陶器の小皿をじっと見つめ続けていた。
先ほどミナミの口から放たれた言葉の連なりは、彼女の頭ではまだ完全には消化しきれてはいなかった。けれど、目の前にあるこの乱雑な現実が、かつて自分がギルドの案内窓口で学んできたどの知識とも合致しないことだけは、認めざるを得なかった。
ぐううううう……。
*
その不格好な音を画面に書き加えた瞬間、茜の口元に小さなおかしみが込み上げてきた。「うん、ここだよね」と、心の中で小さく笑う。
頭の中のプライドや警戒心がどれほど頑なであろうとも、肉体というものはいつだって、自意識の命令を追い越して正直な音を立ててしまうものだ。茜は頭の中の難しい理屈を一度放り出し、二人の間に漂う空気を、指先が動くままに自然に描写していった。ギルドの上級受付嬢としての威厳をどうにか保とうと、必死で平坦な顔を作るシーナ。そしてその真向かいで、吹き出しそうになるのを必死で堪え、わざとらしく視線を明後日の方へと逸らすミナミ。
そんな少しおかしな場面のやり取りは、ものの十分もしないうちに、驚くほど滑らかに形を成していった。茜は画面をさらに下へとスクロールさせる。黒いカーソルは、次の展開を待つように静かに明滅を続けていた。
「次は……二人がアパートのドアを開けて、初めて外の世界へ出る場面だね」茜は椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げた。「そのとき、彼女の目に最初に飛び込んでくるものは何だろう。走り去る車の群れ? 天を突くような高いビル? それとも、見知らぬ他人の雑踏?」
茜はすぐに首を横に振って、その想像を打ち消した。「いや、それは違う。そんな現代の景色は、カフェの店員として毎日を生きている私が見ているものであって、シーナの目が捉えるべき細部じゃないわ」
彼女はスマートフォンのメモを開き、シーナが持っているはずのファンタジー世界の知識を、上から順番に並べてみた。
・ギルド
・魔物
・迷宮
・魔道具
・ゴーレム
・馬車
・馬
じっとその文字の羅列を見つめているうちに、ひとつの言葉が脳裏に浮かび上がってきた。――『馬のいない馬車』。
茜はそれを頭の中でそっと呟いてみたが、すぐにまた消去キーに指を伸ばした。「ううん、まだ浅い。これじゃ、ただ車の見た目を言葉でなぞっただけだわ」
彼女はもう一度、頭の中の引き出しをひっくり返した。――『古代の魔道具』。
茜は動きを止め、その言葉の響きを確かめるように沈黙した。「いや……それも違うね」と、呟いて消す。フィクションの中の魔道具というのは、外からのきっかけがない限り、それ自体が自律して機械的に動き続けるような性質のものではないからだ。
ノートパソコンの脇に置かれていた黒いペンを、彼女は無意識のうちに右手で拾い上げ、指の間でくるくると回転させ始めた。自覚のなかった、自分の小さな癖。
「ゴーレム……」茜の唇から、低い声が漏れた。その呟きは、夜の冷たい大気の中に静かに溶けていく。「石のゴーレム……土のゴーレム……それから、鉄のゴーレム」
彼女は「鉄のゴーレム」というその言葉の響きを、もう一度、頭の中で反芻した。三度、その意味の重さを静かに確かめる。
茜の口元が、今度は満足そうな笑みの形へと綻んでいった。「うん、これだわ。もし彼女が、あの合理的で頭の固いシーナなのだとしたら、初めて見る現代の乗り物を、自分の知っている知識の枠組みの中にどうにか分類しようとするはずだもの」
昨日、編集部で佐藤さんが残した言葉が、驚くほど鮮明に蘇ってきた。――『作者の都合のいい解説に言葉を喋らせてはならない。常にキャラクターの目と、その生の感情だけを信じて言葉を紡ぎなさい』
茜は深く息を吸い込み、胸の奥の焦点を定めて、再びキーボードへと指を走らせた。
*
木製のドアを内側から押し開けた瞬間、朝の冷涼な空気が一気に鼻腔をくすぐった。シーナはいつも通りの几帳面な歩調を保ちながら、ミナミの背中を追うようにして廊下を進んだ。しかし、ほんの数歩歩いたところで……彼女の足首は、何かに縫い付けられたように完全に凍りついた。
眼下に広がる大通りの路面は、見渡す限り黒く、均一に舗装されており、自然の石を切り出したような継ぎ目はどこにも見当たらなかった。シーナは静かに上体を下ろし、歩道の上に胡坐をかくようにして身を屈めた。そして、右の人差し指の先を、その黒い地面へとそっと触れさせてみた。
質感はきわめて硬く、冷たかった。そこには、王国の交易路であれば必ず見つかるはずの湿った泥の窪みも、重い木製馬車の車輪が刻み込んだ深い轍の痕跡も、一箇所として存在していなかった。
「おい、シーナ? どうしたんだよ」
前方で足を止めたミナミが、怪訝そうに振り返る。
シーナはハッとして動きを止め、気まずさを隠すようにして素早く立ち上がった。「……いえ。何でもありません」
二人が再び歩き出そうとした、その時だった。道の曲がり角の向こうから、巨大な金属の影がゆっくりと、しかし圧倒的な質量を伴って姿を現し、朝の光を遮った。シーナは反射的に顔を上げ、その両目を大きく見開いた。
厚い鉄の装甲に覆われたその巨大な肉体は、彼らの目の前の路面を、凄まじい速度で滑るようにして走り去っていった。その前方に、それを引っ張る家畜の姿はない。その底面に、重量を支えるための魔法陣の光も見当たらない。それどころか、動力源となるマナの微かな気配すら、そこからは一切感知できなかった。
ゴオオオオッ――。
風圧が、容赦なくシーナの顔を叩いた。彼女の長い黒髪の毛先が、空気の中で激しく舞い上がる。
シーナは本能的な警戒から、即座に一歩、後ろへと身を引いた。戦いの中で培われた指先が、無意識のうちに、隣にいたミナミの衣服の袖をきつく掴み取っていた。
「ミ、ミナミ……」彼女の声は、張り詰めた緊張のせいで微かに震えていた。
「ん? 今度は何だよ」ミナミは、いつもの気の抜けた顔で視線を向けた。
「あの、物体は……」シーナの指先が、走り去る影を真っ直ぐに指し示した。
ミナミはその先を目で追い、気怠げに肯いた。「ああ。あれはトラックっていうんだよ」
シーナは言葉を返さなかった。彼女の鋭い視線は、その鉄の塊が通りの向こうへと消え去るまで、じっとその軌道をロックし続けていた。ギルドの上級受付嬢としての彼女の頭脳が、今目撃した不条理な現象をどうにか理解しようと、必死に稼働し始める。
・全身が鉄でできている。
・自律して動いている。
・マナの気配はない。
・操縦している魔法使いも見当たらない。
彼女の美しい両眉が、中央で深く狭まった。
「……もしかして、あれは魔道具の一種なのですか?」
数秒の沈黙の後、彼女は自らの仮説を否定するように、小さく首を横に振った。「いいえ。魔道具は、それ自体が自律して走ることはできないわ」
視線はまだ、誰もいなくなった通りの先を見つめたままだ。
「……だとしたら……」シーナは自らの唇を微かに噛み締め、その答えを喉の奥から絞り出した。「……鉄のゴーレム?」
*
茜はキーボードを叩く手を止めた。画面の端で、小さな黒いカーソルが文章の結びで静かに明滅している。
彼女は椅子の背もたれに身体を預け、今しがた自分が産み落とした外の場面を、最初から最後まで、静かに読み返してみた。一文字ずつ、丁寧に。二度、それを繰り返す。そして三度目は、ただの一人の読者として、その文章の温度を確かめるようにして目を走らせた。
彼女の手が再びキーボードへと伸びた。消去キーを一度だけ叩き、少しだけ収まりの悪かったひとつの言葉を消し去ると、文庫本の紙面により自然に馴染む、別の静かな表現へとそれを置き換えた。もう一度読み直す。今度は、もう直すべき場所はどこにも見当たらなかった。
茜は右手の手なぐさみに、コマンドを叩いてデータを上書き保存した。画面の隅に、一瞬だけ『保存完了』の小さな文字が灯り、すぐに消えた。
彼女は頭を椅子のヘッドレストへと預け、画面に並んだ文字列を、胸の奥に湧き上がる静かな安堵とともに見つめ続けた。物語の旅路はまだ始まったばかりで、これから先、直さなければならない歪みや不手際はいくらでも出てくるだろう。明日になれば、また自分の書いた一文がひどく不格好に思えるかもしれないし、全体のテンポを保つために、苦労して書いた段落を丸ごと消し去らなければならない局面も訪れるはずだ。
けれど、この静まり返った夜の時間だけは。茜は、シーナとミナミの新しい歩みを、ただこの場所で静かに休ませてあげることに決めた。
画面の向こうで、小さな黒いカーソルが、薄暗い部屋の静寂の中で規則正しく明滅を繰り返している。それは何も喋らず、ただ静かに、次の夜が訪れて新しい物語の糸が紡がれる瞬間を、じっと待ち続けていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この作品を書き始めてから、何度も「本当にこの物語でいいのだろうか」と迷うことがありました。
それでも、書き終えた物語は、誰かに読んでもらわなければ始まりません。
もしこの先も茜たちの物語を読んでみたいと思っていただけたなら、
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皆さんからいただいた反応のひとつひとつが、
この物語を書き続けるための力になります。
これからも、自分が最後まで読みたいと思える物語を、丁寧に書いていきます。
それでは、次の章でお会いしましょう。




