第11章 本棚の景色
茜を乗せて走り続けていた通勤快速は、駅のホームへと滑り込みながら滑らかに速度を落とし、やがて完璧な静止を迎えた。
プシューという短い排気音とともに自動ドアが開く。次の瞬間、無言のまま階段を目指す人間の波が一気に外へと流れ出した。形を崩さない四角いビジネススーツ、重そうに膨らんだリュックサック、小さく揺れる制服のスカート、そしてスーパーマーケットのポリ袋。そこにいる無数の足は、それぞれの目的地へ向かって、淀みのないリズムで歩みを進めていた。
茜もまたその巨大な集団の渦の中に自分の身体を預け、流されるようにして改札口の向こう側へと出た。外の空気は、昼間のあのねっとりとした不快な蒸し暑さが嘘のように引き、昨日までの雨の名残を孕んだアスファルトの匂いが、夜道の舗装路にどこまでも冷涼に漂っていた。
アパートへと続く大通り沿いには、夕闇の訪れを告げるように様々な店のネオンサインが一つ、また一つと点り始めていた。今日最後のパンを並べ終えたベーカリーの温かい灯り、白い蛍光灯を放つドラッグストア、そして四角い光を路面に落としながら、休むことなく稼働し続けるコンビニエンスストア。
その規則正しい景色の中で、茜の足取りは、ある一軒の小さな店の前で唐突に速度を落とした。控えめな木製の看板を掲げた、街の古びた本屋だった。
今夜、最初からここに立ち寄る予定があったわけではない。しかし、昨日あの狭い編集室で佐藤さんと交わした、あの息の詰まるような対話の残響のせいだろうか。彼女の視線はまるで目に見えない磁石に引っ張られるようにして、何度もその店の大きなショーウィンドウのガラスへと吸い寄せられてしまったのだ。
大通りに面して背表紙を整然と並べた新刊の小説たちが、家路を急ぐ人間たちを誘惑するように並んでいる。そのいくつかの帯の隅には、鮮やかな赤い文字で『三刷決定』と誇らしげに印刷されていた。また別の棚の特等席には、鈍く光るホログラムのステッカーで『当店激推し』という文字が踊っている。
ガラスの扉を静かに押し開けると、ドアの枠に吊るされた小さな真鍮のベルが、チリンと硬質で優しい高音を響かせて彼女の到来を告げた。
店内の空気は、自分の働くカフェのあの目まぐるしい狂乱とは、完全に異なる静寂に包まれていた。ここには、エスプレッソマシンが激しく蒸気を噴き出す金属音もなければ、注文を遮るように湧き上がる客たちの騒々しいお喋りもない。ただ、空間の隙間を埋めるようにして、ボリュームを極限まで絞ったクラシックの旋律が、かすかな残響となってフロアの隅々まで染み渡っているだけだった。
天井まで届きそうな松材の本棚が幾重にも並び、紙の束とインクの混ざり合った特有の落ち着いた匂いが鼻腔をくすぐる。通路の奥では、茶色のエプロンを纏った店員が、問屋から届いたばかりの段ボール箱から新しい書籍を取り出し、几帳面な動作で棚へと整列させていた。少し離れた静かな一角では、一人の幼い子供が床に胡坐をかいて熱心に絵本の世界に没頭しており、その傍らでは、母親が静かに週刊のファッション誌のページをめくっていた。
茜は迷いのない足取りで、木製の階段を上って二階のフロアへと向かった。足を乗せるたびにギィ、ギィと小さく軋むその階段の音は、数ヶ月前にここを訪れた時とまったく同じ周期を保っており、時間の経過を正確に教えてくれた。
夕方の二階フロアは、嘘のように客の姿が途絶えていた。空間を支配する静寂があまりにも深いため、遥か向こうの隅の席で誰かがページをめくる摩擦音すら、衣服の擦れる音のように鮮明に耳へと届いた。茜はゆっくりと歩を進め、棚と棚の間に形成された狭い回廊を巡りながら、分類されたフィクションの背表紙を目で追っていった。――ミステリ、ロマンス、ファンタジー、純文学。
茜の右手の指先が、隙間なく整然と並んだ無数の本の背を、なぞるようにして滑っていく。特定のタイトルを探しているわけでも、お気に入りの作家の新作を求めているわけでもなかった。彼女はただ……この言葉によって織り上げられた世界そのものの質量を、一番近い場所から、五感のすべてを使って確かめたかったのだ。
何度も見知らぬ他者の手に取られ、再び戻されることを繰り返したせいで、カバーの色が褪せて角の紙が不格好に剥がれかけている本がある。他方で、帯の紙がまだ硬く突っ張ったまま、ただの一度も誰の体温にも触れられたことのない新刊の束もある。いくつかの背表紙に印刷された作家の名前には確かに見覚えがあったが、その大半は、彼女のこれまでの人生の中で一度も目にしたことのない、実在の他者たちの名前だった。
茜の歩行の軌道が、小さなディスプレイ棚の前でぴたりと停止した。その棚の上部には、几帳面な手書きの文字で、このようなポップが掲げられていた。――『編集者おすすめの今月の一冊』。
茜の唇の端が不自然にピクリと動き、ささやかな笑みの形を作った。
「……」
脳裏に、あの感情を綺麗に削ぎ落とした佐藤さんの顔が不意にフラッシュバックしたのだ。もしあの頭の固いベテラン編集者がこんな宣伝文句を目にしたら、きっと鼻で笑いながら、長々と嫌味の混じった説教を始めるに違いない、と心の中で思った。あの人にとって、本というのは読者の厳しい目の審査によって選ばれるべきものであり、編集者の勝手な好みによって誘導されるべき代物ではないからだ。
茜は手を伸ばし、その棚から一冊の文庫小説を抜き取った。それほどぶ厚い本ではなく、カバーのデザインも、過剰な装飾や鮮烈な色彩を排したきわめて簡素なものだった。彼女が最初の一ページを開き、紙とインクの混ざり合った特有の匂いを吸い込んだ瞬間、彼女の視線は、第一章の最初の一文にぴたりと止まった。
一度読み終えたその一文を、彼女はもう一度、最初の一文字から追い直した。
――なぜこの作家は、物語の最初の一歩を、このような文章の構造から始めることを選んだのだろう。なぜ、二人のキャラクターの会話をあえて最初の一ページ目には配置せず、次のページまで遅らせたのだろう。なぜ作者は、主人公の人格をすぐに説明することをせず、まずは世界を濡らす雨の細部を読者の網膜に見せることを優先したのだろう。
問いは次々と湧き上がり、目の前のテキストを解剖していく。しかし、彼女の指先がその文庫本のページを何枚かゆっくりとめくっていくうちに……頭の中でうるさく鳴り響いていた問いは、潮が引くように綺麗に消えていった。
いつしか茜は、ただ一人の読者として、その物語の中へ入り込んでいた。
彼女がようやくその文庫本を閉じ、パタンと静かな音を立てて手元に戻した時、ガラス窓の向こうに広がる東京の空は、いつの間にか初夏の夕焼けに染まっていた。
*
店を出て夜の歩道へと足を踏み出した瞬間、ドアの真鍮ベルが再びチリンと鋭く鳴り響いた。
茜の左手には、中身の詰まった適度な質量を持つ茶色の紙袋が握られており、歩調を緩めた彼女の足取りに合わせて、それは膝の脇で小さく揺れていた。夕方の残光はまたたく間に街の輪郭をぼかし、冷たい夜の帳がすべてを均一に塗りつぶしていく。周囲のオフィス街のビルの窓灯りが、まるで地上の蛍の群れのように一つ、また一つと点り始めていた。
トレーニングウェアを纏った男子高校生が、自転車のペダルを激しく漕ぎながら、彼女のすぐ脇を追い抜いていった。道路脇の木造住宅の開かれた窓の隙間からは、週末のテレビ番組の賑やかな笑い声がかすかな残響となって漏れ聞こえてくる。アパートへと続く最後の角を曲がると、小さな定食屋の厨房から漂ってきた濃厚なカレーの匂いが風に乗って運ばれ、彼女の空腹の胃袋を静かに刺激した。
周囲を行き交う人間たちの営みも、そこに転がっている景色の断片も、いつも通りあまりにも退屈で、あまりにも単調だった。けれど、そのありふれた日常が、何ひとつ狂うことなく当たり前に続いていることが、今夜の茜には不思議なほど心地よかった。胸の奥に、これまで感じたことのない深い平穏が、静かに染み渡っていった。
*
アパートの古い木製のドアが完全に閉まり、内側から鍵を回した瞬間、四畳半の狭い空間は、彼女の生活に染み付いたあのお馴染みの夜の静寂によって、再び完全に満たされた。
茜は使い古したキャンバスバッグを折りたたみ机の脚の隣へと下ろした。買ってきたばかりの文庫本が入った茶色の紙袋は、未だ口を閉ざしたまま沈黙しているあの黒いノートパソコンのすぐ真脇へと並べて置かれた。しかし、今夜の茜は、すぐにマシンの電源ボタンを押し下げるような真似はしなかった。
彼女は小さなユニットキッチンへと歩み、一口のガスコンロのスイッチを入れて、お湯を沸かし始めた。温まった湯をマグカップの中のティーバッグへとゆっくりと注ぎ込み、それから再び、部屋の中央にある折りたたみ机の前へと戻って胡坐をかいた。
買ってきたばかりの小説を、再びゆっくりと開く。彼女はただ、一人の読者として物語の温度を愉しむためだけにページを追った。
静かな時間の流れの中で、彼女の指先は紙の表面を次々とめくっていった。傍らに置かれたマグカップからは、いつの間にか温かい湯気が立ち上るのをやめ、時間の経過とともにゆっくりと冷めていった。完全に閉ざされたガラス窓の遥か向こう側では、夜の最終列車とおぼしき鉄の塊が、レールの鉄輪を削る鈍い轟音を数秒間だけ響かせ、やがて潮が引くように静寂の底へと消えていった。
文庫本のページの隙間に、再び布製のしおりが静かに差し込まれた時、室内の薄暗がりは、先ほどよりもさらに深い夜の色彩を帯びていた。茜が衣装ケースの上に置かれたアナログの掛け時計へと視線をやると、針はすでに午後十時の境界線を完全に越えていた。
彼女は、その上質な物語の終わりに対する無言の敬意を払うようにして、きわめて緩慢な動作で文庫本を閉じた。数秒の間を置いて、彼女の右の手のひらが滑るように移動し、まだ固く口を閉ざしたままの黒いノートパソコンの天板の上に、そっと重ねられた。
そして――カチリ、と。
漆黒の画面がゆっくりと発光した。
薄暗い部屋の中央に、白い光が広がっていく。
小さな黒いカーソルが、明滅していた。
茜はしばらくそれを見つめてから、指をキーボードの上に置いた。




